第60話 ――終末の笛――
王国周辺は、奇妙なほど静かだった。
街は穏やかに賑わい、近隣ダンジョンは沈静化している。
瘴気の流れは弱く、ここだけ世界の荒波から切り離されたようだった。
だが――他国から届く報告はすべて地獄じみている。
各地のダンジョンは封じ目を保ったままなのに、外側へ瘴気が溢れ、周囲の大地を汚染し、本来ダンジョン深層にしか棲まないような魔物まで外界に向けて次々と噴き出している。
街道に未知の個体が出現し、村は警鐘だけを鳴らして夜を越え、軍は討伐に走るが追いつかない。各国の上層部は「王国だけが無傷なのは不自然だ」と疑い、王城には連日の釈明要請が押し寄せていた。
援軍も出すには出す。だが国境線がいつ崩れるかも分からない状況で、投入できるのはあくまで余剰戦力のみ。
光焼く翼は軍属ではなく探索者パーティだ。
故に最後の切り札として王都内に滞在していた。
(招集があれば馳せ参じる。だがまだ声は掛かっていない)
そんな空気が隊内にも王城にもあった。
その最中だった。
夜明け前の王城に、不意に警報が鳴り響く。
外側から、結界に触れた反応。
警備隊が一斉に駆ける。
緊迫した気配が廊下を走った、その瞬間――
ふっと、空気が揺らいだ。
王城大広間の中央に、レイグレンの分身が立っていた。
騎士たちが武器を構えるが、分身は一歩も動かず、穏やかな声音で言う。
「どうぞ、落ち着いて。
私はここで暴れるつもりはありませんよ」
その余裕こそが、広間を緊張させた。
「王国は……静かですねえ。
他国は瘴気に呑まれているというのに、ここだけ平和そのものだ」
駆けつけた宰相が前に出る。
「貴様の仕業か!世界の異常は――」
分身は笑った。
「まさか。私ではありませんよ。
私では、ね」
そして、何でもない世間話のように言った。
「では宣言しておきましょう。
――世界同時襲撃。
あと少しで、各国にお友達が現れます」
広間が凍りつく。
「安心なさい。王国には手を出しませんよ。
自国防衛に奔走されても困りますしねえ」
宰相が叫ぶ。
「なぜそんなことを――お前は何を企んでいる!」
分身は軽く肩を竦めると、まるで伝言を唱えるように口を開いた。
「工房の主は『彼方の層』にいる。
座標はこうです。
『訪問者』に三十六、『質問者』に四を足す。
その二つを対角とした、一を非対角に置いた対称行列。
跡、最小の固有値の整数部分、行列式――この三つ」
言い終えると、軽く礼をして微笑む。
「以上です。まあ、分かる人には分かるでしょう。
これは特定の誰かへの伝言ですから」
それだけ言って、分身は溶けるように消えた。
広間には、予想外の沈黙だけが残る。
「訪問者?」「質問者とは何だ?」
「そもそも数える対象が分からん……」
意味はある。計算方法も実在する。
それでも、肝心の元となる数字が分からない。
光焼く翼は、当然この伝言を知らない。世界が動きだしたことも、その呼び声が自分たちに向けられていることも。
しかし、終末の笛は、今この時に確かに吹かれた。
◇
分身が去った後の王城で、会議は踊る。
「……『彼方の層』とは、何を指す?」
「いや、それよりも座標だろう。『訪問者』と『質問者』の数さえ特定出来れば計算は可能だ」
「しかしその数値が検討もつかんぞ」
「主語が無いですからね……」
重苦しい沈黙が落ちた。
しばらくして、宰相が細い息を吐くように言った。
「……あの伝言、どう考えても我々に向けてのものではないな」
「……と、申しますと?」
「まず、手掛かりが曖昧すぎる。
『訪問者』『質問者』――定義によって人数などいくらでも変わる。
はなから我々に解かせる気がない」
「では、誰に……?」
宰相は目を伏せ、わずかに顔をしかめた。
「レイグレンの分身が、わざわざ王城に現れて伝言を残した。
そして『これは特定の誰かへの伝言』と明言した。
……ならば、ひとつしかあるまい」
会議室の空気がぴんと張る。
「――光焼く翼か。」
誰かが呟いた瞬間、重い納得の気配が広がった。
レイグレンの痕跡を最も深く追っているのは彼らだ。
月影国にある工房跡地の調査も、全てその手の中で動いてきた。
分身が伝言を遺す相手として、これ以上ふさわしい存在はいない。
宰相は立ち上がり、すぐさま近衛隊へ視線を向ける。
「光焼く翼は今、王都内の拠点に滞在している筈だ。
直ちに招集しろ。急げ!」
「はっ!」
近衛が駆け出していく。
「……彼らが来れば、座標が特定出来るかもしれん。
少なくとも、レイグレンが何を意図しているかの糸口にはなる」
宰相は机に置かれた報告紙へ視線を落とした。整った筆跡で書かれた座標の導出方法自体は、そこまで難解なものでもない。
(元となる数値さえ判明すれば特定は容易。『自国防衛に奔走されても困る』という言からも、伝言の対象者が国内の人間であることも確定している)
会議室に集う人間たちの間に焦燥が広がる。
だが同時に、誰も口にしない微かな期待もあった。
――紫位探索者たちなら、何かを掴むかもしれない。
窓の外では、まだ夜明け前の白い風が吹いている。
遠くで鳴る鐘の音だけが、王城の沈黙を打ち破っていた。




