川は何も映さない
1987年5月17日。
大阪の夜は、金属みたいに湿っていた。
道頓堀の川沿いを、ひとりの男が歩いている。セブンスターをくわえ、火をつける。吸い込んだ煙が肺に落ちていくのが、はっきり分かる。ネオンは派手だが、光はどこか疲れていた。
川面は黒い。
覗き込んでも、顔は映らない。
笹山慎二、二十歳。
年齢を言うと、たいてい相手は一瞬黙る。どう見ても若くはない。しわの入り方が早い顔をしているせいで、組の中では冗談交じりに「おっさん」と呼ばれていた。
松山組の末端。
極道になった理由は、深く考えたことがない。強いて言えば、子どもの頃に見たゲームや映画の中の世界が、少し眩しく見えただけだ。気がついたときには、引き返せない場所にいた。
数日前、組のカシラに呼ばれた。
狭い部屋。畳。灰皿。
カシラは多くを語らなかった。
「女を一人、消せ」
それだけだった。
女が持っているのは金ではない。
金へ辿り着くための“鍵”。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
(俺に、できるんか)
答えは出ていない。
だからこうして、川を見ている。
周囲では、酔った若者が大声で笑い、別の場所では喧嘩が始まり、すぐに警察が来る。誰かが連れていかれる。代わりに、また誰かが現れる。街は、それを繰り返すだけだ。
笹山はタバコを足元に落とし、靴で火を消した。
腹が減っていることに気づく。晩飯を買いに行こうと、身体の向きを変えた。
そのときだった。
「あ! 兄貴!」
声に振り向くと、前沢篤司が立っていた。
十九歳。舎弟。少し前まで、まだ制服を着ていそうな顔だ。
「どうしたんや、こんな時間に」
「兄貴見つけたんで……焼肉どうかなって」
またか、と思う。
だが、断る理由が見つからない。
「……飽きへんのか」
「飽きないっすよ、焼肉は」
しばらく黙ってから、笹山は言った。
「しゃあないな」
前沢は子どもみたいに跳ねた。
その無邪気さを見ると、笹山はいつも少しだけ後悔する。
店は「みっちゃん」。
煙が低く漂い、肉の焼ける音が絶えない。店長の声が、店全体を支配している。ここだけ時間が止まっているみたいだった。
席に着くと、生ビールとネギ塩タン。
決まりきった順序。
ビールが喉を通る。
苦味が、身体の奥まで落ちていく。
肉が焼けるのを待つあいだ、前沢は落ち着きなくガラケーをいじっていた。
やがて、写真を一枚、机に置く。
「兄貴、この女……」
一目で分かった。
探している女だ。
写真の中の女は、何も語らない。
だが、その沈黙が金より重いことは、笹山にも分かった。
「組全体で回ってきてるみたいっす。幹部も動いてるって」
笹山は頷くだけだった。
それ以上、何も言う気になれなかった。
肉が運ばれてくる。
煙が上がる。
話は、それきり途切れた。
二時間後。
腹は満ち、頭が少し鈍い。
店を出ると、時計は深夜を回っていた。
道頓堀は、さっきより静かだ。
別れようとしたが、前沢がついてくる。
距離が、妙に近い。
「……なんや」
「別に」
嘘だと分かる。
前沢は、何かを待っている。
背後に回られた瞬間、笹山は悟った。
「兄貴、俺……今日で組、辞めるんす」
「それで?」
「だから……あの女の件、これ以上首突っ込まんといてください」
冷たい感触が、背中に当たる。
チャカだ。
「……冗談やろ」
「冗談やったら、楽やったんすけどね」
前沢の声は、震えていた。
夜のせいか、恐怖のせいか、分からない。
「死ねや、笹山」
川は、相変わらず何も映さなかった。




