第2話 ――ダンジョンという理不尽――
朝の光が差し込む酒場は、昨夜の喧噪が嘘のように静かだった。
テーブルの上には飲み干したグラスと、転がったパン屑。
冷めたスープの表面に、窓の光が淡く揺れる。
私は頬杖をつきながら、それをゆっくり口に運んだ。
二日酔いで頭が重いけど……まあ、昨日のは、あれで良かったんだと思う。
ヴァルクは最後に何か言っていた気がするけど、記憶がぼやけている。
酔いのせいか、眠気のせいか、それとも――気が抜けたせいか。
この街は、ダンジョンによって栄えている。
そして同時に、ダンジョンによって縛られてもいる。
「ダンジョンは生きている」
その言葉を初めて聞いたときは笑ってしまった。
だって、洞窟や遺跡が生きているなんて信じがたいでしょ?
でも、潜ってみると分かるのだ。――あれは確かに生きている。
瘴気の流れが人の気配を嗅ぎ取り、挑む者の数に応じてその姿を変える。人数が多ければ多いほど、空気は重く、環境は歪み、敵は狂暴化する。まるで「何人で挑むのが正しいのか」を、ダンジョン自身が主張するかのように。
それは迷信でも伝説でもない。国家が探索者制度を整える以前、かつて国の精鋭部隊が大規模な『人数実験』を行ったことがある。
数十名の兵が挑み、ほとんどが帰還不能。
精神汚染や幻覚、異常再生――あり得ない現象が一気に発生した。
得られた素材はわずか。結局、人数を増やすほどリスクが上がるだけだと証明された。
それ以来、国家は軍の直接介入を禁じた。
代わりに民間の強者にその役割を委ね、探索者制度が生まれた。
ライセンス発行、報酬、監視、すべて国が統制する。
今やダンジョン攻略は国家事業――封印管理、探索許可、出入り記録。
入口には常に監視官が立ち、探索者が潜ると同時に外の封印が施される。中に入った者が全員戻るまで、ダンジョンは完全に閉ざされる。
「封印完了」
――その一言が放たれた瞬間、私たちはもう別の世界に閉じ込められるわけだ。
国が管理しているダンジョンの数は千を優に超える。
今滞在している都市はその中でも最大規模、北辺群第三管理区の拠点。
そして私たち熟練パーティの使命は、ただ潜り、帰ってくること。
未知の遺物を持ち帰り、国家の研究所に届けること。それが仕事だ。
……けどね。
最初の頃は、付与師がいなければ戦えなかったんだ。
国家製の装備――いわゆる支給品は、大量生産前提の簡素なもの。
強化が必要で、その補助こそ私たち付与師の出番だった。
だからこそ誇りもあった。「誰かの命を支える」って、胸を張って言えたのに…
だが、今は違う。強力な魔導具が、少しずつその役割を奪っていく。
もちろん私の付与術は万能だ。あらゆる属性を、素材さえあれば付与できる。刃に炎を、矢に雷を、盾に頑強さを――仮に魔力が宿っていても、それを一時的に上書きすることさえ可能だ。
でも、最初から強力な魔力を宿した装備――
たとえば国宝級の《《神器》》や、ダンジョン由来の《《聖遺物級》》の魔導具には、付与は乗らない。重ねがけを許さないのだ。
机の上に、昨夜ヴァルクが置いていった呪具がある。
どこか物々しいその形に、私はため息をつきながら光の付与を試みた。
「“光”の加護よ、流路を整えよ――」
紋が浮かび、光が滲む。けれど次の瞬間、拒絶するように光が弾かれた。呪の魔力が、外部の干渉を許さない。……整おうとしない。いや、整えられたがらない。まるで生き物が触られるのを嫌がるようだ。
「やっぱり、駄目か……」
付与は、あくまで対象が応じて初めて成立する。
意志を持つ魔力――それが絶対的な壁。
流れを通すことはできても、流れそのものを変えることはできない。
私は静かに手を引き、呼吸を整える。
光は消え、沈黙だけが残った。
最高位パーティの一員であることに誇りはある。
けれど、どんな優れたジョブでも、役割が薄れれば足手まといになる。
それが探索者社会の常識。そして、私の現実。
皮肉なことに、有能な付与師ほど下位パーティに引き抜かれる。
未熟な装備を支えられるからこそ、需要があるのだ。
完成されたチームでは、輝きを失う。
導き手でありながら、最後には外される――なんとも皮肉なものだ。
私はグラスの底に残った光の粒を見つめた。
昨夜の残り香のように、淡くゆらめいている。
「……ほんと、やっかいなことだね」
眠気の残る頭をかきながら立ち上がる。
昼には探索組が帰ってくる…それまでに、身支度を整えないと。
テーブルの上に残されたヴァルクの『忘れ物』を分厚い布で包み、私は小さく息を吐いた。
「まったく……世話が焼けるんだから」
カラン、と扉の鈴が鳴る。
冷たい朝風が頬を撫で、街路では露店が活気を取り戻している。
私は『忘れ物』を抱えて外に出た。
朝陽を背に、少しだけ笑う。
――紫華のクーデリア、今日も健在である。




