外伝 黎明の翼 ―ヴァルク―
瘴気は、静かに寄ってくる。
不定形である癖に、体温のような確かさで触れてくるから厄介だ。
この日も、ただ仕事をしていただけだった。
崩れた遺構の奥、黒い霧が滞る小部屋。
倒れた探索者の呼吸は浅く、治癒術は霧に弾かれて届かない。
(……嫌な質の霧だ)
腰袋から呪釘を一本抜き、床へそっと置く。
金属の触れた音が消えるより早く、霧の流れが変わった。
瘴気の輪郭がずれ、仲間の治癒魔法の光がようやく患部へ届く。
ひとつ息を吐く。
それだけで足りる仕事だった。
◇
「随分と、静かなやり方だな」
背後から声がした。
振り向けば、濃紺の外套を揺らす弓使い。
この遺構の調査を任されているという、エルド・フェルナーだった。
「治癒が通った瞬間、見てたぞ」
「瘴気を退けつつ固定する……そんなことができる呪具師は珍しい」
褒めているというより、観察した事実を述べている声だった。
「派手さは要らない。
隊が崩れた時に止め、封じ、退路を残せる者が欲しい」
要件だけが、無駄なく落ちてくる。
「こんなところでスカウトか?
いや……むしろそれが目的か」
この男は既に一つの隊を率いている。それが何故か今日だけは合同探索に単身参加――これだけ条件が揃えば馬鹿でも分かる。
俺は少し考えた。ソロでも誰かとでも、大差はない。ただ、やるべき仕事があるならやる。その程度の判断で十分だ。
「ご推察の通りだ。考えてくれるだろうか」
「……それならやれる」
答えると、エルドはわずかに頷き、表情を緩めた。
「では『光焼く翼』へ。最後の一枠だ」
(最後……な)
特別な感慨は無かった。
だが、悪い流れではないと直感した。
◇
合流は、あっさりしていた。この隊は、必要な役割が明確だったから。
前を削る者。道を開く者。覆い、癒やし、支え、守る者。
そして――
「ヴァルク。瘴気濃度が上がる。オーリスとの位置合わせを頼む」
「了解。固定する」
封じ、隔離し、座標を安定させる者。
それが俺の仕事だった。
呪具を展開しながら、ふと思う。
ソロの頃より、やる量は増えたが――効率は悪くない。
進めるだけじゃない。
戻れる道を確保する隊は、確かに強い。
エルドの狙いはそこだった。
俺はただ、その穴を埋めるだけだ。
(それで十分だ)
淡々と、呪具を刺し込む。
瘴気が割れ、通路が開く。
誰かが「助かる」と小声で言った。
振り返らない。
こういう仕事に、返事は必要ない。
――光焼く翼は、この瞬間に完成した。
そう思ったのは、きっと俺だけではなかった。
◇
探索を終え、解散になったあと。
街の端にある、薄暗い酒場へ足を運んだ。
賑やかな場所ではない。
人声よりも、氷のぶつかる音のほうがよく響くような、静かな店だ。
煙の匂いと、少し焦げた木の香り。
この落ち着きだけで十分だった。
(……今日の瘴気は妙に粘っていたな)
呪具を片付けるときの指の重さが、まだ抜けていない。
こういう日は、喉を冷やした方が良い。
度数の高い酒をロックで一口。
静かで悪くない時間――だったのだが。
「ん、お疲れさま……っと」
隣の椅子が、音もなく引かれた。
入ってきた時点で酒気が漂っていたが、座った瞬間に確信した。
クーデリア・リーフィス。
……少し出来上がっている。
頼む動作に無駄がないのはいつも通りだが、
指先だけが、わずかに緩い。
「一人で飲む日?」
「……そうだが」
「そっか。じゃあ、ここは二軒目にしよ。静かでいいし」
勝手に話が進んでいく。
決定権はこちらに無いらしい。
すぐ二杯目を頼んだところを見るに、
最初の店はもっと賑やかだったのだろう。
今日は珍しく、喉だけじゃなく気持ちも荒れているように見えた。
「一軒目がさ、ちょっと賑やかすぎてね。
こういう飲み方も結構好きなんだよ、ほんとは」
「……落ち着く場所を選んだだけだ」
「そこにたまたまヴァルクがいたのが、まぁ……運が良かった」
「それは評価なのか?」
「評価。静かに飲む時の友達、ちゃんと選びたいって話」
軽口を叩きながら、また一口。
そのまま視線を伏せ、ぽつりと言う。
「ね、こういう静かに飲む時さ。
適当に黙ってても邪魔じゃない人が一人いたら十分なんだよ。
……ヴァルク、そういうの向いてる」
「……そうか」
「そう。だから、飲み友達その一ね。静かなほうの」
自分で言って自分で頷き、杯を軽く掲げる。
決めるのが早い。
「……勝手にしろ」
「勝手にする」
杯が触れ、柔らかな音が落ちた。
静かに飲みたい夜だったはずなのに、
不思議と、邪魔された感じはなかった。
(……悪くはない)
その程度の感想で十分だった。
粛々と過ぎていく夜の帳の中、二人分の杯だけが静かに減っていった。
これが後に第一話の無防備クー子に繋がります。もし仮にヴァルクが決壊したらもうあれですよあれ。
黎明の翼シリーズもこれで終わりです…八人全員揃いましたね。
自分で言うのもなんですが、よく完結まで執筆出来たなと思います。




