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夜に属する  作者: マエタロウロア
第一章 敗者の街
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橋の上

橋の上に立った瞬間、笹山は嫌な予感がした。


音が、少なすぎる。

車の走る音も、人の声も、どこか遠い。

道頓堀の川だけが、下で一定の速さを保って流れている。


前沢は、チャカをしまい橋の中央に立っていた。

街灯の光が、彼の顔を半分だけ照らしている。


「……なんや、その顔」


笹山がそう言うと、前沢は一瞬だけ目を伏せた。

その仕草が、やけに見覚えのあるものに思えた。

昔、焼肉屋で会計を押しつけ合ったときと、同じだ。


「兄貴」


前沢は、ゆっくりと顔を上げた。


「俺、ちゃんと話したかったんすよ」


ちゃんと、という言葉が引っかかる。

この世界で「ちゃんと」なんてものは、最初から存在しない。


「今さらやな」


笹山はそう言ったが、声に力が入らなかった。


前沢は何も言わず、距離を詰めてきた。

三歩。

二歩。


笹山の身体が、勝手に構えを取る。

喧嘩は何度もしてきた。

だがこれは、今までと違う。


拳が飛んできた。

避けきれず、頬に衝撃が走る。


視界が、一瞬白くなる。


反射的に殴り返す。

当たった感触はあるが、手応えが薄い。

前沢は、もう次の動きに入っている。


——迷いがない。


それが、一番きつかった。


殴るたびに、前沢は少しずつ距離を詰めてくる。

まるで、逃がさないと言っているみたいだ。


「なんでや」


息を吐く合間に、笹山は言った。


「なんで、そこまでせなあかん」


前沢は答えなかった。

ただ、拳を振るう。


笹山は、はっきりと理解した。

前沢はもう、笹山個人を見ていない。

“兄貴”でも、“舎弟”でもない。

ただの障害物だ。


その理解が、足を鈍らせた。


次の瞬間、視界が大きく揺れた。

足元の感覚が、消える。


背中に、確かな力。

押されたのか、突き飛ばされたのか、分からない。


ただ、身体が宙に浮いた。


夜空が、やけに近い。

橋の欄干が、逆さまに遠ざかる。

ネオンの光が、滲む。


落ちている、と理解する前に、水が来た。


冷たい。


音が、消える。


身体が、川に飲み込まれる。


息を吸おうとして、できなかった。

口の中に、水が流れ込む。

肺が、拒絶する。


重い。

何もかもが、重い。


(ああ……)


思考が、ほどけていく。

前沢の顔。

焼肉の煙。

ネギ塩タン。

どうでもいい記憶ばかりが浮かぶ。


(俺は……)


最後まで考えきれなかった。



意識が戻ったとき、世界は別の匂いをしていた。


鼻を突く、腐った甘さ。

生ごみと油と、雨に濡れた紙。


目を開けようとして、うまくいかない。

まぶたが、重い。


少しずつ、視界が形を持つ。


黒い袋。

潰れた段ボール。

割れた瓶の反射。


身体の下が、固い。


「……」


声を出そうとしたが、喉が鳴るだけだった。


ここは、川じゃない。

それだけは、分かる。


遠くで、誰かが笑っている。

笑い声の質が、大阪と違う。

乾いていて、切れがある。


笹山は、ゆっくりと上半身を起こした。

全身が痛む。

だが、致命的ではない。


頭を動かすと、視界の端に光る文字が入った。


——歌舞伎町。


見慣れない。

だが、テレビや雑誌で見たことのある文字だ。


「……は?」


声が、ようやく出た。


意味が、追いつかない。

どう考えても、ここは大阪じゃない。


夢だと思おうとした。

だが、臭いも痛みも、あまりに現実的だった。


口の中に、鉄の味。

唇が切れているのが分かる。


笹山は、ゴミだまりの中で、しばらく動けなかった。


川に落ちた夜が終わったのか、

それとも、続いているのか。


分からない。


ただ、街だけが変わった。


大阪の夜よりも、

この街の夜は、さらに無関心だった。


歌舞伎町は、笹山を見ていない。

最初から、存在していないみたいに。


その事実だけが、

妙に静かに、胸に落ちてきた。

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