第50話 アラブラハム・レイグレン⑥回答編
「この世界の“真の理”を取り戻すため」
分身の口から放たれた言葉は、核心めいているのにあまりに抽象的だった。
(……これだけじゃ、意味が分からない)
そう思ったのを察したのか、レイグレンの分身は静かに笑った。
「だろうね。これだけでは、何も伝わらない。
私は説明を端折りすぎる癖があってね」
その声音は、以前の狂気に満ちた分身よりもずっと穏やかで、どこか若い。
「では順に話そうか。まずは……そうだな」
指を軽く払うと、空間に白い球体が浮かび上がった。
掌ほどの大きさの、滑らかな球――星の模型だ。
「これが本来あるべき世界。
地軸に沿って安定して回転し、理の流れも一定。
魔力の層も正しく循環し、干渉も起きない」
球は静かな軸で規則正しく回っている。
だが分身は「しかし、実際はね」と囁いた。
次の瞬間――球が、じわりと滲むように揺れた。
揺れ、と言うにはあまりに小さく、
目を凝らさなければ分からないほどの歪み。
けれど、確かに揺らいでいる。
「これが、星の揺らぎだよ。
地軸そのものが微細に狂い、回転の軌道が乱れる現象だ」
分身は球に小さな針を突き立てる。
穴は極小で、球の形は全く変わらない。
「さて、針穴を作っただけでは、空気はすぐには抜けない。
――普通ならね」
そのまま球を水槽――分身が空間から生成した透明な水の箱――へ沈める。
沈められた球は、水中で静止したまま。
ひとつの泡も浮かばない。
「星というのは、本来これくらい頑丈なんだ。
外側から少々傷がついた程度では、内部へ何も入り込まないし、漏れもしない」
「……じゃあ、今はどうなんですか?」
ラナが思わず漏らす。
「こう、だよ」
分身は沈めた球の一部を、ほんの僅かに凹ませた。それは触れた者にしか分からないほど小さな力。しかし――球の表面から、小さな気泡がぽつりと浮かんだ。
「星の揺らぎが続けば、境界は弱まる。
針穴の縁が緩み、外側のものが入りやすくなる。
こうして星の内側へ少しずつ染み込む物がある」
私は思わず息を呑んだ。
「……星に水のような何かが入ると、そう言いたいんですか?」
知らずに口をついた問いに、分身は軽く首を振った。
「質問扱いにはしないよ。誤解されると困るしね」
そして、少しだけ声を落とした。
「水ではない。
この世界では 瘴気 と呼ばれているものだ」
瘴気――耳慣れた単語なのに、今聞くと意味が違って聞こえる。
「瘴気は、本来星の外側にある層のひとつだ。
魔力とは逆の性質を持つ負圧の層。
触れれば魔力が溶けるのは、そのためだよ」
(魔力を溶かす……負圧……)
それは、この世界の根幹にあるものだと思っていた。
だが――本当は外側にある、別の層の物質。
「星の揺らぎが続けば、その負圧が内側へ漏れ込む。
それが瘴気。そして瘴気が理の流れに干渉すると……」
分身が球の周囲に黒い靄を薄く纏わせた。
「理の層が歪み、凝縮し、破裂するように膨らむ。
その結果として現れるのが――君たちがダンジョンと呼ぶ現象だ」
空間の靄が一瞬だけ揺れ、暗い穴のようなものが生まれては消える。
私は、その場の空気がわずかに冷えたように感じた。
(……瘴気が一定量入り込むと、理が歪む。
その歪みの吹き溜まりが――ダンジョン)
今まで感覚で理解していたはずのことが、
言葉と図で突きつけられると、背筋にぞっとしたものが走る。
分身が示したダンジョンの正体は、あくまで前提だ。
私が問うた「目的」――
本体が何を成そうとしていたのかは、まだ答えられていない。
(……まだ入り口の説明にすぎない)
それを察したのか、分身はこちらへ視線を向けた。
「質問者が気にしているのは私の目的そのもの、だろう?」
「……そうですね」
分身は頷き、指先で球を撫でた。
球を覆っていた黒い靄が消え、三層の薄い帯が代わりに現れる。
「目的は先に言った通り――真の理を取り戻すため。
だが君の疑問はこうだろう?
『真の理とは何か』『何が取り戻されていないのか』」
「……ええ」
「では、ここまでの説明に一つ橋を架けよう」
分身は三つの帯をゆっくりと重ねた。
外側・中間・中心――
それぞれが薄い膜として視覚化されていく。
「星は本来、
表層(外側)
理層(魔力と理の領域)
核層(意味の中心)
の三つが、正しい角度でかみ合って回転している。
これが世界の健康な姿だ」
淡い光が三層を満たす。
「だが――揺らぎが起きると、星の回転はわずかに揺らぐ。
その結果、理層がわずかに歪む。
この歪みを放置すると、世界は本来の形から外れていく」
(……本来の形から外れていく?)
思わず息を詰めた私に、分身は静かに続けた。
「私は、それを正しい場所へ戻すことを目的としていた。
つまり――『真の理を取り戻す』とは、
星そのものの回転軸を、本来の角度に戻す作業だ」
言い方は穏やかだが、内容はあまりにも壮大だ。
「そんなこと……可能なんですか?」
思わず問うと、分身は肩を竦めた。
「理論上はね。だから私は工房を使って揺らぎの観測と理の補正の実験を続けていた。その過程で、工房は歪み、ダンジョン化したわけだ」
(つまり……工房ダンジョンは世界の修復の副作用?)
言葉にできないほどの重さが胸にのしかかった。
分身は、そこでわざと区切るようにして言った。
「ここまでが君の質問に対する答えだよ。
私が目指したのは――
星を、世界を、かつての正しい回転へ戻すこと。
それが真の理を取り戻すという意味だ」
核心に触れたはずなのに、まだ大きな謎が残っている。
(……どうしてそこまで?
どうして世界そのものに介入しようと?
何を見たら、そんな結論になるの?)
分身は、私の胸のざわつきを読んだように微笑んだ。
「そのさらに先――
どうして私がそこへ至ったのか。
何を見て、何を確信し、なぜ正しい回転を知り得たのか……」
言葉を切り、ゆっくり首を振る。
「そこは、君たちの次の質問に預けよう。
今はまだ、語れない」
穏やかな声なのに、その奥に深い断絶があった。
確かに目的の説明は終わった。
だがその背景にある思想・動機は、まだ闇の中にある。
分身は手を下ろし、こちらを見渡す。
「……さて。
ここまでで 彼女の質問への回答は完了だ。
星・揺らぎ・瘴気・理層――
真の理とは何かの入口までは繋げた」
そして静かに告げた。
「この先を語るには、世界そのものの構造――
三つの層を正しく理解してもらう必要がある。
次の質問者は、それを聞くといい」
促されたように、ファルマが静かに手を挙げた。
ここでようやく、質問権三つ目が消費される。
◆
「流石は呪具神とまで謳われた方の分身。随分と博識のようです。
ではお望みのままに、この世界の構造を教えていただけますか?」
分身は目を細めて笑った。
「ふむ、模範的な生徒だ。いいだろう。
私が長く研究していた領域でもある」
指先で空間を払うと、またも帯が三枚、層となって宙に浮かんだ。
薄い膜が積み重なるように、半透明の板が広がっていく。
「表層は、星の最も外側にある膜のような層だ。
魔力ではなく、負圧と外界を隔てる境界面。
本来なら、星の回転と共に滑らかに動き、揺らぎなど起こさない」
外側の膜がかすかに震え、波紋のように揺れる。
「この層が揺らぐと、君たちが瘴気と呼ぶ負圧が内側へ漏れ込む。
揺らぎが弱ければ霧のように、強ければ奔流となって流れ込む」
「次が理層。
魔力、法則、循環のすべてが流れる層だ。
理の糸が束となり、魔力を通し、世界に意味を与えている」
中央の層が光を帯び、複雑に脈動する。
それはまるで血管のように見えた。
「ここに瘴気が触れると、魔力の流れが腐蝕し、壊れた理が吹き溜まる。その結果として発生するのが――ダンジョン化だ」
「最後が核層。
星が星であるための中心。
形、重さ、意味、存在理由――
それらを守る最深の層だ」
光が中央に集まり、小さな核のような点が浮かんだ。
「ここが大きく揺らぐと、世界そのものが崩壊に向かう。
だから私は、揺らぎの発生原因にこそ興味を持った」
分身は三つの層を重ね、ひとつの球として再構築した。
「さて、ここまでが構造の説明。
――では、次の質問者は?」
その言葉を聞き、次は、ヴァルクが前へ出た。
◆
「四つ目を使う。
呪具とは何か。先達の専門家としてご教授願いたい」
その声は低くなかったが、張り詰めた気配だけが周囲に静かに広がる。
(ヴァルク……自分の技能の根に触れる質問をするのね)
分身は軽く微笑んだ。
「実に良い問いだ。
呪具というのはね――」
さきほどの三層模型の表層だけが、小さく揺れた。
「魔力の理ではなく、表層の揺らぎを利用して動く装置だ」
揺れに呼応するように、黒い影のような紋が生まれ、浮かぶ。
「表層が揺らぐと、外側から負圧…つまり瘴気が流れ込む。
呪具は理層の魔力を使わない。星の外側の力を借りて動くものだ」
「だから魔力と噛み合わず、付与も干渉しない……そういうことか」
分身は講師のように補足を入れる。
「正確には、他者の魔力と噛み合わない、だね。まあその程度は、呪具師なら誰でも知っている常識だ。理層の魔力と、呪具の別系統の流れは、本来は接続し得ないもの。呪具を扱える者が限られているのは、そのためだ。噛み合わないものを、無理なく扱える才能が必要なのだからね」
黒い紋がふっと揺れ、さざめきが強まる。
「大半の呪具師は扱えるから扱っているだけで、何を噛み合わせているかまでは分かっていなかったはずだよ」
(だからヴァルクには付与が通らない……
領域そのものが違うんだ)
分身は軽く指を鳴らす。
「呪具とは、星の外側に触れる唯一の道具。
理に従わず、魔力にも従わず、外側の負圧と呼応する異物」
(異物……)
分身は視線を横へ向け、穏やかに口を開いた。
「さて。質問権は残り六つ。
――次は、誰が?」
その言葉に応えるように、ロシャが前へ出た。
◆
「……世界の謎とかじゃなくて申し訳ないが」
ロシャが手を挙げ、質問権を消費した。
「なんであんたは、こんな手段を取ってるんだ? 工房のダンジョン化もそうだが、隣国の海上都市を崩壊寸前まで追い込んだそうじゃないか」
「ふむ、そんなことがあったのだね」
分身は少しだけ怪訝な表情をした。
「ただ――私が知っているのは、本体――私が工房をダンジョン化した時点までだ。それ以降の行動は、本体と別の分身が見ていた領域になる」
(……分身ごとに視界が違うのか)
レイグレンという存在の異常さが、じわじわ迫ってくる。
「故にその海上都市については『分からない』。ただこの工房については先述したように副作用だ。最初からダンジョン化を目的としていた訳では無いが……むしろそうなったことで私の理論の正しさが証明されたという側面もある」
「本当に人間なのか怪しくなってくるなあんた。
まあ、納得はしたよ」
ロシャの呆れたような物言いに反応するように、分身が己の心中を吐露する。
「工房は私の私有地だし、この街そのものが私の発明と研究で発展した街だ。功罪を比べるなら、流石に死罪に値するほどではない。――少なくとも私はそう判断している」
(どこまでも自分本位……でも、筋は通っている)
分身の声に狂気は薄く、ただそこに理だけがあった。
「これが、私の知り得る範囲の答えだ。
――質問権は残り五つ」
ゆっくりとこちらを見渡す。
「次は、誰が?」




