第55話 ――聖遺物に届いた付与師――
そのままでも特に矛盾は無いのですが、エルドの紫位昇格時期に影響するので剣神祭の開催を4年に1回、選定は3年前に変更(時期は元に戻しました) ※黎明の翼ラナ
研究室を出た瞬間、私は駆け出した。
(今なら届く……気がする。あの呼吸と私の魔力を噛み合わせれば……)
あの時、理素結晶は確かに脈を返してきた。
まるで、こちらに応じるかのように。
その意味を、私は知っている。
理に近い構造が返事をしてくれるときは、理論が正しいときだ。
(レイグレンの分身……彼の理論が正しいとすれば)
胸の奥が熱くなる。怖さではなく、震えるような理解だ。
自室へ飛び込み、棚から布包みを取り出す。
解いた先に現れた【連環の匣】を抱え、私は研究棟へ戻った。
◇
「持ってきました。……これで、試したいことがあります」
エルドの視線が、匣と私の顔を交互に行き来する。
「そんなに急いで……何をするつもりだ?」
「匣の補充機構を、理素結晶の揺らぎと合わせます。
……理層に近い働きが、匣の内部を整えるはずです」
【連環の匣】の中身の触媒の最大値は二百粒。十日で一割の速度でゆっくりと補充される。現在の残存数は98粒。単純計算で75日後に最大まで補充が完了する。仮に残り一粒まで消費してしまうと556日もの時間が必要だ。
主任がわずかに目を見開いた。
(分かってる……危険なのは。でも――)
私は理素結晶を見る。
その中心にある、あの静かな呼吸。
揺らぎは穏やかだが、それが理層へ連なっているのが分かる。
(これは……世界の呼吸だ)
レイグレンの言葉が脳裏をよぎる。
『理層とは魔力、法則、循環のすべてが流れる層。
理の糸が束となり、魔力を通し、世界に意味を与えている』
(……本当に、その通りなんだ)
今さらながら、あの狂気じみた男の唱える理論の正しさに寒気がした。
あれは狂気ではなく、理解だったのだと。
◇
私は結晶と匣をそっと接続させる。
過剰な魔力は使わない。
流すのは整った道筋だけ――付与師の本質に近い動き。
次の瞬間。
理素結晶の揺らぎが匣へ流れ込んだ瞬間――
薄光が、聖遺物の表層でほんのわずかに乱れた。
主任が息を呑む一方で、
観測を続ける研究員が声を荒げる。
「……な、なんだ……?
聖遺物側の内部回路が、一瞬変質したぞ……あり得ん……!」
(……やっぱり。これは理素結晶を通した理層の呼吸なんだ)
理層の呼吸と、匣の巡り(魔力循環)が噛み合い、
本来閉じた構造である聖遺物の外殻がわずかに揺らぐ。
この揺れは、付与では届かない領域。
――理素結晶の働きそのものだ。
(レイグレン……あなたの描いた理論、全部……全部正しい……)
私は確かな手ごたえを感じると同時に、背筋が震えた。
観測している研究員が震える声で続ける。
「聖遺物は外部干渉を拒むはずだ……
それを……付与で上書き可能な状態に近づけた…?」
そう呟いた直後、別の研究員が計測窓を覗き込み、目を見開いた。
「主任……匣の補充速度……これは!」
「どうした!?」
「速度が明らかに上がっています!
これは……ええ……約、十倍です!!」
その場にいた全員の視線が、一斉に私へ向く。
(……ちょっとやりすぎた?)
◇
沈黙を破ったのは、もっとも冷静なはずのヴァルクだった。
「……クーデリア。
今のは……俺でも意味が分かるレベルで異常だぞ」
眉間に手を当て、低く唸る。
「聖遺物への干渉は不可能。……それが大前提だ」
「えっと……私も、そう思ってたんだけど……」
「だが今、お前はその大前提に穴を開けた。
……普通にやばい」
やばい、とヴァルクが言ったのは初めてだ。
その隣で、ラナがぽかんと口を開けていた。
「え、ちょ、ちょっと待ってクー子……
聖遺物って、神器のちょい下くらいの……
あれに手ぇ入れたの……?」
「……触れてみただけなんだけど……?」
「いやいやいやいや! 触れただけで何が起きてんの!?」
ラナは半歩引き、震える指で匣と結晶を交互に指した。
「これもう……クー子の付与って……職業の範囲超えてない……?」
大げさではなく、本気で引いている。
さらに追い打ちをかけるように、リディアが静かに呟いた。
「……儂、長生きしておるつもりじゃが……
聖遺物に人の手が加えられるのを見たのは初めてよの」
それだけ言うと、彼女は顎に手を当て、しみじみとした口調で続けた。
「これ、後世の歴史書に載ってもおかしくない出来事ぞ。
……最早お主は、どこへ行くつもりなのか」
完全に『天才の暴走を見てやばいと感じた人の距離』だ。
視線を集められ、私は思わず両手を突き出して弁明する。
「ち、違うの! 私が凄いんじゃなくて……
結晶と……その……聖遺物側の巡りが主役で……」
主任が言葉を飲み込むようにしてうなずいた。
「いや……君の遠慮は理解するが、付与師が聖遺物に干渉できた事実は、歴史的だ。君がどう否定しようと、これはとんでもない成果だよ」
「成果って言われても……」
(やっちゃった……って感じが……すごいんだけど……)
横で、エルドが腕を組んだまま静かに言った。
「クーデリア。
今の現象を偶然だと思う者はいない。
理素結晶との相性……いや呼吸が合った結果だろう」
「…………呼吸……」
(そうだ、あの呼吸……あれは確かに、私の魔力の流れと噛み合っていた)
私は【連環の匣】を見下ろす。どうやらすっかり安定し、大幅に加速した補充速度も恒久的な機能として定着したようだ。その立役者の理素結晶の方は、ゆっくりとした呼吸を続けている。
「…………」
(――この力、いつか決定的な場面で、絶対に必要になる)
胸がざわつく。
怖さと、興奮と、責任と……そして、確信。
(レイグレン……あなたの理論は、癪だけど、参考になった)
誰にも言えないけれど、胸の奥に小さく刻む。
◇
しばらくの沈黙のあと、私はそっと息を整えた。
(……言うなら、今しかない)
理素結晶は静かな呼吸を続けている。
それが、私の言葉を後押しするみたいだった。
「……エルド。主任。
お願いがあります」
二人の視線がこちらへ向く。
「言ってみたまえ」
「内容次第では、動ける」
喉の奥がきゅっと震えたが、逸らさずに言う。
「理素結晶を、緊急時に限り現場へ持ち出せる特例を下さい」
主任が固まった。
エルドでさえ、わずかに眉を動かす。
「……理素結晶の持ち出しか」
「はい。
ただし常時ではなく、本当に必要な時だけ。
研究用の保持とは別に、現場で直接干渉できる手段として」
主任がまず口を開いた。
「君は……その申請が、どれほどの重みか理解しているかね?」
「……してます」
「理素結晶は、この国だけの財産ではない。
月影国との共同研究物であり、共同管理物だ。
一国の判断で持ち出すことはできない。
正式な許可には、双方の評議会、王宮、さらに……」
「……外交部門も噛むな」
エルドが低く言葉を継いだ。
私はうなずく。
「分かっています。
でも……必要になる場面が必ず来る。
さっきの反応は……そういう種類のものです」
主任は苦々しく息を吐き、結晶を見やった。
「君は、理素結晶を現場用の術具にしようとしている。
そう理解して間違いないな?」
「はい。
付与と理層の反応を、実地で使うためです。
このまま研究室だけで抱え続けるのは……危険だと思います」
主任はうなずいた。
「ああ……そうだな、だからこそ研究試料扱いにしたのだ。本来なら文化資産か危険物が妥当な代物だが……その二つに分類された瞬間、持ち出しという選択肢自体が完全に閉ざされる」
(そう。あれはエルドの尽力なしには成り立たなかった)
主任は苦笑混じりに続けた。
「紫煌殿が、王国側と月影国側の両方へ根回ししてくれた。
我々研究班も同意した上で、なんとか研究試料という形に落ち着けた。
本来、こういった外交的合意は数ヶ月では済まない。
……君も分かっているだろう?」
(分かってる……持ち出しの可能性を残すためだけに、皆が動いてくれたんだ)
エルドは腕を組み、私に視線を向ける。
「……だが、研究試料に分類したとはいえ――
実際に持ち出すとなると、お前一人ではどうにもなるまい」
私は息を飲んだ。
「……エルド?」
「必要なら、俺が動く。
王国側の評議会へ緊急持ち出し暫定許可の予備稟議を上げる。
そのために研究試料扱いにしたのだからな」
主任が目を見開く。
「紫煌殿……!
あの分類は道を塞がないための政治的合意だったはずだ。
まさか、本当にその道を使うとは……」
「使う必要があると判断した」
エルドは揺らがない目で言い切った。
「月影国側にも、ロシャとファルマを通して俺が説明する」
(……エルド……そこまで……)
主任は額を押さえ、深い息を吐いた。
「……まったく。
紫煌殿が動けば、行政のほうも本気で動かざるを得なくなる……
これで本当に、理素結晶を現場で使う未来が視野に入ってきたな」
それでも最後には、研究者らしい笑みを見せた。
「分かったよ。
こちらも月影国宛ての説明案と管理案をまとめよう。
ただし――」
主任は結晶へ視線を落とす。
「……本当に必要な時だけだ。
これは我々の研究の象徴であり、国家間の信頼そのものだ」
「もちろんです。
……軽々しく使うつもりはありません」
(でも、必要なんだ……絶対に)
理素結晶が、静かに脈を返す。
(――この呼吸を、現場で使えるようにしなきゃいけない。
レイグレンが世界そのものに影響を及ぼすなら、
それに届くだけの力が絶対に必要になる。だからこそ……動くしかない)
胸の奥で、決意がはっきりと形になった。
ついに一つの壁を越えた主人公。
理素結晶ありきではありますが、いずれは無くても同じ領域に届き得ます。
そこまでいくと人間卒業です。




