勝利の瞬間
書類のミスなら正せばいい。
人と人との間に生じた問題は、それほど単純ではないけれど、今回の場合は妥協点があると思う。
姫様とやらが、オーレンの復帰を求めてイバーさんを派遣した。
オーレンはそれを断った。
イバーさんは、使命を果たすまでは帰れないらしい。
――だったら、と、ナジュアムは考える。
「オーレン。こういうのって、用意できる?」
この企みが成功するかどうかは、オーレンの腕にかかっている。
もちろん、ナジュアムはちっとも心配していない。
それから数日後、ナジュアムはイバーを家に招いていた。
オーレンはいい顔をしなかったが、下手に外でやり取りするよりはこちらの方がいいという判断だ。
「これは、いったいなんですか?」
イバーの目の前には綺麗に箱詰めされた大小の瓶詰めが置かれている。
彼女の対面に座ったオーレンがそれに答える。
ナジュアムも同席しているが口は開かないつもりだ。これは彼の商談だから。
イバーもナジュアムのことをいないもののように扱っている。
「俺は姫のもとには戻りません。どうしても俺の料理を望むなら、こちらを購入してください」
イバーのまぶたがピクリと動く。それでも、オーレンの発言を無礼だと咎めることはなかった。
「青いラベルの瓶は、そのまま食べられます。赤いラベルのものはソースです。料理人が嫌がらないようでしたら使ってもらってください」
彼が提示した値段は、普段マルシェで売っている総菜の十倍にあたるものだった。
もちろん、吹っ掛けているわけではない。食材も、料理にかける手間暇も、普段よりもいいものを使っているし、たとえば箱にしても瓶にしても質の良いものを選んでいる。いわゆる特別仕様なのだ。
それに王侯貴族を相手にするならば、安すぎてもダメだ。だからこれでいい。
「気は変わらないのですね」
イバーは諦めたようにため息を漏らした。
「はい」
イバーは購入を決めた。
勝利の瞬間だった。
週末、ナジュアムはキッチンでクッキーを焼いていた。
いつかオーレンが、「食べたかった」と拗ねていたナッツ入りのものだ。彼がマルシェに行っているあいだ、こっそり準備するつもりだ。
別にこそこそすることはないのだが、どうせなら喜ぶ顔が見たい。
それに、少々落ち着かないのだ。
面倒事が片付いたのだから、このあいだの話の続きをしたっていいのでは――?
クッキーづくりは、いい気晴らしになった。
ところがあとは冷ますだけという段になって、浮かれ気分が少々恥ずかしくなってきた。
五分、十分と経つうちに、だんだん後悔してくる。
そわそわと、まだすこし粗熱の残るクッキーをかじってみて、すっかり自信がなくなった。
「やっぱりやめとこうかな……」
どう考えてもプロに食べさせる出来じゃない。いつもよりは丁寧に作ったとはいえ、なんだかすごく恥ずかしい。
ロカにでもあげてなかったことにしてしまおうか。
ちらりと考えたところで、なにやら玄関から物音がして、「ただいま帰りました」と声もする。
まだ帰ってくる時間ではないハズなのだが。ナジュアムは少し慌てて、クッキーをどこに隠そうか右往左往する。そのうちオーレンがキッチンをひょいとのぞき込んだ。
「あ! クッキー! 焼いたんですか」
「あ、……うん」
「俺の分もあります?」
期待に満ちたまなざしで見られると、ナジュアムは弱かった。
「全部」
「全部!」
と喜んだオーレンだが、ふと疑いを持ってしまったらしい。
「……本当に? 魔法屋に持って行こうとか思ってませんか」
どうしてそうカンがいいんだろう。罪悪感に負けてつい目をそらしてしまった。
「ダメですからね。もう、言質は取りましたから」
「うん、わかった、わかったよ! けどオーレン、マルシェはどうしたの。放ってきていいの?」
「それが、出してたぶん全部、買い占められてしまって」
「買い占め!?」
どうやらそれは、イバーの仕業らしい。姫の周りの侍女や護衛やそういった人たちの期待も背負ってきていたそうで、オーレン自身を連れ帰れなかった以上、土産が必要だという話らしい。
「でもそれ、このあいだ家で言ってくれればすむ話なんじゃない?」
「あの人なりの、詫びのつもりなのかもしれませんね。ここで買って行くよりは、ああやって買い占められた方が良くも悪くも評判になりますから」
「ああ、……なるほど?」
マルシェの売り上げが良ければ、オーレンは自分の店を持てる。その店が評判となれば、隣国からわざわざ買い付けにくる面目が立つ。そんなことまで彼女が考えているかどうかは知らないが、とにかくこちらは、そうなるよう状況を利用するだけだ。
「忙しくなるね」
「なりますかね」
「なるよ。保証する」
ナジュアムが微笑むと、オーレンもつられたように笑いかけたのだが、眉の当たりがぴくりと固まる、どことなく半端な笑顔だった。
「オーレン?」




