第70話 ――起源種――
ラナと起源種が衝突した瞬間から、この空間はずっと悲鳴を上げていた。
大地の骨組みが砕け、天井の影が裂け、空気の層が何度もひっくり返る。
息を吸うだけでも苦しい。重力が上下左右から押しかかってくるような気配さえある。
それでも――戦っているのは、一人と一体だけだ。
ラナの光翼が大気を切り裂くたび、世界の線が振動し、起源種の周囲に漂う理の濃度が、視覚化したかのように揺らめいた。起源種の身体は形容しがたい。輪郭はあるのに、見ている傍からずれていく。像が二重にも三重にも重なり、こちらが視線を合わせるたび、その中心が書き換えられていく。
ただ、それがただそこに存在しているだけで、十分に災害だった。
「トゥリオ前へ、オーリス結界!」
エルドの指示が揺らいだ声で飛ぶ。声が震えているのではない。空間そのものが震えて、声を勝手に揺らしているのだ。トゥリオが重盾を構え、オーリスの結界が幾重にも展開される。透明な膜が重なり、空気の揺れを押し返すように波打つ。
その防御がなければ――吹き飛ばされていた。
ラナが斬りつけるたび、起源種へと伸びる白銀の軌跡が空間を削り、逆に起源種から広がる不可視の波は、こちら側の立つという行為さえ許さない。
私は足を踏ん張りながら、胸の奥の違和感を感じていた。
(……敵意、が……無い?)
災厄そのものなのに、そこに殺す意志が無い。
ラナの斬撃を受け止めているのに、まるでただ状況に反応しているだけ。
猛獣というより、自然現象のような静かさがあった。
その時だった。
胸元の理素結晶が、ふっと脈を打った。
呼吸に近い。
それも、私のではなく――あの存在の奥にある何かと、共鳴するような。
(……聞こえる?)
耳ではなく、心臓の裏側に流れ込むような理解が落ちてくる。
起源種の在り方。レイグレンが探し続けた揺らぎの源。
遥か古代にこの世界に癒着してしまったもの。
そして。
(……殺したら……揺らぎが、消える……?)
理解した瞬間、背中に冷たい電流が走った。
星の揺らぎを消せば、瘴気の流入は消え、ダンジョンは生まれず――
レイグレンの目的は、達成される。
(……ラナを使って、起源種を殺させるつもり……!?)
気付いた時には、もう遅い位置にいた。
ラナの軌道は、完全にトドメだった。
光翼が最大まで展開され、姿勢は完璧で、力も迷いも何もかも一点に収束している。
この一撃だけで、この世界の一部が変わる。
そんな斬撃だった。
(止めなきゃ……考えろ……最短かつ効果的な呼びかけを!)
理解と言葉を同時に走らせる。今のラナが反応でき、なおかつ刃を止めざるを得ない最短距離の文法。余計な情報を一切捨て、感情を入れ過ぎず、しかし今の彼女には確実に刺さる核を選ぶ。
コンマ一秒の猶予すらない。
一瞬で、文章を組む。
「ラナッ!! 止まって!!」
まず、名前。そして行為の指定。
ラナの意識をこちらに向けるための呼びかけ。
「起源種を殺したら――」
対象を限定する。
余計な余白を与えない。
「レイグレンが喜ぶだけ!!」
結論を叩きつける。
憎むべき相手の名前を、あえて最後に置くことで、止まる理由だけを脳へ強制的に流し込む。
白銀のオーラを纏った刃が、空中で止まった。
本来なら絶対に不可能。
今のラナは、思考と身体がほとんど同時に動く。
止まるという選択肢を取れる時間はなかったはずだ。
それでも。
止まった。
空気がひいた。
世界そのものが、その一瞬だけ止まったように。
起源種の輪郭でさえ揺らぎを忘れ、ラナの光翼は風さえ動かさず静止していた。
刃先がほんの数センチ外れた地点で留まっている。
あの瞬間、止められたことは奇跡のように思う。
その静止の瞬間を待っていたかのように――
レイグレンの声が、空間に刺さった。
「…………何を、してくれるんですかあ、あなたは」
言葉の形は穏やか。
けれど声音は穏やかではなかった。
初めてだった。
レイグレンが、芝居も誇張も混じっていない素の怒りを見せたのは。
表情が罅割れ、微かな震えが混じり、口角が不自然に引きつる。
「……なぜ止めたんですかあ?
あと数秒…否、数瞬で……全てが終わったというのに」
彼の声から、愉悦も嗤いも消えていた。
ただ、狂気と焦りだけが露出していた。
その瞬間、私は確信した。
レイグレンにとって計画の核心は、ここでラナに起源種を殺させること。
その未来を、私は叩き折った。
◇
レイグレンの硬直した視線を受けながら、私は息を整えた。
「……理由を言うなら、単純よ。起源種を殺せば揺らぎが消える。揺らぎが消えれば──あなたの目的が全部叶う」
苛立ちを孕んだレイグレンの眼が私を射抜く。
「それを、阻んだと?」
「ええ。私は、あなたの計画に手を貸すつもりはない」
横で、ラナが深く息を吸った。
彼女の光翼はまだ残っているけれど、さっきのような爆ぜる気配はもう無い。
「……クー子」
「止まれた理由、あるんだね?」
問いかけると、ラナは胸に手を当てた。
「うん……最後、カイルに言われたの。
『感情に飲まれるな』って。
あいつ、そんなこと……今まで一度も言わなかったのに……」
その声が震えていた。
強さと、未練と、悲しみが全部混ざった声だった。
「クー子の声で、ちゃんと戻れた。
……ありがと」
ラナが私に向けて微笑んだ。
痛くて、でも強くて、仲間の顔で。
「どういたしまして。……本当に、よかった」
少しだけ肩の力が抜けた瞬間だった。
レイグレンが苛立ったように舌打ちする。
「いやあ、本当に……余計なことをしてくれましたねえ……。
では、あなた方はどうするつもりなんです? この起源種を。
放置しますか? 殺しますか? どちらにしても世界は変わりますよお?」
自分で呼んでおいて責任を押しつける口調。でも……彼の言う通り、放置して良い存在でもない。
(どうする……?)
起源種は、ただそこにあるだけで災厄だ。
でも殺せばレイグレンの思うつぼ。
なら――
「……封じます」
口が勝手に動いていた。
「理素結晶で、私が封印する。
殺さない。殺させない。そして……あなたに利用もさせない」
レイグレンが、露骨に眉を跳ねさせた。
「……は?」
「やれるだけの根拠はあるの。
だって、理素結晶は理の欠片。
なら、揺らぎの核も……収められるはず」
胸元の理素結晶を握りしめる。
内部の光が、ゆっくりと呼吸するように明滅していた。
(お願い。私に、力を貸して)
理素結晶が、応じるように震えた。
「クーデリア、いけるのですか……?」
オーリスの声から珍しく動揺が感じ取れる。
「……分からない。でも、やるしかないわ」
私は一歩前に出て、起源種へ手を伸ばした。
「――【収束】」
付与というより、もっと根源的な引き込み。
理素結晶の核が白く光り、周囲の揺らぎが吸い込まれていく。
起源種の輪郭が、波のように崩れた。
形が折れ、伸び、歪み、
そして細い糸のようにほどけていく。
「……っ……!」
腕に重圧がのしかかる。
理素結晶の内側で、何か強い抵抗がうねる。
(大丈夫……大丈夫よ……!)
強引にでも押し込む。
「このまま……収まって……!」
最後の光が結晶に吸われた瞬間、空気が静止した。
起源種の姿は、跡形もなく消えていた。
ただ私の胸元の結晶だけが、強く、深い光を宿している。
――成功した。
そう理解した瞬間。
「………………は?」
レイグレンの口から、本気の困惑の声が漏れた。
本気でぽかん、としていた。
本当に計算外らしい。
「いやいやいや……いやいやいやいや……?
あなた……今……何を……?」
「封印しただけよ。殺していない。
あなたの計画にも、あなたの未来にも、使わせない」
レイグレンは言葉を失ったまま、目だけが微かに震えていた。
「…………はあ???」
世界で初めて観測される、心の底から困惑したレイグレンだった。
裏ボス候補封印ボッシュート




