第66話 ――最強の剣士――
九層に降りた瞬間、空気の質が変わったと分かった。
今までと同じような通路なのに、歩くたび足裏に伝わる感触が違う。魔力の流れが一方向に収束していて、瘴気も暴れていない。荒れた川というより、静かに渦を巻く湖の手前という感じだ。
(……近い。座標が示して深さも、たぶんこの辺り)
理喰らいと対面した時と、同じ種類のざわつきが胸の内側で揺れている。
数字で説明できる感覚じゃないけれど、体のほうが先に反応していた。
「道中は随分おとなしかったな」
トゥリオが前を見据えたまま言う。
「そうだね。出てきた魔物も、大半が青位レベルって感じだったし」
ラナが肩を回して笑う。
「ありがたいけど、逆に落ち着かないよね」
実際、疲労はほとんど溜まっていなかった。出てくる魔物は数も質もそこそこで、こちらの編成から見れば準備運動の範囲に収まっている。
(……誘導されてるのは分かってる。だからと言って、戻る理由にはならないけど)
そんなことを考えながら進んでいくと、通路がふっと開けた。
最奥らしい広間。中央には、円形の転移陣がひとつ浮かんでいる。床からわずかに浮いた光の輪。その縁を、細かな紋様がぐるりと取り巻いていた。
「転移陣ですね」
オーリスが小さく息を呑む。
「だいぶ古い形式だが、出力は十分だ」
エルドが周囲を一周見回しながら言う。
「この階層にこれしかないということは、座標の本体はこの先と見て良いだろう」
転移陣の中心には、少し目立つ強さで、光の文字が浮かんでいた。
『最強の剣士が神器を待つ』
思わず、みんなの足が止まる。
「……最強の剣士、ねえ」
ラナがぽつりと呟いた。
「王国の中だけで言うなら、前回の剣神祭で優勝したガルド殿がそう呼ばれているな」
エルドが補足する。
「壮年の金位剣士だ。実績も申し分ない」
「ラナは三位だったね」
氷雨が続けて補足を入れる。
「うん。準決勝でカイルに負けたからね」
ラナが苦笑を浮かべる。
「ガルドさんとは、結局一度も刃を交えてないよ」
「国内最強だけなら、そのあたりの名前で説明がつくが」
エルドは首を振った。
「レイグレンのダンジョンで『最強の剣士』と来ると、もう少し広い範囲を想定している気もする」
「世界全体で、剣で名を馳せている方々ですか」
オーリスが問い返す。
「例えば、砂海連邦の『竜喰い』」
ヴァルクがひとり挙げる。
「あれは紫位相当と見られている。サウスベルクには『深き刃』の異名を持つ女剣士がいるし、ノイエには『氷王』もいる」
紫位ほどの公式な階級ではないが、それに匹敵すると言われる異名持ち。
そういう剣士は、世界中を探せば何人か思い浮かぶ。
「どれも、神器を待つという条件とは結びつきにくいですが」
オーリスが小さく首を傾げた。
私は文字を見上げながら、息を吐く。
(最強の剣士が神器を待つ。神剣ラグナを持っているのはラナで、神器そのものはもう持ち主を選び終えているはずで)
考え始めると、思考が迷路に入りそうだった。
エルドが続ける。
「いずれにしても、ここから先に我々が呼ばれているのは間違いない。問題は、この文言が誰を指すのかだが……」
そこで、ラナが口を開いた。
「カイルじゃない?」
あまりにも自然に出た声に、全員の視線が集中する。
ラナ自身が少し驚いたような顔をしていた。
「……ごめん。今の、考えて言ったわけじゃなくて。
なんというか、勝手に口が動いた、というか」
「カイル・アークレインが最強の剣士だと?」
エルドが確認する。
「うん。根拠はないよ。剣神祭の順位だけ見たら、優勝はガルドさんだし」
ラナは自分の胸のあたりをぎゅっと握る。
「でも、ここで言われてる最強って、そういう意味じゃない気がするんだ。剣が一番強いとか、勝ち星が多いとかじゃなくて」
そこで言葉を切り、少し息を整えた。
「カイルも言ってたけどさ、レイグレンて、数字とか強さよりも、その人がどんな在り方で立ってるかばっかり聞いてたそうじゃない」
カイルとの面談で聞いた話が、頭のどこかから引きずり出される。
(カイルが緑位の時点で、レイグレンはカイルの芯を測っていた。
今の強さじゃなくて、どういう軸で剣を握ってきたかを)
ラナは俯きかけて、すぐに顔を上げた。
「だから……もしレイグレンが最強の剣士って言葉を使うなら、カイルを候補に入れてる気がした。ほんと、それだけなんだけど」
私はその横顔を見ながら、小さく息を吐く。
(……分からなくもない)
カイルに会ったときのことを再度思い出す。
真面目で、誠実で、でもどこかで諦めのようなものを飲み込んでいる人だった。
強さに対するこだわりと、神剣に選ばれなかった現実。
その齟齬を抱えたまま、ずっと前を向いているみたいな空気。
あの危うさを、レイグレンが見逃すはずがない。
「可能性のひとつとしては、否定できませんね」
オーリスが静かに言う。
「だが、ここで議論していても答えは出ない」
ヴァルクが転移陣を見やりながら続ける。
「外の状況を考えると、一刻も早く本体へ辿り着くべきだ」
エルドが全員を見回した。
「ヴァルクの言う通り、時間をかければ各国の負担は増す一方だ。
ここで立ち止まるわけにはいかない」
私は頷く。
「行こう。少なくとも、この先に答えが用意されているのは確かの筈」
ラナが一歩前に出た。
「なら、さっさと会いに行こうか。
最強が誰だとか、そんなの本人たちに決めさせればいい」
その言い方は軽くて、でも目は笑っていなかった。
自分がその場に立たされることを、もう受け入れている目だ。
一人ずつ転移陣へ足を踏み入れる。
金色の光が足元から立ち上り、輪郭をなぞる。
転移陣の紋様が淡く脈動し、周囲の空気が一段階冷たくなった。
「全員、準備はいいな」
エルドの声が響く。
「いつでも」
ラナが即答する。
(ここから先が、本当の終盤…てことかな)
リディアが小さく笑った。
「さて、どれほどの茶番と本気を見せてくれるかのう」
ヴァルクは何も言わず、呪具の封を指先で確かめる。
氷雨は目を細め、空気の揺れを測っていた。
エルドが一歩進み、転移陣の中心に立つ。
「行くぞ。光焼く翼、前へ」
その声を合図に、転移陣の光が一気に跳ね上がった。体が浮く。足場が消え、上下左右の感覚が一瞬で曖昧になる。この、何度経験しても慣れない嫌な感覚。胃のあたりがひっくり返り、魔力の流れが一瞬だけ素手で掴まれたみたいに乱される。
その中で、ふと気づいた。
(……ラナ?)
横にあるはずの気配が、僅かに遠い。
いや、遠いというより向きが違う。
私たち七人がひとつの線に沿って吸い込まれていくのに対して、ラナだけが少し斜めに引っ張られていくような、そんな奇妙な違和感。魔力の流れが、一本だけ別の座標へ枝分かれする感触。
手を伸ばそうとして、指先が光に飲まれた。
(待って、今の──)
世界が白く弾ける。
視界も、音も、感覚も、すべてが一度溶けて混ざり合う。
ラナだけが別の場所へ飛ばされたような、その嫌な予感だけを残して。
私は、その先に待つ光景をまだ知らないまま、次の瞬間には転移を終えた。




