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紫華の付与師は今日もお留守番。ダンジョンで無双する最強支援職  作者: さくさくの森
第三章 翼の止まり木

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外伝 黎明の翼 ―リディア―

海の向こうに沈む夕日を、子供のころの儂はただ眺めていた。

指先で窓枠をなぞりながら、真っ赤な空に向かって呟く。


「いつか、あの向こうまで行ってみたいな」


あのころの儂は、どうしようもなく普通の娘であった。少しばかり魔力の筋が良いと褒められ、家が魔導士の名門である事に胸を張り、いつか親のようになれたらと夢見る、どこにでもいる年頃の少女であった。


母は朗らかで、父は寡黙で厳しく、それでいて儂の魔法が成功すれば不器用に目尻を緩めた。家の蔵には、代々伝わる秘具と魔本が並び、子供の儂は『いつか全部読んで良いときが来る』と聞かされて胸を高鳴らせていた。


本当に、あのころは単純であったな。


そしてある日、全てが終わる。


親は理由も語らず出立し、それきり戻らなかった。

残されたのは荒れた屋敷と、かろうじて手放されずに済んだ三つの家宝。

そのひとつが――【焔の書】であった。



【焔の書】の頁を開いた瞬間の感覚を、儂は生涯忘れぬであろう。


炎が燃え上がるのではない。

焔そのものが意識の内側へ流れ込む。

数百年分の視線、声、痛み、歓喜と後悔。

魔法の発動の感覚。

炎の圧力。

焼ける臭い。

死の瞬間の静けさ。


歴代の持ち主の一生が、雪崩のように儂の中へ押し寄せた。


まだ年端も行かぬ娘であった儂の心は、それを受け止めるにはあまりにも未熟であった。しかし【焔の書】は容赦をせぬ。読者を選ぶのではなく、持ち主を「継承者」として扱う類の物であったのだろう。


気付いた時には、髪はかつての濃い紫から、白が混じる色に変わっていた。


鏡に映る自分の目は妙に静かで、幼さより先に諦観を宿していた。


そして、口を開けば――



「……さて、どうしたものか」


自分でもおかしくなるほど、言葉遣いが変わっていた。丁寧で、旧い言い回しで、どこか他人じみている。試しに昔のような調子で話そうとしても、舌の根が落ち着かぬ。


おそらくは、内に溜めこまれた数多の記憶が、儂の思考の形その物を書き換えたのだろう。まだ年若いはずの自分が、気付けば「老い」の側から世界を眺めている。


魔法の腕も、記憶の通りと言う訳には行かぬ。

どれほど見取り稽古を積んでいても、体に染みついた練度までは一足飛びに手に入らぬ。

ただ、魔力の流れ方、属性の噛み合わせ、炎の圧と出力の加減――そうした「読み解き」の部分だけは、異様なほど早く身に付いて行った。


残された家宝は三つ。【焔の書】、【炎哭の杖ルシエル】、【焔環の紅玉】。

屋敷はほどなく手放され、儂はそれらと共に街へ出る事になった。

【焔の書】は持ち出しこそすれ、使う機会は絶無に等しい。

実質的には杖と紅玉の二つが儂の相棒だった。



聖遺物級の装備を二つも持ち歩く黒位の探索者。

文字にすれば強者の響きがあるが、実際の儂は、噂の割には年若く、妙に落ち着いた口調の、どこか不気味な娘であった。


「黒位の時点で聖遺物を二つも持っていたのか」

「家が没落したから抱えて逃げたのだろう」

「近寄ると運が落ちる」


陰でささやかれる言葉など、記憶の中の先人たちに比べれば可愛い物であったが、人は自分の事となると不思議とこたえる。

近付いて来る者は、儂ではなく装備を見ている。

仲間に誘われたと思えば、分配の段で「杖か紅玉を担保として預からせてくれ」と平然と言う。笑って断れば、次の日には別の噂が増えている。


そうして儂は、いつしか一人で依頼を受ける事が多くなった。

黒位から青位へと昇格しても扱いは変わらず、青位探索者としては稀有な火力を見込まれつつ、しかし誰とも深く組まぬ。

そういう立場が、妙に板について行った。


……そんな儂に、「魔導士としての自分」だけを見て声を掛けてきた男がいる。


エルド・フェルナー。


初めて顔を合わせた時、あれは儂の杖にも紅玉にも視線を寄こさなかった。

見ていたのは魔法の軌跡と、面処理の実績だけであった。


「広い面を一挙に処理できる必要時限定の最大火力が要る」

「今の規模で、この範囲を焼ける者は少ない」


そんな風に穏やかに評されて、儂は少し面食らったのを覚えている。

褒められ慣れていないわけではない。

ただ、その言葉には下心も打算も混じっておらず、純粋な評価としての重さがあった。


あれほど真っ直ぐに、儂自身を求めた者は他に居ない。


その瞬間、胸の内が妙に温かくなり、儂は自分で自分に呆れた。

数百年分の記憶を抱えていようが、結局中身は年頃の娘であると言う事だ。

少し見当違いな優しさを向けられただけで、ころりと揺らいでしまう。


だが、年の功が邪魔をする。


エルドの視線が、誰の方へ向いて行くのか。

その目が、誰を真ん中に据えて動き出しているのか。

それを読み取るのに、さほど時間は必要ではなかった。


クーデリア・リーフィス。

あの付与師の娘に向ける視線は、仲間を見る物とは少しばかり質が異なる。

本人は自覚などしておらぬであろうがな。


オーリスも同じ物を見ている。

あの娘がエルドへ向ける目は、誰が見ても分かる。

儂が口を出さずとも、気付く者は多いであろう。


儂はと言えば、己の胸の内を苦笑いで押し流した。

老いの目線で見れば、若い者同士の恋情など微笑ましい物である。

ひとつの家を捨て、新たなパーティに身を置き、儂が今さら何を奪おうと言うのか。


それでも、心のどこかで「羨ましいな」と思う自分が居た事も否定はせぬが。



……さて、話が妙に湿っぽくなった。

少し話題を変えよう。


問題の浴場での一件である。


光焼く翼がまだ今ほど名を上げておらぬ頃、とある街の温泉宿に逗留した事がある。

任務帰りで皆疲れており、久し振りの湯だと喜んでおった。


「リディアも行かない?今日くらいはゆっくりしてもいいと思うよ」

「ふむ、悪くない誘いであるな」


そう答えた儂は、内心少しだけ緊張していた。

理由は言うまでも無い。【焔の書】由来の記憶の中には、当然ながら男の目から見た浴場の光景も混じっている。それを自覚しているせいか、人前で衣を脱ぐ場となると、妙に落ち着かぬ。


脱衣所でクーデリアと二人きりになった時、儂は一度深く息を吸った。


クーデリアは無駄の無い体つきで、筋肉も脂肪も程良く付いている。

戦場で動き続ける者の体だ。

白い肌に、青白い髪が零れ落ちる様は、記憶の中の誰とも重ならない、美しい線を描いていた。


……男の記憶が、ささやきを始める。


――ここは視線を落とす所である。

――いや、今のは偶然であるから、もう少しだけ見てよい。

――いや良くない。

――全く、落ちつけ。


儂は心の中で自分を引っ叩き、気付けばタオルをぎゅっと握りしめていた。


「リディア、顔赤いけど、湯気でやられた?」

「い、いや、少し汗が出ただけぞ……」


危ない。

今のは本当に危なかったと思う。

あのまま冷静さを失っていれば、視線が明らかに不躾な物になっていたに違いない。


湯船に浸かってからも、儂は出来る限り視線を泳がせた。

壁、天井、湯面。ときおりどうしても隣のクーデリアが目に入ってしまうが、そのたびに心の中で「儂は女である」と繰り返す。


儂は女である。


儂は女である。


……いかん、ここで目覚めてしまう。


「本当に大丈夫?のぼせてるなら先に上がる?」

「問題ない。これくらいは平気ぞ」


横から覗き込んで来るクーデリアの顔が近くて、余計に心臓に悪い。

視界の端で揺れる肩や首筋の線を見ないようにするのに、儂は普段の戦闘以上の集中力を要した。


もし儂が男であったなら。

いや、もし【焔の書】の記憶が無かったなら。

儂は今とは全く別の生き方をしていたであろうな、と湯の中でぼんやりと考えていた。


クーデリアの様な娘が側に居れば、全力で口説きにかかっていたかもしれぬ。

あの真面目さと才覚と、時折見せる無防備さ。

どれも人を惹きつけずにおかぬ。


なに?精神が老成しているなら女の裸の一つや二つ?

阿保を抜かすな。あれ程の極上の肢体を前にして反応せぬ男なぞ、それこそ不能か身内くらいのものよ。最早襲わぬだけでも大した理性……


しかしそれでも儂は耐えた。女じゃからな!


……まあ、耐えられたからこそ、今こうして笑い話にしておるのだが……。





閑話休題。


儂は今、この光焼く翼というパーティを心から気に入っている。

エルドの采配は信頼に足るし、トゥリオの盾は堅固で、ラナの剣は明るく鋭い。

氷雨の幻は戦場を有利に運び、オーリスの祈りは命を支え、クーデリアの付与は理を整えてくれる。


かつての我が家の名を取り戻す事など、もはやどうでも良いのかもしれぬ。

ここでなら、それを超える何かを残せる気がするのだ。

家名ではなく、個としての名を。


そうなると、やはり目指す先は決まって来る。


紫位。

最高位探索者の座。


あの頂に届かずして、焔を継いだ者を名乗る訳には行かぬ。

このパーティの一員として、そしてリディア・グレイス個人として、儂はそこまで行きたいと願っている。


老いぼれじみた口調でも、心の中ではまだ若い娘のまま、遠い空を見上げる。


――きっと行ける。

――この翼と共であるなら。


そう信じて、今日も儂は杖を握る。

【焔の書】がくれた数百年分の記憶を、今度こそ自分自身の物として燃やし尽くすために。

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