第31話 ――潮底遺跡――
明け方の港は、白く薄い霧に包まれていた。
決行の一杯が、まだ身体の芯に残っている気がする。
封鎖線の外側、借り受けた中型船の甲板に、私たちは全員集まっていた。結界石を収めた木箱、測定器具、【連環の匣】の粒を分けた小瓶。そのどれもが、今から向かう場所の危うさを物語っている。
「潮底湾の中心部までは、昨日と同じ航路で向かいます」
エルドが手元の地図を畳み、顔を上げた。
「到着後、結界石を展開。観測結果が“想定の範囲外”に振れた場合は、即時撤退を優先しましょう。攻勢は二の次です」
「了解」
皆の返事が重なる。
私はポーチの口を確かめる。
自分用の連環の匣の粒は十個。
リディアに渡した分と合わせれば、今日一日分の無理は利くはずだ。
「……顔、固いよ」
隣でラナが笑った。
「大丈夫。いつもどおり、クー子が全体を見ててくれれば何とかなるって」
「それ、責任が重いんだけど」
そう返しつつも、少しだけ肩の力が抜けた。
トゥリオが静かに舵のほうへ向かう。
船は港の灯から離れ、ゆっくりと霧の中へ滑り出した。
*
しばらく進むうちに、海の色が変わっていく。
王都近くの港で見るような青ではない。
昨日も見た、あの灰がかった群青――魔力を吸い込むような色だ。
「……ここから先が、濃度境界だね」
私は杖の先で海面を軽く叩き、魔力を落とした。
光がじわりと広がって、すぐに沈む。
やっぱり、通りが悪い。
ヴァルクが結界石の箱を開ける。
「予定どおり、この船を中心に六点構成で行く。氷雨、外周の幻視は任せる」
「了解」
氷雨が頷き、船縁に指先を滑らせる。
淡い霧が結界石の位置をなぞるように伸びていく。
エルドが短く号令をかけた。
「――展開開始。各自、持ち場へ」
オーリスは中央で祈りと詠唱を重ね、
ヴァルクはその周囲に測定器具と呪具を配置する。
ラナは甲板の外周をゆっくり歩きながら、いつでも踏み込める距離を計り、トゥリオは舵と船体の動きを監視している。
リディアは船尾側に陣取り、いつでも火力を叩き込める位置を確保していた。
私は――結界全体を俯瞰する位置、中央と船首のあいだで杖を構える。
海の上に結界を張るのは、本当に厄介だ。
足元は常に揺れ、魔力の支点は潮と風に振り回される。
それでも、結界石から立ち上がる線を、私は一つひとつ繋いでいく。
「……第一層、安定。伝導率、許容範囲内」
ヴァルクの報告が飛ぶ。
「外周、像が見えてきた」
氷雨の声に合わせて、海面の上に薄い光の線が浮かんだ。
結界石を結ぶ六角形、その内側にさらに細かい格子が描かれていく。
私は呼吸を整え、魔力の流れの歪みを探る。
潮の向き、瘴気の偏り、底から上がってくる“重さ”。
すべてを一度、自分の中に通してから、整え直す感覚。
「……湾底、観測開始」
オーリスの詠唱が一区切りついた。
安定した結界の内側に“像”が立ち上がる。
光で描かれた、海底の地形の投影だ。
ざらついた岩の稜線。窪地。
そして――その真ん中に、明らかに自然のものではない形。
「……何、あれ」
思わず声が漏れた。
階段のような段差が、輪を描くように重なっている。
その中心に、柱か塔のようなものが一本、立っていた。
高さは湾の深さの三分の一ほど。
その先端から、細い線が四方へ伸びている。
「遺跡……?」
「少なくとも、自然地形ではないな」
ヴァルクが測定器具を操作しながら続ける。
「魔力の反応は……柱の内部。一定の周期で脈動している」
――脈動。
昨日、港で感じた“呼吸のような揺らぎ”と同じ言葉だ。
「鐘の音の源も、そこだな」
エルドが結界像を見つめる。
「深度は……想定より深いか」
私は触媒の粒を一つ指に挟み、砕いた。
指先に熱が走る。
「杖に“風”と“光”を付与。」
(……風だけでは揺らぎの向きが読めない。光で外層を可視化し、その上で風を流して均す)
「任せる」
ヴァルクがこちらの行動の意図を察し、結界の制御の一部を私に預けた。
風で潮の揺れを均し、光で瘴気の濃淡を際立たせる。
柱の輪郭が、少しだけ鮮明になった。
その瞬間だった。
海の底から、低い音が響いた。
昨日よりもずっと近く、濃い音。
胸骨の裏側を直接叩かれるような響き。
「……来るか」
エルドの声が、甲板の空気を引き締める。
柱の先端がわずかに揺れ、内部から黒い線が一本、走り出した。
それはまっすぐに、結界の上面へ伸び、
そのまま、海面を突き破って――
海を ”裂いた”。
船のすぐ横に、巨大な水柱が立ち上がる。
音より先に、圧力の変化が肌を打った。
「全員、伏せろ!」
エルドの指示と同時に、船体が横から叩かれる。
甲板がきしみ、結界石の一つが海へ弾き飛ばされた。
「第一支点、喪失!」
ヴァルクが叫ぶ。
「結界が歪む、補正を――」
歪んだ。
六角形だった結界が、一気に片方へ引き寄せられる。
潮の流れが一方向へ固定され、そのまま結界全体を引き摺る。
海の中から、何かが“生えた”。
黒い柱。結界を通して見ていたものよりもはるかに太く、長い。水と瘴気をまとったそれが、船底すれすれで止まり、次の瞬間、鐘が割れるような音とともに、横へ弾けた。
「……っ!」
衝撃で、私の身体は甲板から浮く。
視界が一瞬、白くなった。
耳が鳴って、誰の声も聞こえない。
(駄目、このままだと――船ごと持っていかれる)
私はほとんど反射でもう一粒を消費し、風と土を同時に付与。船体を無理やり安定させ、周囲を固める。今は一秒が惜しい。触媒の消耗を気にしている場合ではない。
「生存最優先! 観測は捨てます!」
喉が裂けそうな声で叫ぶと、エルドが素早く合わせる。
「全員、離脱行動! トゥリオ、船体の保護を!」
トゥリオが船側に盾を構え、その前でオーリスが結界を重ねる。
ラナは外周で押し寄せる水柱を斬り払い、
氷雨の幻影が迫る黒い線の軌道をずらしていく。
だが、海そのものが敵になっているような状況で、地上の感覚は通用しない。
二本目の水柱が船尾を叩き、
三本目が船首側をすくい上げる。
船体が、真ん中から折れた。
甲板が跳ね、私は足場を失う。空か水か分からない空間で、身体が一瞬宙に浮き、次の瞬間、冷たいものが全身を包んだ。
「……っ、くそ……!」
海だ。
目を開けると、上も下も分からない暗がりの中で光が渦を巻いていた。結界の残光、連環の匣の粒から伸びた魔力、リディアの炎が水中でねじ曲がりながら燃えている。
遠くで、ラナの姿が一瞬見えた気がした。
氷雨の幻影と重なって、すぐに見失う。
(掴めない……間に合わない)
肺が焼けるように痛い。
それでも、杖だけは離すまいと握り締めたところ、腕を引かれる感触がした。振り向くと、ヴァルクがこちらを掴んでいる。
彼はもう片方の手で、黒い呪具を握りしめ、周囲に膜のような魔力を広げていた。
その外側で、炎が暴れる。
……リディアだ。
彼女の杖先から迸る火と雷が、渦を成して襲い来る水流を弾き飛ばしている。海中とは思えないほど、鮮烈な光。
(クーデリア、息を止めておれ)
声は無いが、その意思が水越しに届く。
言葉の形だけが、はっきり聞こえた。
ヴァルクの呪具が、ぱん、と何かを弾く音を立てる。
その直後、私たち三人の周囲に、硬い膜のような感触が生まれた。
水の重さが、一瞬で軽くなる。
頭上と足元の感覚が戻ってくる。
「……空間を切り離した」
ヴァルクが絞り出すように息を吐いた。
「長くは保たん。だがその間の呼吸を保証する」
「上へは行けぬぞ」
リディアが炎を収めながら言う。
「潮の向きが下へ固定されておる。上へ逆らえば、結界ごと潰されるわ」
つまり――。
「このまま、落ちるしかないってこと?」
誰も否定しなかった。
「せめて、潰れずに着地したい。どこに落ちるか分からないけど」
「ならば、儂が前を照らそう」
リディアが杖を掲げる。
炎と雷が細く伸び、進行方向をかすかに照らした。
呪具の膜ごと、私たちは海底へと引きずられていく。
回転は抑えられているが、速度は落ちない。
耳の奥で、また鐘の音が鳴った。
高く、鋭く、今度はほとんど悲鳴のような音。
視界の端で、黒い柱が遠ざかっていく。
その根元に、輪を描くように広がる影。
階段。
壁。
アーチ。
――街だ。
海底に沈んだ街並みが、一瞬だけ光に浮かび上がった。
そこで、急に落下が止まる。
膝に鈍い衝撃が走った。
足元に、硬い感触。
私はその場に片膝をつき、荒い息を吐いた。
膜の表面が軋み、ぱきん、と音を立てて砕ける。
冷たい水が一瞬流れ込んで、すぐにどこかへ逃げた。
見れば、周囲は完全な水中ではない。
崩れた天井から水が滝のように落ち込み、その下だけが空洞になっている。
「……内部空間、か」
ヴァルクが周囲を見回す。
「上のどこかで結界石が引っ掛かったな。海水が全部は入り込めん構造だ」
足元には、石畳。
壁には、見たことのない装飾。
海藻に覆われながらも、確かに人の手が入ったと分かる整った造り。
「海底の……遺跡」
口に出した瞬間、背筋が冷えた。
エルドたちの姿は、どこにもない。
運よく残っていた通信結晶を耳に当てても、雑音すら聞こえなかった。
「……皆は?」
自分で問うておいて、答えを聞くのが怖かった。
ヴァルクは軽く目を伏せて宣告する。
「生死までは分からん。だが、少なくともここににいるのは、我々三人だけだ」
リディアが周囲を見渡しながらも、やれやれと断ずる。
「どの道、此処を出ぬ事にはどうにもならぬ。上へ戻るのは無理であるからな。先へ進むしかあるまい」
潮の音が、遠くから響いてくる。
海上都市リューグーは、はるか上だ。
ここは、そのずっと下――潮底の廃都。
私は杖を握り直した。
「……分かった。まずは、この遺跡の構造を把握しよう。
生きている限り、どうにか出来るはず」
ヴァルクとリディアが、無言で頷く。
こうして私たち三人は、海底の遺跡に取り残された。
他の仲間たちの気配が届かないまま、潮の底で、最初の一歩を踏み出した。




