第56話 ――つかぬ間の平穏と小さな波――
「外伝 黎明の翼 ―ラナ―」の読了を推奨します。
【連環の匣】の検証が正式に終わった翌日、研究棟を出た私は、胸の奥が少しだけそわついていた。
「……十倍て。ほんとに十倍なんだ」
思わず口に出してしまうくらい、あからさまな変化だった。
これまでは複数属性を扱う時、匣の補充に合わせて運用を調整する必要があった。二属性同時なんて、戦況の要所以外で使うものじゃなかったのに――。
「儂としては、ようやく本領を出せると言うべきかの」
隣を歩くリディアが、いつもよりわずかに柔らかい声で言った。
「炎を重ねる時、いちいち遠慮するのは性に合わんでな。ふふ……面白くなってきおった」
「リディアが面白がると、現場の気温が上がるんだよね……」
「気にするでない。儂は常に気を付けておるわ」
そう言いながら、いつもより楽しそうに見えるのが可笑しい。
戦力が伸びるのは単純に心強い。だけど、今の私はそれよりも――
(……付与で、聖遺物の機能が可変になった)
あの瞬間の方が、まだ喉の奥に熱として残っていた。
勿論それは理粗結晶の補助ありきだ。そこに更に分身が語った世界の仕組みへの理解が、実際に噛み合った。そのことを思うと、胸の奥が静かに震える。
◇
それから暫くの間は、驚くほど何も起きなかった。
勿論ずっと暇していた訳ではない。『光焼く翼』はその間、王都周辺や北辺群のダンジョンを数個程攻略している。定員問題もあるので、私も出撃したりお留守番したりと色々だ。その間、エルドは探索が終わるたび政庁へ走り、外交部門と理素結晶の扱いについて調整を続けていた。私の方でも、研究棟への出入りが複数回。本当なら、政治の話なんて私達の管轄じゃない。だけど、あの結晶を手にしたあの日から、どこか他人事にできなくなっていた。
◇
一か月が過ぎた頃、政庁の使いが拠点の扉を叩いた。
月影国からの書簡だった。
レイグレン追放前の行動記録と、接触者の洗い出しがまとまったらしい。
全員が揃った食堂で、エルドが封を切った。
「……接触記録の中に、知っている名がある」
「誰?」
私が口を開くと、エルドはゆっくりと紙を置いた。…ちょっと疲れているのか、いつもの任務説明時よりも若干素寄りの口調だ。申し訳無い。
「カイル・アークレイン」
その名を聞いたラナが、息を飲む音を隠しきれなかった。
「確か…ラナが【神剣ラグナ】に選ばれたときの《剣神祭》の準優勝者……だよね?」
幼馴染だったかライバルだったか、正直細かいことは覚えていない。ただラナに勝って決勝戦に進んだ人、というのは覚えている。正確には、今、思い出した。
「うん。でも……」
彼女は困ったように眉を寄せた。
「まさか、カイルの名前をここで聞くとは思わなかったかな」
エルドが続ける。
「当時は緑位の探索者だ。レイグレンと特別な関係があったわけではない。ただ……数回、接触があったらしい」
「今は?」
私は思わず身を乗り出していた。
「金位探索者になっている。二日前から大規模ダンジョンに潜行中だそうだ。帰還時期は不明」
ラナが小さく頷いた。
「……戻ってきたら、私も行きます。事情を聞くのは、私も一緒の方がいいと思います」
エルドは軽く頷いて返した。
「そのつもりだ。俺と、クー子と、ラナの三人で行こう」
空気がわずかに張り詰めたことを感じて、私は深く息を吸った。
◇
カイルが大規模ダンジョンから帰還したという報せは、翌日の朝に届いた。
「戻ったらしい。今は、受付棟で報告書をまとめているようだ」
そう言って、エルドが外套を羽織る。
「じゃ、行こうか。ラナも」
私が声をかけると、ラナは短く頷いた。
「……うん。逃げられないうちに、ね」
その言い方に、ほんのわずかな緊張が混じっている。
気まずさでも、後ろめたさでもない。
ただ、昔から剣を合わせてきた親しい剣士として、向き合う覚悟の方だ。
(別に黒と決まった訳でもないのにそんな固くならんでも…)
そうは思ったが、思うだけに留めた。
◇
受付棟は、昼前の雑多な騒がしさに満ちていた。
報告書を抱えた探索者、査定官の鋭い声、紙を捲る音。
その奥、相談室の扉がひとつだけ半開きになっていた。
エルドが軽くノックする。
「アークレイン。時間をもらえるか」
一拍置いて、扉がゆっくり開いた。
そこに立っていたのは、背筋のまっすぐな剣士――
記憶は薄いが、当時より若干引き締まった顔立ちのように思える。
「……光焼く翼の皆さん。わざわざどうも」
落ち着いた声。
けれどラナを見ると、ほんのわずか眉が動いた。
「久しぶり、カイル」
「……ああ。ラナも、元気そうだ」
その一瞬、空気が少しだけ重くなる。互いに何も言わない沈黙が挟まったのは、やはりこのような場だからだろうか。
(今でもたまに訓練所では剣を合わせてるとかラナに聞いたんだけど、イマイチよく分からない関係ね)
固まった二人の代わりに私が口を開く。
「急に呼び出して御免なさい。ちょっと聞きたいことがあって」
「……構いません。内容次第ですが、答えられる範囲で」
カイルの了承を確認したエルドが、本題を切り出した。
「月影国の調査記録に、貴方の名があった。
レイグレン追放前の接触者の一人としてだ」
カイルの動きが止まった。
握っていた両の掌が、わずかに震える。
「……なるほど。その件で来られたんですね」
レイグレンの名は既に王国中に広まっている。
元々が隣国の有名人で、自国に害を及ぼした存在とあれば当然のことだ。
集まった四人が席に座り、話を聞く姿勢を整える。
「覚えているか?」
エルドの切り出した問いに、カイルは静かに頷いた。
「数回だけです。俺がまだ緑位で、毎日のように訓練場に出入りしていたような頃。月影国に行ったことがあります。鍛錬の旅という名目でしたが、実際は観光目的でしたね」
ラナが驚いたように瞬く。
「カイル、月影国に行ってたの……?」
「ああ。旅程も短いし、国交自体はあるからな。天才呪具師が発展させた街っていうのが少し気になって、足を運んだんだ」
そこだけは、少し照れたように笑った。
「で……その時だ」
カイルの声がわずかに低くなった。
「レイグレンと名乗る男が、俺に話しかけてきた。街の観光に来たつもりが、その街を発展させた呪具師本人と会えたってことで……正直、ちょっと浮かれてたよ」
カイルは苦笑しながら続けた。
「向こうは俺が剣士を志してるって知ると、色々と聞いてきた。
訓練内容とか、理想の剣士像とか……まあ、剣の腕前を見せろって感じじゃなくて、『どういう在り方の剣士なのか』って方を知りたがってた」
ラナが小さく息を呑む。
「それで、選定儀の話になった。
俺が《剣神祭》に興味を持ってるって言ったら……奴は、あの儀がどう成り立ってるかを、丁寧に説明してくれたんだ」
カイルはゆっくりと視線を落とす。
「『技量で選ばれるんじゃない』。
『魔力量でも、勝敗でもない』。
神剣が応えるのは、その人間が『どんな在り方で剣を握ってきたか』だって……そんな話だった」
拳を握る音が、わずかに聞こえた。
「当時の俺は……その言葉が、嫌で仕方なかった。
だってその時点で、俺は評価されるべきは実力だと思ってたから。
剣神祭に挑むなら、誰よりも剣が強ければいいって、本気で信じてた」
ラナが沈黙のまま彼を見つめている。
「でも、レイグレンは違ったんだ。『選ぶ』という現象そのものに興味を持っていて……俺の強さじゃなく、俺の今までの積み重ねそのものを、しつこいくらいに確かめてきた。訓練の姿勢、考え方、迷いの有無……そんなのばっかりだ。まあ当時は緑位のひよっこだ。強さを語れる段階では無かったけどな」
カイルは息を吐き、言葉を結ぶ。
「……あの時の俺には理解できなかったけど。後になって、ラナが選ばれた瞬間を見て……選定儀は実力勝負じゃないってことを、嫌でも思い知ったんだ。ああ、すまない、ラナの実力を疑う訳じゃない。ただ少なくとも、あの場でラナに勝った俺が、選ばれなかったのは事実だ」
(途中から完全にエルドじゃなくてラナに説明してるけど……まあ、話は聞けてるからこれで良いか)
カイルは、あくまで当時の理解として続ける。
「奴が知りたがっていたのは、剣士としての芯だ。ぶれずに立つ軸があるかどうか。星だの均衡だのって単語は……正直良く分からなかったが」
「『勝った者が選ばれるとは限らない』。
『技量じゃなくて、揺らぎに呑まれない在り方』。
神器はそんなものに反応するって何度も言われて、理屈だけは理解したけど納得は最後まで出来なかったな……」
そこまで聞いて、ラナがそっと息を呑む音がした。
一区切りがついたのか、今度はエルドに向き直る。
「協力できる範囲なら、何でも言ってください。
……俺も、奴が何をしようとしているのかは知りたい」
カイルはそう締めくくったが、
その声の奥に、ごく薄い熱が残っているように聞こえた。
彼自身が気づいているかどうかは分からない。
けれど、言葉の端に滲むものは――
単なる嫌悪や警戒とは少し違う。
エルドが小さく頷いたところで、カイルがふと視線を落とした。
「……一つだけ、今になって思い返すと妙だと感じることがあります」
全員がわずかに身を乗り出す。
「レイグレンは俺のことを、どうでもいい相手として扱ってなかった。
緑位の若造としては……少し不自然なくらい、丁寧に見てくるというか」
そこで言葉を探すように、少し間を置く。
「俺に芯があると言いたげな目だったんですよ。言葉にはしないんですが……別に大した実力も実績もなかったのに、妙に期待されたような感触が、どこかにあったんです」
それを聞き、ラナが小さく瞬きをする。
「いや、もちろん明確に言われたわけじゃない。
ただ……あの男、他人を測る時に面白がる瞬間があるんです。
俺が何か答えるたびに――
『ああ、そういう軸なのか』と納得していくような顔をしていた」
そこに嫌悪はない。
むしろ、何かを拾い上げられたときに覚える感覚――
理解されたと錯覚してしまう、あの独特の温度がわずかに混じる。
「まあ……あれが本心だったのか、ただの好奇心だったのか分かりませんが。
緑位の頃の俺に、そこまで興味を持つ理由は無かったはずです」
カイルは平常心を保って見える。だが、静かな言葉の底に、当時の視線の意味をまだ整理しきれていない揺れが少しだけ残っている。
「……今思えば、あの時からどこか変な気配はありました。
俺の未来を勝手に覗き込むような……
そんな、得体の知れない感じが」
ラナが息を吸う音がしたが、何も言わなかった。
エルドもすぐに返答せず、ただ鋭い目でカイルを見ている。
(この人……多分、複雑なんだろうな)
そう思うだけで、私は口には出さない。
カイルの中の揺れは、まだ誰の言葉でも触れてはいけないものに見えた。
エルドが静かに話を収める。
「分かった。証言、感謝する。
今の話が、今後の判断材料になる」
カイルは一度深く頭を下げた。
「こちらこそ。役に立てるなら……それで十分です」
そう言った彼の表情は真面目で、誠実だった。
だがその奥底――ほんのわずかに残る、どこかを見つめるような意識だけが、静かな影のように揺れていた。




