第37話 ――揺らぎの残り香――
柱の機能が停止した後、広間の空気がようやく落ち着きを取り戻した。
レイグレンの分身は消えた。残った呪具も沈黙した。
それでも、胸の奥のざわつきは消えない。
「……ここ、出よう。これ以上いる必要はない」
そう言ったものの、問題がある。
出口がない。
そして何より――
「ここから地上へ戻る方法、あるんじゃろうかのう」
リディアが杖を肩に当て、困ったように目を細めた。
潮底遺跡の深度は、はっきりとは分からない。ただ、落下した時の圧からして相当なものだ。
(真上は海……そのままじゃ、即水没)
だが瘴気と潮の境界の層が、まだどこかに残滓として残っているはずだ。
柱を破壊した直後に感じた、あの独特の圧――
潮と瘴気が絡み合う薄膜のような流れ。
「あの境界……完全には消えてない気がする。残り香みたいに」
「境界の残滓か」
ヴァルクが小刻みに頷いた。
「柱が境界そのものを作っていたわけではない。潮と瘴気の流れを奴の狙い通りに整えていた道具に過ぎない。装置を壊しても、現象の地盤はすぐには消えないさ」
「じゃあ……上へ行っても、いきなり海水が流れ込んだりはしない……?」
「完全ではないが、押し返す力は暫くは残るだろう。行くなら、急いだ方が良い」
胸の奥が一気に熱くなる。
(つまり――今なら上へ帰れる)
「……決めた。上へ行くよ」
遺跡の外壁は無傷ではないが、所々に崩れた通路がある。
それを辿れば、上側へ抜けられるかもしれない。
*
崩れた回路の奥へ進むと、風の通り道のような場所に出た。
潮と瘴気の境界の残滓が揺らいでいる。
薄く、灰色の膜のように。
光に触れるたび、ゆらゆらと波紋を描いていた。
「……これが、押し返してる?」
「うむ。潮の層が、まだ瘴気の残り香に押されておるんじゃな。奇妙なバランスじゃ」
確かに海水は、すぐそこまで迫っている。
なのに、境界の膜で押し止められていた。
膜の向こう側では、海流が怒涛のように流れている。
だがこちら側は――静寂。
異様で、そして都合のいい光景。
「行こう。膜の中を通る」
「通れるのかの?」
リディアが杖で軽く膜に触れる。
波打つように揺れ、杖身を拒まない。
「……瘴気と潮の反発……緩衝膜だな」
ヴァルクが分析を落ち着いた声でまとめる。
「付与して魔力の振幅を調律すれば通れる。崩れない程度に、そっとだ」
「分かった。風で包むよ。……行くよ」
私は杖先に“風”を付与し、三人の周囲に薄い膜を張る。
境界の残滓に干渉しないよう、優しく、ゆっくりと。
「……っ」
足が境界膜に触れた瞬間、体がふわりと浮く感覚があった。
次の瞬間、視界が白く弾け――
海流に押されることもなく、私たちは膜の中を上昇していった。
*
(……光?)
海中の影が薄れ、視界に淡い明るさがにじむ。
「浮上しておる……潮の層に押されてかえ?」
「いや、残滓の持ち上げだ。上層へ逃げる力が働いている」
言葉の意味を理解する前に――
視界の先で、青い光がふっと広がった。
海面だ。
次の瞬間、境界膜がぱん、と弾けた。
「……出た!」
私は思わず声を上げ、すぐに海面へ身を乗り出す。
周囲は夕景の気配が漂い、外縁部の防壁が遠くに見える。
海面は荒れているが、もうあの揺らぎは無い。
「潮も瘴気も安定しておるのう。柱を壊した影響じゃな」
「港まで距離はあるが、この程度なら問題ない」
ヴァルクが周囲を観察しながら頷く。
(……戻れる)
胸の奥がじわりと温かくなる。
エルドたちは無事だろうか。
ラナも氷雨も、オーリスも。
(早く……合流しないと)
私は深呼吸した。
「さあ、帰ろう。みんなのところへ」
◇◆◇
リューグー外縁・防壁上
海が、獣のように吠えていた。
外縁部の防壁はひどく傷んでいる。
柱の破片が落下し、潮流はささくれ立ち、魔物たちの波は完全には引いていない。
「三時方向、潜り込み!」
エルドが叫ぶと同時に、弓弦が鋭く鳴り、一本の矢が次々と分裂し、海面すれすれを滑った。矢は海中から跳ね上がった魔物の目を正確に貫き、泡を散らして沈める。
だが――
「また来た……っ」
ラナが剣を払うと、黒い影が裂けて飛沫が散った。
寄せてくる魔物は、どれも陸上の獣とは違う形をしていた。
<潮噛み鰭獣>
鋭い胸鰭を脚のように使い、防壁をよじ登る異形。
動きが速く、斬っても水を含んだ肉が粘るように再密着する。
<溝潜り蛇>
水路の隙間を通れる程に細く、足元へ噛みつく細長い魔物。
噛まれると瘴気が舌から流れ込む。
<礁鎧蟹>
甲殻が岩石質で、前衛でも数発殴らないと怯まない鈍重な個体。
どれも、集められた海の瘴気に触れて変質した魔物だ。
ダンジョン産よりは幾分かマシだが、外の魔物にしては強力である。
「っ……氷雨、右側の溝! 影が寄ってる!」
「分かった……!」
氷雨が小さく息を整え、白い指をひらりと動かす。
「《幻影」
誘導に特化した幻が作られ、潜んでいた溝潜り蛇がそちらへ吸い寄せられるように軌道を誤る。そこへラナが駆け込み、剣を横薙ぎにし、濁った水柱が上がった。
「助かった!」
「ううん……まだ来る、かな」
氷雨の声は相変わらず静かだったが、その手はわずかに震えている。
(……疲れてる。流石にここまでの連戦は、負荷が大きい)
オーリスの額にも汗が滲んでいた。
「結界、外層が限界です……! 再展開まで間隔、少し開きます!」
「無理はするな。内層だけでも保持してくれれば十分だ」
エルドが即座に指示を返す。
だが、足場はひどい状態だった。
魔物を斬り伏せるたび、潮の衝撃が壁へ叩きつけられる。
トゥリオの盾はびくともしないが、受ける衝撃が強すぎる。
「トゥリオ、持つ?」
「……問題は無い。俺は絶対に倒れない」
短いが、息に少し硬さがあった。
彼の体力は装備の効果で無尽でも、精神は確実に擦り減る。
押し寄せる魔物の、新たな波は止まった。
だが、絶え間ない連戦で、徐々に体力・精神力が削られていく。
(このままでは……持つか怪しい、最悪撤退も視野に)
その時だった。
海の先――外縁のさらに向こう側、濁った潮の境界が、ほんの一瞬だけ白く照らされた。
「……エルド?」
ラナが剣を止めて振り向く。
「ああ……見間違いじゃない」
遠く、海面の上へ――
今度は紅い光柱が立ち上がった。
「これは……炎?」
オーリスが目を瞬かせる。
だが、ただの炎ではない。
海の湿り気をねじ伏せるほどの圧。
エルドは、わずかに口角を上げた。
「……あの炎、見間違えようがない。リディアのものだ」
次の瞬間、海面が大きく揺れた。
爆ぜるような音とともに、熱の奔流が水平線の向こうまで広がる。
そして――
「――エルド!」
紅の光柱の根元から、
風と潮に乗って、聞き慣れた声が飛んできた。
光の筋。風をまとい、海面に跳ねる三つの影。
エルドはぎゅっと弓を握り直した。
「……クーデリア」
潮の匂いの中で、彼の声は、確かに震えていた。




