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【小説】便所サンダル木林

掲載日:2025/12/14

「レースから逃げ出した鳩は落ちこぼれなの?」

「野性を取り戻したんだろ」

 喫煙所のドアを開けて入ってきた新たな愛煙家に目をやる。

 入れ替わり立ち替わる新入り。

 立てるスペースを探して見回す。

 誰も奥に詰めたりしない。

 喫煙所は非協力的な人間の溜まり場だ。

 だが東京でも有数の豪華なスペースだ。

 人口過密の街に人数制限を設けて6畳ほどのスペースに2、3人しか詰め込まない。

 お互いの合間を埋める白い煙は薄い。

 かつて濃く立ち込めていた煙を懐かしく思う時すらある。


「それで何の話だっけ?」

「街から野良猫が消えたって話さ」

 煙を吐き出す。

 煙草を吸い終わればここから出るしかない。

 それは秩序だ。

 社会の鍵そのもの。

 ポケットの中からキーを取り出す。

 差し込んで回す。

 マフラーが震える。

 煙を吐き出す。

 唸りを上げてYAMAHA-SDR200が走る。アスファルトの上をタイヤが転がり寒春色をした粘度の高い雨を切り裂いて細い車体が進む。

 クラッチを切る。

 アクセルを戻す。

 ペダルを蹴る。

 ギアが上がる。

 クラッチを戻してアクセルを開ける。

 SDR200は速度を上げる。

 警告灯が点く。

 明治大学前の立体交差に並ぶ車をすり抜ける。



 甲州街道の立体交差で轢かれたかつて鼠であった存在は何度もタイヤに轢かれて紙の薄さになっていた。

 誰も自治体に電話をしないから回収を依頼されない齧歯類の死体。

 存在の耐え難い軽さと薄さ。

 もうそれがおれであると言う錯覚は起こさなくなった。

 それは成長だ。

 同じようにSDR200でその上をなぞる事にも大した罪悪感を持たなくなっていた。

 それは若かった自分に対する裏切りだ。

 薄くなった死体。

 それはかつて鼠であった。

 いまは物体だ。

 しかも価値が無い。

 それが鼠仲たちの間で間抜けだったのか英雄だったのかは知る由も無い。

 知ったところでどうにも出来ない。

 気付かずに何度も轢くより気付いていながら轢く方が罪は重い。

 それは今の自分に対するせめてもの咎だ。


 ひとつの小さな死を悼むこともない。

 そいつは犬や猫でもない。

 どうする事もできない。

 価値が無いからだ。

 SDR200を止めて渋滞を引き起こしながらかつて鼠であった薄い物体を回収する意味や価値を持たない物体。

 仮にその鼠だった物体を拾い上げたところで俺の人生が上向いたりしない。

 以前に見かけた鳩の死体も同じだ。

 いくら知恵なんてのがついたところで出来る事は限られている。

 無駄な手足を動かす首の上に乗せた派手な飾り。

 それらをまとめて乗せて走るYAMAHA-SDR200は普通のバイクより余計にガスを飲んで余分に二酸化炭素を吐き出す。

 無駄の塊が転がる。

 個人的な快楽と引き換えだ。



「来年の夏は花火を見に行こう」

「隅田川とか長良川とか」

「混んでるのは厭だな」

「どこも混むよ」

「まぁ、それでもいいか。小さな花火大会でもいい」

「それなら浴衣が欲しいな」

「銀色のやつでいいかい」

「それは来年になったら着るためかしら」

 縁側に座った彼女は団扇を仰ぐ手を止めてこちらを見た。

 それはおれの記憶だ。

 彼女が背にしていたのは綺麗な夕焼けだった。

 大抵の場合に空はレンブラントの描く絵より美しくない。

 けれどその日は違った。

 美しい空だった。

 もしかしたらそれは神みたいな存在がレンブラントに描かせたのかも知れない。

 だとしたらそのうちゴッホの様な夜空もお願いしたい。

 死ぬ日なら印象的な夜にしたい。

 蚊取り線香の煙がうつろに舞う。

 煙草の煙が寂しそうに漂う。

 白熱灯の柔らかい光が薄い影を彫る。

 畳の上に細い蛇が這って消える。

 盥の中に置かれた氷が静かに溶ける。

 夏の終わり。

 糊の効き過ぎた浴衣は灰色で俺たちが語る銀色の着物とは少し違う。

 風鈴が渇いた音を立てる。


 ちりん。


 YAMAHA-SDR200から鍵を抜き取る。

 他のバイクキーだとか家の鍵だとかが触れあって淫靡な音を立てた。

 疲労。倦怠。

 自己顕示欲。

 怠惰。渇望。

 諦観。


 ちりん。



 病院の裏に停めたSDRは静かに残った熱を吐き出している。

 パジャマを着た老人がベンチに座って煙草を吸っている。

 点滴台を引きずったままの腕は細く老人が物体になる日は近いんだろうとおれは思った。

 それはおれの感想だ。

 事実ではないかも知れない。

 老人は茶色いサンダルを履いていた。

 黒いマジックペンで縦に「木林」と書いてあった。

 それが森であると気付いたのは俺の家に縁側が無い事を思い出したのとほぼ同時だった。

 あれはおれの妄想であった。

 願いや祈りではなかった。

 見上げたその空はレンブラントが描いた絵の様に美しい空では無かった。

 冬の終わり。

 夕方を告げる雲の無い空だった。

 おれは広いベッドに独りで座っていただけだった。

 おれは名前が思い出せなかった。

 ここは喫煙所ではなかった。

 だがもうここに居られないのがわかった。


 ちりん。

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