静かな標的
歌舞伎町の路地裏を抜け、
二人はようやく足を止めた。
背後から追ってくる足音はない。
怒号も、サイレンも、
今は遠い。
「……逃げ切れましたね」
上山が、息を整えながら言った。
「ええ」
笹山は短く答える。
(だが――終わりじゃない)
その感覚は、
体の奥に重く沈んでいた。
二人が警察署から逃げ出した事実は、
もう“個人的な出来事”ではない。
数時間後。
街角の電器屋のテレビから、
聞き慣れたニュースの音が流れていた。
《本日未明、歌舞伎町警察署にて――》
《拘束中の危険人物が逃走》
《警察官数名が負傷――》
画面に映るのは、
ぼかされた警察署の外観。
名前は出ていない。
だが、
“元暴力団関係者”という言葉が、
はっきりと響いた。
「……敵に回しましたね」
上山が、静かに言う。
「はい」
否定はしなかった。
警察だけじゃない。
この報道は、
関東連合の耳にも、必ず届く。
沢見拳の顔が、
一瞬、脳裏をよぎる。
(あいつらは、獲物を逃がさない)
だが――
今は、考えすぎないことにした。
「少し、休みましょう」
笹山が言うと、
上山は意外そうに目を瞬かせた。
「……本気ですか?」
「はい。本気です」
走り続ければ、
判断を誤る。
それくらいのことは、
分かっていた。
「ねぇ」
しばらく沈黙が続いたあと、
上山が口を開いた。
「ちょっと、出かけない?」
「……出かける?」
「ええ。デート、みたいなやつ」
その言葉に、
笹山は一瞬だけ言葉を失う。
だが、
上山の表情は真剣だった。
「ええ、いいですよ」
そう答えると、
上山は小さく笑った。
二人が向かったのは、
歌舞伎町の外れにある
古いバッティングセンターだった。
金属音と、
機械の唸り。
夜でも、
そこだけは時間が止まっている。
「ここ、好きなんです」
上山が言う。
「何も考えなくていいから」
ヘルメットを被り、
バットを握る。
「……もし」
上山は、
マシンの前で振り返った。
「これでホームランが打てたら、
伝えたいことがあるんです」
「……分かりました」
一球目。
空振り。
二球目。
ファウル。
三球目。
芯を外し、
ネットに当たる。
それから、
時間だけが過ぎていった。
一時間。
汗だけが増え、
ボールは、
フェンスを越えない。
結局、
ホームランは出なかった。
「……だめですね」
上山は、
少し照れたように笑った。
「でも、いいんです」
「?」
「今は、言わなくても」
その横顔を見て、
笹山は気づく。
この人は、
もう答えを出している。
(……私は)
何も言えなかった。
言葉にすれば、
守れなくなる気がした。
二人は、
静かにその場を後にした。
身を隠すため、
拠点である
上山のキャバクラへ戻る。
店の前に立った瞬間、
違和感が走った。
「……灯りが」
中から、
微かに明かりが漏れている。
「誰か、います」
慎重に扉を開ける。
中は、
荒らされた様子はない。
だが――
気配だけが、残っていた。
カウンターの上に、
一通の封筒。
「……これは」
笹山が手に取る。
その時、
背後から、
低い声がした。
「今夜、ここで待ってる」
振り返った瞬間には、
もう誰もいない。
気配だけが、
煙のように消えていた。
封筒を開く。
中には、
簡潔な文字。
・今夜、会う場所
・時間
・そして――
関東連合
沢見拳の情報
そこには、
彼の行動範囲、
癖、
そして一行だけ、
赤ペンで書かれていた。
――
「次は、一対一だ」
笹山は、
ゆっくりと紙を折った。
「……来ますね」
上山は、
何も言わず、頷く。
嵐は、
終わっていなかった。
ただ、
形を変えて、
近づいているだけだ。




