第5話 ――深層への門――
第八層に足を踏み入れた瞬間、空気よりも重い瘴気が肌を撫でた。呼吸のたびに喉がざらつき、肺が軋む。前層とは比べものにならない濃度だ。
「……《聖光還流》」
オーリスが小さく詠唱する。彼女の杖の先から白い光が流れ出し、淡く私たちを包んだ。癒しではなく、浄化の魔法。瘴気を押しのけ、魔力の循環を保つための防護術だ。
「これで呼吸は楽になります。完全にとは言えませんが」
「十分だ、助かる」
エルドが短く応じ、周囲を警戒する。
――第八層、深層区。
ここから先は、“常識”が通用しない。
壁面に刻まれた古代文字、粘つく瘴気を纏う空気。遠くの暗闇で、何かが蠢く。音はしない。けれど、確かに“生きている”気配がある。
「来ます――!」
氷雨の低い声。その瞬間、黒い影が霧の中から飛び出した。
甲殻を持つ獣――瘴壊虫。
体長は人の二倍、外殻は魔鉄に匹敵する硬度を誇る。
単体でも危険だが、群れを成すと軍規模の脅威になる。
「三体、正面。後方にも一体」
エルドが矢を放つ。鋭い風切り音とともに、六本全てが瘴壊虫の眼を的確に貫く。だが、奴らは怯まない。壊れた眼から瘴気を噴き出しながら突進してきた。
「《幻影》展開」
氷雨が呟く。霧が揺らぎ、前方に“瘴壊虫の群れ”が現れる。
その幻に惑わされた瘴壊虫が、錯乱して暴走。
リディアが詠唱を重ね、炎の魔力が彼女の杖を包んだ。
「――《焔撃衝波》!」
轟音とともに、紅蓮の奔流が駆け抜ける。
瘴壊虫たちは焼き尽くされ、黒い灰を残して崩れ落ちた。
――氷雨の幻影は実体こそ無いが、
精神誘導・擬似具現の領域にある。目を潰された瘴壊虫ですら騙されるのはそういうことだ。幻影師の金位は伊達ではない。
……ちなみにオーリス、幻影食ダイエットをたまに頼む。
あと後方の一体は既にトゥリオが盾で殴って叩き壊していた。
強い。
*
時間の感覚が曖昧だが、半刻程は経過しただろうか。
「ふぅ……やはりこの層、敵の密度が高いのお」
リディアが軽く汗を拭う。ここまでいくつかのポイントを突破してきたが、まだまだ先は長いようだ。エルドは無言で矢を番え、先を見据えた。
私も周囲を観察する。岩壁には何重にも魔法の痕跡が残っていた。おそらく、これまでに挑んだ者たちの“足跡”だ。そして、そのほとんどが途中で途切れている。
――残された魔法の痕跡に、違和感を覚えた。このダンジョンは最上位の探索者でないとそもそも探索が出来ない。つまりこれは…
――前回の探索で、『光焼く翼』がここに到達した時の痕跡だ。
「……残ってる?」
私は思わず呟いた。
第八層の瘴気濃度は、常人なら数分で意識を失うほど濃い。
魔力残滓も、半日どころか数時間で掻き消えるのが普通だ。
それなのに、これは……明確に“形”を保っている。
「ねえリディア?」
「ん、なんぞ?」
「前回、ここで魔法使った?結構派手なの」
「使ったぞ。ほれ、あの壁。あれ、儂の《焔撃衝波》じゃ」
リディアが指差した先――生物の一部のような岩肌の一角には、炎の軌跡がそのまま残っていた。黒と赤が入り混じり、まるで“今”放たれたような鮮明さ。
「……二日以上は経ってるのに、消えてない」
オーリスが近づき、手をかざす。
聖印の光が淡く灯り、魔力の残滓を読み取る。
「多分、魔力の流れが……止まってるのだと思う。
瘴気が抑えてるというより“閉じ込めてる”」
「閉じ込めてる?」
私の質問に、オーリスが頷いた。
「通常なら瘴気が魔力を分解する。
でもこれは逆。瘴気が、魔力を固定してる。
まるで、この層そのものが魔力を“保存”してるみたいね」
保存。
その単語に、ぞわりと嫌な予感が走った。
――魔力を保存するダンジョン。
それはつまり、誰かの力や痕跡を、意図的に“溜め込んでいる”ということ。
まるで、ここ全体が“蓄魔の器”であるかのように。
「……つまり、魔法を使えば使うほど、この層に“蓄えられる”」
エルドの声が低く響く。
「そして何かの拍子に、それが一気に放出されれば――」
「この階層ごと吹き飛んだりしてのお」
リディアがあっけらかんと言い放つ。
その言葉が冗談でないことは、全員が理解していた。
「以後、魔法の使用は最小限に。
クー子、例の扉の解除までは任せる」
「了解」
私の返事を合図に、空気が一段と張り詰めた。
足音さえ、沈んだ岩床に吸い込まれていく。
灯りは最低限。光源はエルドの持つ導光石と、オーリスの浄化光だけ。
それ以上を照らせば、魔物たちの感知範囲に触れる恐れがある。
前衛のトゥリオが盾を構え、氷雨が先行して幻影を散らす。
敵の索敵網を乱しながら、エルドが小さく指を動かすだけで全員が無言のまま進行を調整した。
――呼吸一つの乱れも許されない。
それが、八層を生きて抜けるための“常識”だった。
湿った風の中に、瘴気とは異なる金属臭が混ざる。
壁面を走る魔力脈動は先ほどよりも強く、まるでこの階層そのものが、侵入者に反応しているかのようだ。
「この階層、前回はタイラントオーガどころか、エルダードレイクまで湧いたからのう。出る敵の格が、もはや上位種固定じゃ」
エルドが地図を確認しながら、前方を見据えた。
「警戒を続けろ。階層主の領域が近い」
進むほどに、道はより複雑に絡み、周囲の岩壁から魔力のうねりが伝わってくる。
「……来たわね。扉、あれだ」
オーリスが指差す先、巨大な石扉が瘴気の中に浮かび上がる。
複雑な魔紋が刻まれ、雷属性の魔力が脈動している。
「この扉が、前回は物理も魔法も通らなかったものです。」
エルドの報告に、私は頷く。
「雷の魔力を内部に“流し込む”構造。充填が条件なら、私の付与で動かせるはず」
「儂の魔法でどうにかならんかとも思ったんじゃが…」
「リディアの雷魔法じゃ、この扉は動かないよ。魔導回路に稲妻を叩き込んでも、壊れるだけで充填にはならないってこと。付与の本質は“電気を流す”んじゃなくて、“流せる形にする”の。」
杖の先端で扉に触れ、詠唱を始める。
「――“雷”の加護よ、流路を正し、門を開け」
淡い光が杖の先に集まり、紫電が走る。
次の瞬間、雷光が内部を走り、魔紋が一筋また一筋と消えていく。
数秒後、音を立てて封印が解け、扉がゆっくりと開いていった。
「……成功、か」
エルドの声が低く響く。
私は肩の力を抜きながら、手元の杖を下ろした。
「これくらい、当然よ。指名されて来てるんだから」
「そうかな……」
「そうかも……」
背後でリディアとオーリスが顔を見合わせて小声で呟く。
――なにその反応。
二人の声がやけに引っかかって、私は思わず頬を膨らませた。
Q.クー子がこの扉は付与師じゃなくても開けるの不可能じゃないって言って無かった?
A.本編未登場ですが、とある装備を使えば可能です。
ただ結構な手間がかかるので最適解では無いです。




