負け犬の距離
夜は、約束どおりやってきた。
上山のキャバクラの裏口を出て、
指定された場所へ向かう道すがら、
笹山は一度も口を開かなかった。
(……来る)
それだけは、確信している。
沢見拳は、
「待たせる」タイプじゃない。
歌舞伎町の外れ。
工事が止まったままの高架下。
湿った空気と、
コンクリートの匂い。
「私、ここで待ってます」
上山が言った。
「いいえ」
笹山は、首を振る。
「離れてください」
声は静かだったが、
それは命令に近かった。
上山は一瞬だけ迷い、
やがて頷く。
「……絶対、戻ってきてください」
「ええ」
そう答え、
笹山は闇の中へ進んだ。
――いた。
高架の影に、
腕を組んで立つ男。
「遅ぇよ」
沢見拳。
あの時と同じ、
余裕を含んだ笑み。
「警察相手に派手にやった割に、
逃げるのは上手くねぇな」
「……」
「その女は?」
「関係ありません」
「へぇ」
沢見は、
一歩、前に出る。
「じゃあ、始めるか」
合図も、
構えもない。
次の瞬間、
拳が飛んできた。
――重い。
前回よりも、
明らかに重い。
受けた瞬間、
腕が痺れる。
(……違う)
(あの時より、速い)
避けきれない。
蹴り。
肘。
膝。
一つ一つが、
的確に急所を狙ってくる。
「どうした?」
沢見が笑う。
「前より、動き悪ぃぞ」
息が、
乱れる。
足が、
重い。
「……っ」
反撃を試みるが、
読まれている。
カウンター。
視界が揺れ、
地面が近づく。
膝をついた瞬間、
顎に衝撃。
完全に、
持っていかれた。
「……終わりだな」
沢見は、
倒れた笹山を見下ろす。
「悪くはねぇ」
「だが――弱い」
その言葉が、
何よりも重かった。
(……またか)
(また、負けるのか)
沢見は、
背を向ける。
「今度こそ、
殺す理由ができたら、
その時は容赦しねぇ」
足音が、
遠ざかる。
残されたのは、
自分の荒い呼吸だけだった。
「……」
どれくらい、
倒れていたか分からない。
「……慎二!」
駆け寄ってくる足音。
上山だった。
「……私」
声が、
うまく出ない。
「動かないでください!」
上山は、
必死に支えようとする。
「……負けました」
「……」
「また、です」
上山は、
何も言わなかった。
ただ、
強く、笹山を抱えた。
その温もりが、
今は、痛かった。
(……守るって言ったくせに)
(何一つ、できていない)
キャバクラに戻り、
簡単な手当てを受ける。
鏡に映る自分は、
酷い顔をしていた。
「……慎二」
上山が、
静かに言う。
「無理、しないでください」
「……いいえ」
笹山は、
首を振る。
「無理を、します」
上山が、
目を見開く。
「このままじゃ、
終われません」
「でも――」
「俺は」
その瞬間、
一人称が戻った。
「俺は、弱い」
上山の前で、
初めて、
はっきり言った。
「だから――」
拳を、
強く握る。
「強くなります」
「逃げるためじゃない」
「守るためです」
上山は、
しばらく黙っていた。
やがて、
小さく、笑った。
「……分かりました」
「待ちます」
その言葉が、
胸に刺さる。
翌朝。
笹山は、
一人で街を出た。
目的地は、
まだ決まっていない。
だが、
やることは一つ。
――修行。
喧嘩じゃない。
殺し合いでもない。
生き残るための、力を
手に入れる。
(……次は)
(必ず、立っている)
沢見拳の顔を、
脳裏に焼き付けながら。




