第34話 アラブラハム・レイグレン②
――まずは、一撃。
届くかどうか、確かめるしかない。
「床に“斬”を付与!線で刻む!」
広間の床一面に刻まれた波と渦。その一部を刃としてなぞるように、斬属性を細く伸ばしていく。狙うのはレイグレン本人ではなく、彼の足元から柱へ向かって走る魔力の線だ。
「……っ」
属性を付与すると同時に、床を走る紋様の一部が一瞬だけ強く光った。
波と渦を描く線の上を、斬属性の刃が駆け抜ける。
だが――手応えは、なかった。
「……消えた?」
魔力の流れに干渉したはずの感覚が、その先でふっと途切れる。
床の紋様には傷一つついておらず、私の魔力だけがどこかへ吸い込まれて霧散していた。
「おおお?」
レイグレンが、わざとらしく目を丸くする。
次の瞬間には、ねっとりとした嗤い声に変わっていた。
「よろしい! よろしいですともお!
私ではなく広間そのものに干渉してくるとは、さすが紫華様あ。
ですがですなあ――」
柱の根元に縫い付けられた呪具の一部が、ちろりと光る。
「こちらも、ただ立っているだけではありませんでしてねえ。
そちらの刃はあ、この子たちが届く前に全部飲み込んでしまったのですよおお」
「……吸収型の防御か」
思わず漏らすと、すぐ隣でヴァルクが短く言葉を継いだ。
「吸収と言うより、書き換えに近いな。
ここから先には何も通らなかった、という形で理ごと塗り直している」
「理ごと、か。まるで理喰らいのようじゃな」
リディアが、厭わしげに息を吐く。
レイグレンは、その評価すら楽しげに受け止めた。
「いやあ、呪具師殿と大魔導士殿に解説していただけるとはあ、私も本望でございますよお。さあさあ、どうぞもう一、二手ほど試してみてくださいなあ?」
挑発するような声音。
喉の奥で嗤いを転がし続けながら、彼は一歩も動かない。
「……なら」
私は一度息を整え、リディアへ視線を送った。
「リディア、どう見る?」
「そうじゃのう……」
リディアは杖を軽く掲げ、ゆっくりと前に出る。
「ここから直にその身を焼くのは得策ではなかろう。ならば、周りを煮立たせればよい」
そう言って、わずかに口元を吊り上げた。
「――よかろう。儂も一つ、試運転と参ろうかの」
リディアの周囲の空気が、じわりと熱を帯びる。
彼女は深く息を吸い込み、術式を編み上げながら、静かに詠じた。
「《燃式・炎照》」
次の瞬間、広間の空気が炎に変わった。
紅でも橙でもない、鈍く白を帯びた焔が柱の周囲を包み込む。
燃やしているのは地形ではない。
そこに満ちた空気そのものだ。
「っ……!」
一歩引いた位置にいる私たちのところまで、熱と圧が押し寄せる。
リディアが杖先をひと振りすると、私たちの足元だけは風の膜で囲われた。そこには焔が入り込まない。
「息は浅く保て。周りの酸素を、一気に喰わせる」
リディアの声は静かだが、命令としての強さがあった。
柱の周囲で、焔が吸い込むようにうねる。
瘴気と潮の境界が高熱で揺らぎ、鐘の音がひどく濁った。
炎が膨張し、すぐにしぼむ。
その繰り返しの中で、焔は目に見えない空白域を刻んでいく。
あの範囲で呼吸しようとしたなら、一息で肺をやられるだろう。
「ほう……」
炎に包まれた中心から、レイグレンの声がした。
焔の幕越しに見えるその輪郭は、揺らいでも崩れない。
やがて、炎はすうっとしぼみ、柱の根元だけをなぶる細い火筋に変わっていった。燃やせる酸素が無くなったのだ。
「儂の炎は理そのものは焼けぬ。じゃが呼吸が必要な生物が生きられぬ環境を作り出すことは出来る。今の範囲で息を吸おうとしたなら、確実に昏倒しておるところじゃぞ?」
「いやあ、見事、見事でございます」
レイグレンは、まるで舞台袖から芝居でも眺めていたかのように手を叩いた。
「ただ残念ながらあ――」
そこで、楽しげに首を傾げる。
「この“私”はあ、息をしておりませんのでねええ?」
ぞわり、と背筋に冷たいものが走った。
「……今、何て言った?」
私が問い返すと、レイグレンはモノクルの奥で片眼を細める。
「息、ですともお。呼吸。酸素の出入り。肺の膨らみ。
人間というのはあ、それらが止まるとたいてい死にますなあ?」
嗤いを含んだ声で淡々と並べ立て、それから自分の胸を軽く叩いた。
「ですがあ、この私にはあ、不要でしてねえ。
呼吸も、脈も、体温も、ここでは要らないのですよおお」
「分身、というわけか」
ヴァルクが呟く。
「かなり実体に近いがな。本体の型だけをこちらに引っ張り出して、肝心の生体としての部分は切り落としている」
「その通りいい!」
レイグレンは心底愉快そうに喉の奥で嗤った。
「こちらにいる私の内側はあ、だいぶん抜いてありましてねえ。
だからこそ、どれだけ酸素を喰われようと、どれだけ熱されようと、死ぬということが無いのですよお」
「……本体は、別のどこかで寛いでる、ということかえ?」
リディアの言葉に、レイグレンは肩をすくめて見せた。
「さて、どうですかなあ? 想像にお任せいたしますともお」
流石に、本体の位置を明かす気はないらしい。
「ですがあ、代わりと言っては何ですがねえ――」
レイグレンは今度は別の呪具に指を触れた。
円盤のような金属片が、柱の中腹までふわりと浮かび上がる。
「紫華様方にも、観測者の席は提供いたしましょうかあ?」
金属片の表面が、水面のように揺れた。
次の瞬間、その上に海が映る。
水面。
その上に、浮かぶ巨大な構造物――海上都市リューグーの外縁部だ。
「あれは……」
思わず声が漏れる。
映像の中のリューグーは、すでに静かな姿ではなかった。
外縁の防波施設のあちこちから水柱が立ち上り、その合間を、黒い影が無数にうねっている。
「海の魔物……」
「そうですともお。鐘の音に釣られて集まってきた、お客人たちですなあ」
レイグレンは嬉々として説明を続ける。
「瘴気と潮との境界をちょおっと揺らしてあげますとねえ、沢山音が鳴りまして、こうして敏感な連中が群れで押し寄せる。私はあ、ただ道筋を整えて、少しだけ押してあげただけでございますよお」
映像が寄る。
外縁の防壁の上に、見慣れた影がいくつも見えた。
「……エルド」
背の高い男が弓を構え、群れの先頭を射抜いていく。
矢筋が、海面すれすれを滑るように走り、魔物の眼と口腔を正確に貫いていた。
その前で盾を構えているのは、重い鎧姿の男――トゥリオだ。
水柱と共に突き上がる魔物の突進を、全身で受け止めている。
「ラナも……氷雨も、オーリスも」
一撃ごとに水飛沫が上がり、視界が乱れる。
そのたびに、映像の中のラナが剣を振り抜き、接近してきた魔物の首や足を斬り払っていた。氷雨の幻影が、海面に偽の足場や影を描き出し、魔物の突進を空振りさせていく。オーリスは防壁の内側で結界を張り直し、押し寄せる衝撃を受け止めていた。
「面制圧の火力が無い分、手数で押さえにかかっておるのう」
リディアが、映像を見上げながら呟く。
「儂が上におれば、もう少しは楽にしてやれたのじゃがな」
「そこがあ、たいへん良い塩梅でしてねえ!」
レイグレンが、心底楽しそうに掌を打った。
「大魔導士殿はこちら側。面を焼き払う火力はあ、今ここに閉じ込めてある。
あちらに残っておられるのはあ、優秀な前衛と、堅実な支援のみい。
持ちこたえることは出来るでしょうがあ、叩き潰すには手が足りない」
映像の中で、また一つ水柱が上がった。
防壁ぎりぎりの位置に黒い影がよじ登り、ラナが駆けていく。
「……やめろ」
自分でも驚くほど低い声が出た。
レイグレンは、私のほうをちらりと見て、愉快そうに笑う。
「やめろ、とはあ? 観測を、でございますかあ? それともお――」
円盤の上の映像が、別の角度に切り替わる。
今度は、湾内の別の区画。
城壁の内側に近い水路にも、魔物の影が入り込もうとしていた。
「揺らぎを、でございますかあ? 紫華様。
あなた様がどれほどここで私を削ってくださるかでえ、あの場の未来も変わりましょうなあ」
嗤い声と鐘の音が、耳の奥で絡み合う。
私は強く歯を噛みしめた。
(エルドたちだけでも、しばらくは持つ。
でも――あの波の厚さで、長時間は無理だ)
映像越しでも、魔力の消耗がはっきり分かる。
エルドは絶え間なく矢を放っているが、放たれる魔力の軌跡が徐々に薄くなっている。
トゥリオの盾は不壊だが、押し寄せる水圧と魔物の衝撃に対し、彼の足がじりじりと床を削っていた。
オーリスの結界は形を保っているものの、外層の光がときおり揺らぎ、再展開の間隔がわずかに伸びている。
どれも、限界が遠くないことを告げていた。
「……クーデリア」
ヴァルクが小さく呼びかける。
「分身の維持線は、さっきの攻防である程度見えた。
あいつの遊びに乗せられる前に、こちらから切りに行くべきだ」
「ええ。あっちを任せている手前、こっちで躓いている場合じゃない」
私は映像から目を離し、再び床の紋様へ意識を戻した。
レイグレンの分身は、呼吸をしない。
酸欠も熱も通じない。
だが――維持している線は、必ずどこかにある。
「……レイグレン」
私はもう一度、彼の名を呼んだ。
「観測者の席なんて要らない。
あんたの分身を落として、揺らぎの中核を担う柱ごと止める。それだけだよ」
レイグレンは、嗤いながら両手を広げて見せる。
「よろしい! よろしいですともお、紫華様あ。
ではあ――続きと参りましょうかあ?
あなた様の付与の力があ、どこまで私の“積み上げ”に届くのかあ」
広間の魔力が、再び逆立つ。
海上都市リューグーの映像が、円盤の上で揺れた。
あの街が沈むかどうかは、この場での一手一手にかかっている。
私は杖を握り直し、深く息を吸い込んだ。
(皆はまだ生きてる…だからこそ、絶対にこいつは仕留めなきゃ)




