第11話 ――命を預ける場所――
エルドは机上の地図を見つめ、しばし指先を眉間に当てていた。
木机には赤い駒が二つ、距離を置いて並ぶ。
隣には封蝋付きの依頼書が二通。
「……二件、ですか」
昼下がりの作戦室に、曇天の光が静かに差していた。
二件の探索依頼。どちらも一筋縄では行かないとされる難度。
一方は北方旧街道沿い〈白礫の洞〉、もう一方は湿地帯の〈墨濛の塔〉。
それだけならまだいい。
だが、その裏に政治の匂いがある。
――月影国。
周辺でも有数の力を持つ隣国であり、かつて幾度も競い合った相手。
近く予定されている会談では、聖遺物級の確保数が外交カードとなる。
成果の差が、そのまま国の立場を決める。
「どちらかを後回しには、できませんね」
独り言に返す声はない。
結論はひとつ――同時に動くしかない。
問題は、誰に舵を取らせるか。
自分が一方に入るのは当然として、もう一方の隊をどう編成するか。
エルドは筆を取り、報告書の端に名前を書きつけると、すぐに伝令を呼んだ。
『クーデリア・リーフィス』
『トゥリオ・ハルヴァ』
* * *
呼び出しを受け、私は作戦室へ向かった。
扉を開けると、エルド隊長とトゥリオがすでに中にいた。
地図の上には赤い印が二つ、蝋が微かに光を返している。
「急にすみません。祝勝会から数日、皆も休養の最中でしょうが――」
エルドは顔を上げた。
「国から探索依頼が二件届きました。どちらも上位難度です」
「二件同時、か」
トゥリオが片眉を上げる。
「面倒な話だな」
「ええ。ただ理由があります」
エルドは依頼書を指先で示す。
「来月、月影国との会談があります。
彼らとは表向き友好ですが、実際には国力も技術も拮抗している。
外交の場で主導権を握るには、成果が要るのです」
「聖遺物級、ですね」
私は問う。
すでに答えは見えていた。
「そうです。聖遺物級、あるいは神器級。
そうした発見は単なる戦果ではなく、国の抑止力になる。
この国がまだ衰えていない証明です」
エルドは地図上の二点を指で叩いた。
「どちらも急を要する。
今回は二隊に分け、同時に攻略します」
「……分割、ですか」
「『光焼く翼』としては初めてになります」
エルドは頷いた。
「瘴気の深い〈墨濛の塔〉には私が向かいます。
もう一方の〈白礫の洞〉――その指揮を、クーデリア。あなたに任せたい」
「……私に、ですか?」
思わず声が漏れた。
トゥリオの方が年次も上で、経験も豊富だ。
「ですが、トゥリオの方が――」
エルドは静かに首を振る。
「あなたの観察と判断の確かさ、そして場を読む力。
それらは隊の中でも際立っています。
あなたの付与は戦闘の起点を作る。
分割時の指揮には、その眼が必要です」
トゥリオが腕を組んだまま短く言った。
「俺は後ろで支える。判断はクー子がした方が早い」
それだけ。
だが、それで十分だった。
「トゥリオが支柱となり、あなたが舵を取る。――それが理想です」
エルドの声が穏やかに重なる。
私は小さく息を整え、うなずいた。
「……承知しました」
「ありがとう」
エルドはわずかに表情を和らげる。
「人員配分は追って伝えます。
私の側は瘴気対処、あなたの側は前衛と索敵を中心に」
「わかりました。初回探索は何日後になりますか?」
「三日後を予定しております。二日を準備に、前日は休息を。
……大変な任務ですが、皆なら必ずやり遂げられます」
「了解」
「任せてください」
エルドは静かに頷く。
「他のメンバーには私から通達します。
二人は各自準備を」
立ち上がったトゥリオが、扉の前で一度だけ振り返る。
「クー子」
「はい?」
「お前が指揮なら、それでいい。俺は前で守る。それだけだ」
それだけ言って、彼は去っていった。
扉が閉まる音が、作戦室に短く残響した。
机上の地図で、二つの駒が淡く光を受けていた。
三日後――二つの道で、二つの剣が抜かれる。
私はその片方の舵を取る。
その責任の重さを胸に、
エルドへ一礼し、静かに部屋を後にした。
* * *
しばらくして、通達が降りた。
編成は――
私、トゥリオ、ラナ、氷雨。
もう一班は、エルド、オーリス、ヴァルク、リディア。
通信用の魔導符を通じて、手元の〈探索者証〉に淡い光が走る。
指先で触れると、視界の前に文面が投影された。
内容は本人と同班の登録者だけに可視化される仕様で、他の隊には一切共有されない。
互いの名と所属班だけが短く浮かび上がり、それが消えると同時に、静寂が戻った。
私は深呼吸をひとつ。
今回、エルドは別班――『光焼く翼』としては、私たちだけで潜る初めての探索になる。
資料室の片隅、空き卓を確保して四人で集まる。
机上には〈白礫の洞〉の調査書が積まれていた。
表紙を撫でると、粉状の鉱粒が指に残る。
洞窟内で採取された試料を混ぜた紙だ。
白礫の性質を模した報告書――どうやら、そういう演出らしい。
「じゃ、始めようか。……私がリーダーを預かる。異論は?」
「ない」トゥリオが短く答える。
「賛成っ。クー子が一番やりやすい」ラナは即答、笑顔。
「僕も、異論はないよ。指示系統は一つの方が速い」氷雨が軽く頷く。
胸の奥で、きゅっと何かが締まる。
認められるというのは、嬉しさと同時に、背中へ重りを載せられる感覚だ。
「まず、スケジュール。会談は来月。踏破リミットは残り十八日で、
目標は十五日以内。無茶ではないけれど、凄く余裕がある訳でもない。
準備は今日から圧縮して進めるわね」
三人とも、軽口を挟まずに頷いた。
私は資料を開く。現時点で確定している情報は…二層までだ。
「既知情報。階層は推定五層。調査済みは二層まで。
入口から一層にかけては白礫――小石状の堆積が床面を覆っている。
足音は吸われず、むしろ転がる音が響く。浮き石多し。片足荷重は厳禁」
「ふむ。盾の縁で均して進めば、列の転倒は減らせる」とトゥリオ。
「ただ、問題はそこだけじゃない。ここ、注記が多い」
私は指で段落に印をつける。
「〈白絹苔〉――乾いたように見えて、踏むと滑る。
それから〈無響域〉と〈反響域〉が交互に出る。
声が届かない場所と、逆に二重三重に聞こえる場所がある」
「掛け声と合図、視覚中心に切り替えた方がいいね。
僕が前後の光標を出して、列の導線を保つ」
氷雨が記録に書き加える。
「助かる。……もう一つ。粉塵。
白礫が擦れて舞う粉が厄介。喉と眼の刺激。
それ自体はただの石灰質だけど、濃度が上がると視界白化が起きる。
さらに、磁針が乱れる記録あり。
金属鉱脈か、石英脈か、あるいは洞の脈動によるものらしい」
「洞の、脈動?」ラナが目を瞬く。
「周期的な微振動。壁面の結晶層が共鳴して、空気の密度が変動する。
呼吸が浅くなる時間帯がある。走ると転ぶ。
――たぶん、転ぶだけで済めば良い方」
「厄介だね。息合わせの合図、増やすかな」ラナは拳を握ってみせる。
「クー子の合図で止まる・屈む・下がるの三つ、手信号で統一しよ」
「決めよう。手信号は……これで」
三人の手を取り、形を確認する。
指先に触れた温度が、緊張をほんの少しほどいた。
ページを繰る。二層の欄外に、赤い印がある。
「〈白礫の雨〉……嫌な響きね」
白礫の雨。
天井のポケットに詰まった小石が、脈動に合わせて突然落下する現象。
防御は容易だが、床面が瞬時に転石の川になる。
足を取られたまま浅い斜面で流されると、集積窪地に吸い込まれる。
「僕が先に天井の影を薄める。粒の輪郭が浮くから、ポケットの位置が読める」
説明を読んだ氷雨が対処を提案してくれた。
こちらの班に居てくれるのが本当にありがたい。
「助かる。……敵性生物。一次報告では〈硅殻虫〉と〈白蜥〉。
どちらも視界白化で接近に気づきにくい。
〈硅殻虫〉は殻が硬い。振動を感知して寄ってくる。
〈白蜥〉は見えにくいだけで特筆すべきことはなし。」
「殻割りは俺の役目だな。打点を作る。ラナ、側面を刈れ」
トゥリオが淡々と配分する。
「了解っ。じゃあ初動は、トゥリオが道を作る、あたしが捌く、
氷雨が索敵と探査で――」
「私が場を整える。足場の補強を優先して、
〈白絹苔〉には滑り抑制の付与を施す。
隊列の切り替え時の転倒は、可能な限り防ぎたい。」
「切り替えのタイミングは、クー子の判断に従う」
「うん、クー子が前でいいと思う。合図が速いから」
「エルドの代わりじゃなくて、クー子のやり方で引っ張って」
三人の言葉が、まっすぐ胸に落ちる。
私は頷いて、次のページを開いた。
「二層 ―白幕エリア―。
白い霧のような粉塵が滞留する広間。視程は五歩。
ここでは磁針の乱れが顕著になって、マーキングは色が沈む。
通常の染料が落ちるみたいだから、氷雨の幻の標を主軸にする」
「戻る時も、その標を辿ればいいんだね」とラナ。
「そう。単純だけど、確実」
「視程が三歩未満になったら撤退。咳が続いたら撤退。音が遅れたら撤退」
氷雨が淡々と書き込みながら喋る。
「撤退基準はそれでいい。迷うより、帰る方が早い」
筆記具が紙を走る音だけが、しばしの間、卓上を支配した。
気づけば外の光が傾いている。窓辺の埃が筋を描き、陽が沈む。
「――最後に、エルドがいない件」
「今まで無意識に任せていた場の安定を、自分たちで作らなきゃならない。
だから、指示は一歩早く、半分短く。
私の言葉は簡潔にする。各自が次の一手を一枚ずつ持って、被せてほしい」
「了解」
「任せて」
「うん」
「――それと、私が詰まった時は、遠慮なく遮って。格好はつけない。
十五日の中で、正解の回数を増やす」
*
話はまとまった。筆記具が止まり、静寂が落ちる。
短い確認を終えると、誰からともなく席を立った。
資料を束ねる音、椅子の脚が床をこする音――
その一つひとつが、現実への切り替えを告げている。
誰も冗談を言わなかった。
けれどそれは重苦しさではなく、これから向かう先への集中に似た沈黙だった。
ラナは笑って手を振り、氷雨は静かに頷き、
トゥリオは何も言わずに去っていく。
それぞれの背中に、次の準備へ向かう覚悟が宿っていた。
私は残った紙片を整え、封を戻す。
軽く手を払い、わずかに付着していた白い粉を散らしてから、
すっと立ち上がる。
扉を押し開けると、廊下の空気はひんやりしていた。
エルドのいない静けさが、壁の向こうに広がっている。
――これは、大変だぞ。
その言葉が、胸の底で小さく響いた。




