挨拶なら済ませてあります
その日、ふらりと食糧庫を見に行ったナジュアムは、目を丸くした。
オーレンが来る前は寒々しかった食糧庫には、いまや調味料や食材がずらりと並んでいた。
「すこしはマシになったでしょう」
「マシどころか、様変わりしてるじゃないか」
一緒についてきたオーレンはどこか自慢気だった。
それもそのはず。小麦やコメの袋、根菜類など重そうなものがいくつもあるのに、オーレンときたら人に頼らずすべて自分で運び入れたというのだ。すごい体力だ。
「トマトの季節が待ち遠しいですね。あのあたりの棚は全部トマトで埋めるつもりです」
「まあ、トマトはたくさん必要だよね」
ナジュアムの適当な相槌に彼は顔を輝かせ、トマトソースの万能性について語り始めた。
生き生きしていて可愛いが、ナジュアムの興味はまだ存在しないトマトソースより、すでに中身の詰まった瓶に移っていた。たとえばこれ。細長く切ったニンジン、フェンネル、パプリカが綺麗に詰められたピクルス。春キャベツは塩漬けに、菜花はオイル漬けに加工されている。この薄緑色のは、ソースだろうか。どれも美しく、見ているだけで気持ちが華やいだ。
「美味しそう……」
「味見しますか?」
「いや、いまは食べないよ」
思わず声に出してしまったことが恥ずかしくて、必要以上にきっぱり断ってしまった。そのせいか、オーレンは目に見えてしょんぼりした。
「あの、だけど、楽しみにはしてるから」
照れくさくてモゴモゴしてしまったが、彼はちゃんと聞き取って、くしゃっとした笑顔を浮かべた。
あまりに嬉しそうなので一瞬ときめいてしまったくらいだ。
勘違いするなよと、ナジュアムはすぐに自分を戒める。
彼はきっと料理を人に食べさせることがなにより好きなのだ。その相手が、いまはたまたま、ナジュアムだったというだけだ。約束を果たせば出ていく相手に、妙な感情を抱いてはならない。
そのとき、オーレンが思い付きのように言った。
「そうだ、ナジュアムさん。今度の週末、一緒にマーケットへ行きませんか?」
「マーケットへ……俺と?」
本気だろうか、それとも社交辞令なのかわからず見つめ返す。彼と出かけるのは楽しいだろうなとは思う。
だけど、そんなことできるわけがないじゃないか。
ナジュアムはとまどうが、オーレンは例のあの、断られると思っていないようなキラキラした瞳で返事を待っていた。
「けど……」
「忙しいですか?」
「そうじゃなくて、嫌じゃないの? 俺と出かけるの」
「どうしてですか?」
オーレンの問いかけに応えたのは頭の中のヤランの声だった。おまえと一緒に歩くと恥ずかしいんだよ。周りに妙な誤解なんてされたくねえ。そんなふうに言って、彼は人前でナジュアムと会おうとしなかった。
思い出すだけで胸がズキッと痛くなった。ナジュアムは長めの前髪をそっとつまんだ。このあたりでは珍しい金色の髪、色白で華奢な体。ナジュアムは容姿のせいで誤解を受けやすい。
年に数回は誰それを誑かしただの噂される。ライラック色の瞳で誘惑したのだと責められる。こっちがまったく知らない相手と話題になることさえある。
隣を歩いたりしたら、オーレンまで白い目で見られるかもしれない。
沈み込みそうになるナジュアムを、ふっとすくい上げるように静かな声が耳に届く。
「どうして?」
彼は不思議そうに黒い瞳を瞬かせた。
「どうしてってその、変に、誤解されたりだとか……」
「誤解って何をです?」
オーレンはさっぱりわからないというように首を傾げている。
「だから、周りの人とかに」
「ご近所さんになら、もう挨拶を済ませてありますよ?」
「え!?」
思いがけないことを言われて、ひっくり返るかと思った。
「いきなり知らない男が家の周りをウロウロしだしたら不安でしょう? ナジュアムさんに住んでいいと許可をもらってすぐ、隣三軒は周りましたよ」
当然でしょう、みたいに言われても初耳だった。
「なにか、言われなかった?」
「ナジュアムさんが相当なお人好しだということはわかりました」
「お人好し? なにそれ」
「そしてトマトソースを分けてもらいました」
意味の分からないことを言われて、ナジュアムはギュッと眉を寄せた。
いや、確かに、うちには存在しないはずのトマトソースが料理にちょいちょい使われてはいたが。
「ナジュアムさんて、自分がした親切のことは、すっかり忘れてしまう人なんですね」
「なんの話をしてるの」
混乱で頭が痛くなってきた。額を抑え、その隙間からオーレンを窺うと彼のほうもナジュアムを見つめていた。
「あの、俺と出かけるのそんなに嫌ですか?」
「いや、そうじゃなくて!」
「そうじゃないなら一緒に行きたいです」
とにかくこれだけはわかった。どうやら彼は本気らしい。
結局、押し負けてしまった。
約束の日が近づいていた。
仕事をしていてもふとした瞬間、オーレンの楽しそうな顔を思い出してしまう。気を抜くと、何を着て行ったらいいかなんて考えてしまう。
「ナジュアムさん、いいことでもありましたか?」
下働きの少年に指摘されてしまう始末だ。そうとう締まりのない顔をしているのかもしれない。
「別に、なにもないよ」
とっさにごまかして、集中していない自分を心の中で叱咤して仕事に戻る。
浮かれている自覚はあった。
たとえばしつこい客に付きまとわれても、面倒な先輩にからまれても、あまり気にならない。おおらかな気持ちで受け流せる。
その日は仕事も順調だった。客をスムーズにさばけたおかげで、昼休憩も余裕がある。
このところ、オーレンはナジュアムにジャムかパテの小瓶を押し付けるようになった。食べきり前提なので開けられない日も多く、時々こっそり下働きの子にあげたりしていたのだが、今日は開けてしまおう。
瓶は引き出しに入れてあって、すでに五個ほど溜まっている。そこからジャガイモのパテを選び取る。
ふたを開けるときの、ポンという音が好きだ。食べる前から期待が高まる。
小ぶりのジャムスプーンですくい取り、パンにひと塗する。すごく滑らかだ。
ジャガイモの甘みとチーズの塩味が小麦の香ばしさと合わさって、素朴なパンをごちそうに変えてしまった。ここにスープもあれば最高だが、断っているのはナジュアムだ。
休憩中とはいえ、職場に良い匂いを漂わせてしまうのは問題だ。目立ってしまう。
そのくらい食べたって罰は当たりませんよ、なんてオーレンの不服そうな顔が目に浮かぶようでナジュアムは頬を緩めかけ、慌てて引き締める。
一瞬、家にいる時のようなくつろいだ気分になっていた。本人もそうだが、彼の作る料理もかなり危ない。
夕方になると少々問題が起きた。
「ナジュアムさん、ごめんなさい、僕……」
下働きの少年が泣きそうな顔でやってきた。渡すべき書類を間違えてしまったらしい。こういう時は叱ったりしない。委縮して失敗を隠されるほうがずっと困る。
「大丈夫、良く気付いたね。あとは任せて」
彼の視線に合わせ身をかがめ、ナジュアムは彼を安心させるようしっかり頷いて見せた。
実際、たいした失敗ではない。ナジュアムがちょっと行って叱られてくればいいだけだ。
全部片づけ終えたときにはさすがに疲れてしまったが、家に帰ればいつものようにオーレンがおかえりなさいと迎えてくれる。
それだけですっかり気が抜けてしまうみたいだった。
彼の笑顔を見て、思いがけず腹の虫が鳴いた。
こっちは恥ずかしくてたまらないってのに、オーレンときたら笑うでもなく咎めるような顔になっているし。
「お昼はちゃんと食べました?」
「食べたよ。パテもちゃんと食べた」
「ならよかったです。今日はスズキを焼きましたよ」
「食べる」
帰りが遅くなったせいもあり、相当お腹がすいている。着替えるのももどかしいくらいだった。
ナジュアムはいそいそと食卓についた。
まずはスズキから食べてみよう。オリーブオイルをまとい、こんがりと焼けた皮目からほかっと上がる湯気がいかにもうまそだし、粗くちぎったパセリは目にも鮮やかだった。
身はフォークを入れるだけでほろりとほぐれる。魚のうま味が舌の上に広がった。ケッパーのほのかな辛みもいいアクセントになっている。
ブラックオリーブのねっとりとした食感にワインが進む。
「美味しいですか?」
「美味しい……」
「じゃあどうして顔をしかめるんですか?」
「美味しすぎて困ってる」
食事中だからか、オーレンは声を殺して笑った。
「食べすぎなきゃ大丈夫ですよ」
「食べすぎちゃうだろ、これじゃ」
ナジュアムは、添えられていたピクルスを口に運んだ。今日のピクルスは少し酸味が控えめで、それがまた料理によく合うのだ。
「これも美味しいし……」
「しらすとそらまめのリゾットもありますからね」
更なる誘惑に、ナジュアムがムッとすると、オーレンの口から堪え切れなかったように短い笑い声が漏れた。
「君といると太りそうだ」
「ぜひそうなって欲しいものです」
しみじみ頷くので、ナジュアムは顔をしかめた。
「嫌だよ」
「そんな! ナジュアムさんはそもそも痩せすぎなんですよ。ちゃんと食べてくださいね、別に際限なく太らせようとは思ってませんから!」
「……本当かな」
どうにも疑わしいが、今日のところは負けておいてやろう。リゾットくらいなら、まだ入りそうだ。