第32話 ――潮底の回廊――
最初の一歩を踏み出した瞬間、足首に冷たい水がまとわりついた。
天井の割れ目から落ちてくる海水が、石畳の上に薄い流れを作っている。完全に乾いているわけではないが、さっきまでの水圧に比べれば、ないも同然だ。
「……歩けるだけでも、御の字か」
自分に言い聞かせるみたいに呟き、私は杖の先で床を軽く叩いた。石の感触はしっかりしている。崩落の危険は、今のところ少なそうだ。
「魔力の残量は?」
「私は、まだ余裕ある。触媒も……小瓶の中の粒が残り五つ。」
私が小瓶の中身を確かめながら答えると、ヴァルクは頷き、黒い呪具の表面を指でなぞった。
「こちらも主力の呪具は温存してある。ただ、さっき空間を切り離した呪具はしばらく使えん。冷却が要る」
「儂も、先ほどの魔法くらいで大きくは削っておらぬ。問題は、戻る算段よな」
リディアが、濡れた術衣の裾をひと振りした。
水滴が石畳に落ち、小さな波紋を作る。
――戻る算段。
その言葉の重さが、胸に沈んだ。
「……上への帰還は、一旦置こう」
私はそう言って、意識して前だけを見る。
「今できるのは、この遺跡の構造を把握すること。
もしかしたら上に戻る手段があるかもしれないし、他の皆もいるかもしれない」
リディアがうなずく。
「そうじゃな。何も分らんところじゃが、今ここで出来ることは一つよ」
「この遺跡を調査する。」
自分で口にして、ようやく覚悟が形になった気がした。
私は杖を掲げ、付与を行使する。
「杖に“光”を付与。暗所での見落としを減らす」
杖先に宿った光が、石壁と床の装飾を照らし出す。海藻と貝殻の下に隠れていた線刻が、青白く浮かび上がった。
弧を重ねた文様。波をかたどったような紋様。どれも、今の王都では見ない様式だ。
「古い……少なくとも、サンライズ王国以降のものじゃないな」
ヴァルクが壁を指先でなぞる。
「この角度、この継ぎ目……建材の加工技術が異なる。かなりの年月が経っておるはずだ」
「けど、魔力の流れは新しい」
私は床下の感覚を探る。
「石そのものが持つ“残り香”と違う。誰かが、ここに最近の魔力を通してる」
胸の奥を叩くような振動が、さっきより強くなった。
瘴気と潮の圧力がぶつかり、削り合い、押し返し合う。その衝突音が、まるで鐘のように響いている。
リディアが目を閉じ、耳を澄ませた。
「これは……自然の共鳴だけではないのう。瘴気と潮が揉み合って生む響きに、誰ぞが裏で細工を施しておる。波形を歪め、無理矢理より鐘めいた音に仕立て直しておるわ」
ゆっくりと目を開き、厭わしげに続ける。
「自然の揺らぎに、人工の息を混ぜる。……まこと悪趣味よ。音というより意図が滲んでおる。誰かが、ここでこの響きを鳴らしたくて仕方がない……そんな執念すら感じるわ」
鐘の音は、最早耳の奥をかき乱すほど明瞭だった。
自然に生まれる揺らぎではなく――誰かの手癖が加わった異様な脈動。
悪趣味、という言葉に、うっすらとした嫌悪が混じっていた。リディアのような大魔導士にそう言わせる相手が、どんな人物なのか、私はまだ知らない。
ただ、胸の奥のざわつきは、それだけで十分だった。
*
通路は、ゆるやかな下り坂になっていた。水は常に足元へ向かって薄く流れ、ところどころに小さな段差がある。
「落差は緩やか。重力方向は、まだ地上と変わらん」
ヴァルクが淡々と確認する。
「ただ、瘴気の層は……少しずつ濃くなっているな」
「感じるね。天井近くより、床面のほうが重い」
私は呼吸を浅くしながら、魔力の濁りを測る。
「まだ戦闘に支障が出るほどじゃないけど、長居はしたくない濃度だよ」
「それこそ付与で浄化……するにも微妙な濃度じゃな」
リディアが小さく肩をすくめる。
「まあ、瘴気の垂れ流しも、原因を断てば止まろうよ」
私たちは慎重に歩を進めた。
曲がり角ごとに、私は杖で空気を揺らし、風を付与して流れを読む。瘴気がどちらから濃く押し寄せているかを確かめながら、少しでも濃い方向を選ぶ。
「こっちだね」
三つ目の分かれ道で、私は右側の通路を指さした。
「左は風が逃げてる。出口に繋がる気配。真ん中は停滞。右は……重い。鐘の響きも、僅かに右から強い」
「右じゃな」
リディアが先行しようとするのを、私は手で制した。
「私が前に立つよ。何か仕掛けがあっても、付与で誤魔化せることがあるかもしれない」
「……よかろう」
リディアが一歩引く。
「儂は、そのすぐ後ろで火力を出そう。ヴァルク、お主は――」
「最後尾を貰おう。背後から来るもののほうが、俺の仕事には向いている」
ヴァルクが短く答え、列の配置が決まった。
三人で歩くには、やや狭い通路だ。天井は低く、ところどころに海の生き物の残骸がへばりついている。長い時間、ここが水に満たされていた証だろう。
壁の亀裂の奥から、細い光の筋が差し込んでいた。地上の太陽ではなく、どこかで反射した魔力の光だ。私はそこに杖先を近づけ、ゆっくりと“光”の付与を薄める。
「……見えるか?」
ヴァルクの声。
「見える。壁の向こうに、別の通路が走ってる。でも、ここからは行けない。完全に塞がってるね」
「ならば、今は無視でいいじゃろう」
リディアが言う。
「廻り道を探す時間も惜しい。鐘の音が、少しずつ近うなっておる」
確かに、胸の奥を叩くような振動が、さっきより強くなっていた。まだ遠いが、高くなる方向にあるのは分かる。
あれを、このまま放っておくわけにはいかない。
*
しばらく進むと、通路の床が不自然にえぐれている場所に出た。まるで何かが爆ぜたように、石が内側から吹き飛んでいる。
「……崩落ではないな」
ヴァルクがしゃがみ込み、砕けた石片を拾い上げた。
「外からの衝撃ではなく、中で膨張した痕跡だ。焼け跡もある」
「呪具の暴発?」
私はえぐれた中心に杖先を向け、残留魔力を探る。
微かな痺れと、焦げたような匂い。魔力の痕跡は、完全には消えていない。
「似てはいるが、少し違う」
ヴァルクが石片を指でもて遊びながら言う。
「これは暴発したというより、使い捨てた痕跡だ。意図的に過負荷をかけて、役目を終えさせている」
「そんなこと、する必要ある?」
呪具は貴重だ。私の感覚では、極力壊さずに使い回すものだと思っている。
「普通はしない。だが――」
ヴァルクは石片を指先で砕き、ぱらぱらと床に落とした。
「呪具そのものより効果だけを優先する者もいる。目的のために、いくらでも捨て駒を積み上げるような」
その言い方が、珍しく棘を含んでいた。
「それ、呪具師として嫌う相手かな?」
私の問いに、ヴァルクは少しだけ目を細めた。
「嫌悪というより……警戒する対象だな。そういう者の仕事は、予測がつきにくい。安全弁という発想がないからだ」
「心当たりがありそうな言い方よな」
リディアが、じろりと横目で見る。
ヴァルクは、曖昧な笑みを浮かべた。
「昔、噂で聞いたことがあってな。呪具と屍だけを積み上げて塔を建てた男の話だ。詳細は知らん」
噂話、というには、声音が重い。
私はそれ以上は踏み込まず、えぐれた床を避けて先へ進んだ。
*
通路の先に、緩やかな階段が現れた。幅は広く、片側の壁には、海藻に覆われたレリーフが並んでいる。よく見ると、その一部が新しい傷で削られていた。曲線を描いていたはずの模様が、途中から直線で断ち切られている。
「ここも、最近いじられてる」
私は指でなぞり、切断面の滑らかさを確かめた。
「これは……斬属性で切られた痕。魔法か、呪具か」
「何にせよ、今も誰かがここを通っているということじゃな」
リディアが杖を強く握る。
「儂らの他に、生きた者が」
その「生きた者」という言い方に、微妙な含みがあるのは分かったが、問い返す前に階段の上から風が吹いた。
瘴気を含んだ、重い風。それに混じって、かすかに別の匂いがする。
焦げた金属と、乾いた薬品。そして、血のような鉄の匂い。
私は思わず足を止めた。
「……嫌な匂い」
胸の奥に、ざわりと寒気が走る。
「誰かが、ここで何かを組んでる」
「組んで、とは?」
ヴァルクが尋ねる。
「魔力の流れが、自然じゃない。壁と床から立ち上がる線が、全部どこか一点へ向かって収束してる」
私は目を閉じ、足元から天井まで、見えない線をなぞるように意識を伸ばした。
「この階段の上に核がある。結界でも、装置でもいい。とにかく、中心が」
「鐘の音も、上からじゃな」
リディアが、耳を澄ませる仕草をする。
「さっきより明瞭じゃ。……あまり長居はしたくない響きよ」
私は大きく息を吸い込み、吐いた。
怖い。正直に言えば、それが一番近い感情だ。未知の装置。未知の相手。未知の魔力。
けれど、その全部を放って帰る選択肢は、今の私にはない。
エルドたちが、今どこに居るのか分からない。その前提がある限り、ここで怯んでいるわけにはいかない。
「行こう」
私は階段に足をかけた。
「これ以上、鐘の音を好きに響かせるわけにはいかない」
ヴァルクとリディアが、それぞれ頷く。
一段ごとに、胸の奥の振動が強くなる。鐘の音が、音というより脈動として伝わってきた。
階段を上りきると、短い踊り場があり、その先に大きな扉が一枚、口を閉ざしていた。両開きの、厚い石の扉。中央には、海を模したような円形の紋章が刻まれている。
扉の隙間から、淡い光が漏れていた。光と一緒に、濃い瘴気と、呪具の金属臭が流れ出している。
「ここが、核か」
ヴァルクが端的に言う。
私は扉に近づき、手をかざす。
「内側に、複雑な魔力網がある。単純な罠じゃない。開閉そのものが、術式の一部みたいな構造」
「壊せるかえ?」
リディアの問いに対して、私は正直に答える。
「壊すこと自体は出来る。でも、何が起こるか分からない。
……最悪、全員即死なんてこともあり得る」
「となると、強引には行けんか」
ヴァルクが扉から一歩距離を取り、周囲の壁を見回した。
「他の入口は?」
「この階層には、ここしか主導線がない」
私は首を振る。
「脇道は全部、魔力の流れが薄い。迂回路があるとしても、かなり遠回りになると思う」
そのときだった。
扉の向こうから、鐘とは別の音がした。
高く、乾いた音。何か硬いものを軽く叩くような――例えば、杖の先で床を打つような。
一度。
二度。
間を置いて、三度目。
そのリズムに、ぞわりと肌が粟立つ。
「……今の、聞こえた?」
私は振り返る。
リディアもヴァルクも、わずかに表情を引き締めていた。
「居るのう。少なくとも、何かが」
リディアが小さく呟く。
「鐘の音とは別に、意志を持っての動きじゃ」
ヴァルクは、呪具の一本を抜き、静かに構えた。
「扉一枚隔てた向こうに、意図的な魔力操作がある。……クーデリア、準備は?」
「いつでも」
私は杖を握り直す。掌に汗が滲むのを、意識で押し込めた。
扉の向こう側で、誰かが嗤った気がした。
空耳かもしれない。けれど、その嗤いには、妙にねばつくような響きがあった。
私は唾を飲み込み、扉から半歩下がる。
「……開ける前に、もう一度だけ構造を見る。
出来るだけ、こっちに不利が出ないように」
そう告げて、私は再び杖先を扉へ向けた。
ここから先に、何が待っているのか。
その答えは、もうすぐ目の前にある。
少なくとも――この扉の先に、元凶の一端がいることだけは、疑いようがなかった。




