襲ったりしない
泊まっていくかと尋ねると、彼は一瞬あんぐりと口を開け、声を尖らせた。
「こっちは見ず知らずの男なんですよ。それは少々人が良すぎるんじゃないですか」
道端で拾った男が真顔で常識を諭してくるとは、ずいぶんちぐはぐだな状況だ。そっちだって、知らない男についてきたくせに。ナジュアムは笑いをかみ殺し、酔い覚ましの茶を一口飲んだ。
「オーレンだろ? 名前は聞いた。だから見ず知らずじゃない。ああ! 安心して、襲ったりしないから。俺はこっちで寝るし、君の部屋はそっち。その部屋、しばらく掃除していないからちょっと埃っぽいかもしれないけど、寝具は洗ってあるし、地べたで寝るよりはマシだろ」
「でも俺、無一文ですよ……」
「お金? 必要なら部屋に封筒が転がってると思うから、好きなだけ持ってってよ」
「無心したつもりもありません!」
おっと、プライドを傷つけちゃったかな。形の良い眉がぎゅっと寄ってしまった。
「君が無一文でも腹ペコでも、別に何も要求しやしないよ。ただの酔っ払いの気まぐれだ。受け取りたくないなら外で寝てもいいけど」
「お、俺のほうが襲うかもしれないじゃないですか」
「ふうん、どっち?」
「どっちって?」
「命と体。命のほうは取られると困っちゃうけど、体のほうなら歓迎かな? 君はなかなかいい男だし」
半分くらい本気でにっこりしてやれば、彼は青ざめた。残念だ。
「冗談だよ。君のほうこそ、うかうか知らない男についてきちゃいけないな」
苦笑してお茶を一気に飲み干すと、ナジュアムは席を立つ。
「じゃあ俺はそろそろ寝るよ。それ、せっかくだから、マズくても残さないで欲しいな」
ヤランにはどうしても言えなかったことを、会ったばかりの男にはあっさり言える。本当におかしなものだ。
オーレンはハッと皿を見おろして、すぐに顔をあげた。
「残しません。ちゃんと美味しいです」
きっぱりした声で言われ、ナジュアムは思わず立ち止まった。
「いろいろ疑ってすみませんでした。ご厚意ありがたく受け取ります」
こちらをひたと見つめ、「ありがとうございます」とゆっくり頭を下げる様子は、いっそ堅苦しいほどだ。
だが、悪い気はしなかった。
翌朝、ナジュアムが目覚めたときにはオーレンの姿はなかった。まだ寝ているのでもなければ、すでに出ていったのだろう。
ホッと息をはいたそのとき、目の端に映ったのはキレイに洗われた昨日の鍋と食器だった。
荒らされた形跡もないし、やっぱりいい子だったらしい。
親切をしてよかったと納得しかけたところ、玄関のほうから物音がする。慌てて行ってみれば、食料品を詰め込んだバッグを抱えてオーレンが入ってくるところだった。
「ああ、目が覚めたんですね。おはようございます」
「なんで」
「泊めてもらったお礼に朝食でも作ろうかと思ったんですけど、この家、全然食べるものがないみたいだったんで」
「鍵は!」
「昨日そもそも閉めてなかったみたいですよ。小細工して出たんで、俺が出ているあいだは誰も入ってきてないですけど、不用心ですよ」
言われて気づいたが、そういえば昨日閉めた記憶がない。二日酔いではないはずだが、頭が痛くなった。
「それにしても、朝からやってる店があってよかったです。すぐ作りますね」
なにかいろいろと、聞かねばならないことがあるとは思うのだが、それよりも他のことに気を取られた。
「店、開いてる……? やばっ、仕事!」
ナジュアムは一気に青ざめた。今まで遅刻なんてしたことないのに。
オーレンがなにか言っていたが、正直相手をしている暇がなかった。
大急ぎで顔を洗い、最低限の身だしなみを整えて玄関の扉を手に掛けたところで、待ったがかかった。
「あの!」
「気持ちは嬉しいけど、食べてる暇ないんだ。ホント時間ヤバくて。あ、それから昨日言ってたお金のことだけど、あれ本気だから。必要なら好きなだけ持って行って。じゃあ、行ってきます!」
「え、ちょっと!」
背後からまだ声が聞こえていたが、ナジュアムはとにかく全力で走った。
市役所は街の中心部に位置する、歴史ある大きな建造物だ。
正面には広場があり、マーケットが開かれる日はたくさんの人が訪れる。正面玄関の前では、すでに気の早い客が待っていた。
こんなギリギリにやって来たことを見咎められれば小言を貰ってさらに遅れるかもしれない。隠れるような気持ちで裏口に駆け込んだ。同時に就業の鐘が鳴り始め、正面玄関がゆっくりと開かれる。
たとえば商売を始めるにも税金を納めるにも手続きが必要だ。家を建てたり壊したり、結婚や離婚にも届け出が要る。どこに持っていけばいいかわからない書類を持って、まず人々が訪れるのはナジュアムのいる部署だ。
スーツ姿の職員やベスト姿の下働きの子が、詰めかけてきた客たちの対応を始めている。
「すみません、遅れました!」
上司のところへ行くと、彼は手を振ぶりで謝罪はあとだと示した。ナジュアムはもう一度だけ頭を下げて、受付カウンターに立つ。すると、横にいた先輩から「遅いぞ」と注意を喰らう。短く詫びを入れて気持ちを切り替える。
「お待ちの方こちらへどうぞ」
笑顔で声をかけ、相手の用件を丁寧に聞き取って、必要なら案内をする。その繰り返しだ。こちらで受け取る書類があれば、それのチェックもある。
その日はとりわけ忙しく、危うく昼食を買いそびれるところだった。帰りかけていたパン屋をつかまえて、なんとか昼食を確保したら、事務所の隅へ行く。
入ってきた客からは見えづらく、けれど人が来たらすぐ対応に出られるような位置に、ごく狭い休憩スペースがある。ナジュアムはそこで紙袋を抱えて、もそもそパンをかじるのが常だ。
昼は家に帰ってゆっくり食べたいという人が多いのだが、事務所を空にするわけにはいかないので留守番は必要だ。ナジュアムは家庭もないので、たいていそのメンツに入れられている。それで文句もない。ただ、今日みたいな忙しい日は少々疲れてしまう。
「ここ、いいかね」
相当ぼんやりしていたらしく、上司が近づいてくることにも気づかなかった。ナジュアムは慌てて姿勢を正し「今朝は――」と改めて謝罪をしようとしたのだが、やはり手ぶりと苦笑で押しとどめられる。
「いいんだ。ただ、珍しいな。君が遅刻なんて」
「すみません、昨日すこし飲みすぎまして」
「具合が悪いわけじゃないんだな? このところ、ずっと元気がなかったから」
ナジュアムは一瞬言葉を詰まらせた。
彼はナジュアムがまだ下働きとして市役所に出入りしていたころから目をかけてくれた人で、今でも何かと気にかけてくれる。試験を受けて正職員を目指してみないかと言ってくれたのもこの人だ。
心づかいが嬉しくて、感謝を込めて頷いた。
「はい、もう大丈夫です」
けれど、言ってるそばからチラリと不安がよぎる。
思い出したのは、昨晩拾った男のことだった。自分でも呆れたことに、今の今まで彼の存在をすっかり忘れていた。
でもまあ大丈夫だろう。きれいな目をしていたし、食器も洗えるし、お礼も言える。おかしいと思うことには、気後れせず意見できるような子だ。妙なことにはならないはずだ。
不安は無理やり押し込めた。
お礼をしたいと言ってくれたのに、跳ねのけてしまったことだけが少し心残りだ。