泣いてない
「じゃあ、このランプは?」
ナジュアムがテーブルの上のランプを指さすと、オーレンはそろりと目をそらした。
「それは……相談料だとか言って買わされて……」
「相談料? じゃあオーレンも、ロカのところへ行ったんだ」
いがみ合っているように見えても、彼らはなんだかんだ仲がいいらしい。オーレンが「も?」とつぶやいたのが聞こえたが、すっかり気の抜けたナジュアムは立っていられなくなり、その場にずるずるとしゃがみこんだ。
「すこし、横になりますか?」
傍らに膝をつき、心配そうに覗き込むオーレンをナジュアムはじっと見上げた。
◆
確かに、休んだらどうかと提案したけれど、何がどうしてこんなことになったのだろう。
オーレンはベッドに腰掛け、非常に落ち着かない気分を味わっていた。
部屋の中はナジュアムさんの匂いに満ちていた。案外散らかった薄暗い部屋の中、照らすのは星明りのランプの淡い光だけだから、余計にそう感じるのかもしれない。嫌いな匂いではないが、嗅いでしまうのも悪い気がした。
「な、ナジュアムさん、俺、やっぱり」
立ち上がりかけたところ、隣に座っていたナジュアムさんがポツリとつぶやいた。
「この部屋、ヤランも入れたことがないんだよね」
ベッドに浅く腰掛け、足を組み、彼は頬杖をついている。ランプの明りに見とれているようで、少し複雑だ。
いや、それよりも。いま彼が何気なく口にしたことは、どういうことなんだろうか。気になって、座りなおしてしまった。
「最後の砦って言うのかな。あいつはどこまでもずかずか踏み込んでくるような奴だから、一人になれる場所が必要だって思って」
「……あの、では、どうして俺は今ここにいるんでしょうか」
こんな状況では顔を見て話すのも気恥しく、オーレンは自分の指先をもてあそんだ。
「ははっ、うかつだよね、君も」
などと彼は笑っているが、やはりどこかまだ無理をしているようにも思えた。
「それは、ナジュアムさんが、具合悪そうにしてたから」
「半分は下心だよ」
オーレンはドキッとして横顔を盗み見た。
すると彼は、ぱさっと軽い音を立てベッドに背をつける。これ以上見てはいけない気がして、オーレンは慌てて天井を見上げる。
「結局、君と……星を見に行ってないなと思って。だから、思い出作り?」
「思い出ってなんですか。俺まだ出ていくなんて言ってませんよ。だいたい、俺がいなくなったら、ナジュアムさんは泣いちゃうじゃないですか」
――それに、これではナジュアムさんの心に残るのは、誰だって話になりかねない。魔法屋が自分では贈れないプレゼントを、オーレンを介して手渡したようなものだ。
「泣いてないよ。見間違いじゃない?」
「味を確認しました」
「え!?」
ナジュアムさんは慌てた様子で飛び起きた。
「冗談です」
彼はぱくぱくと口を開け閉めしたあと、眉を吊り上げた。
怒られる気配を察して、オーレンは素早く立ち上がった。
「だったら、今から見に行きましょうか」
「外、曇ってたよ」
「丘の方は晴れてました」
「って言っても……」
◇
今から行ったのでは帰りは夜中になってしまう。
ナジュアムはとまどうが、オーレンはテキパキとサンドイッチを作り始めた。そのあいだにスープを温め、瓶に詰める。適当なカゴを持ち出して、まるでピクニックみたいな準備をした。
「ナジュアムさん、コートを取ってきてくださいね。寒いといけないから」
あまりにもやる気なので、止めるタイミングを失ったまま外に出てしまった。
オーレンは靴の調子を確かめるみたいに何度かつま先で地面を叩くと、頷いた。
「じゃあ、行きましょう」
彼は背中にリュック、左手にカゴを持ち、準備万端と言ったところだ。
「あ、ナジュアムさんはこっちです」
「え?」
と振り向いたところで、まるで子供にするように、ひょいと腕に抱き上げられる。ナジュアムは別に小柄というわけではない。だというのに軽々と持ち上げられてしまった。
「は!? ちょ、何やってんだよ!」
「しっかり捕まっててくださいね」
そう言って、彼は走り出した。文句が引っ込むほどの速度だった。
最初は怖くて縮こまってしまったが、案外安定しているのでそのうち景色を眺める余裕が出てきた。夜の町並みがぐんぐん遠ざかっていく。
「足、すごく速いんだね」
「靴に魔法をかけてあるんです。普段から歩きながら少しずつ魔力を貯めて、こういう時に一気に使うんです」
なるほど魔法か。
納得してしまうほど早かった。
ナジュアムが丘と呼んでいる場所は街の東側にあり、歩けば一時間以上かかる。それがあっという間に、たぶん、十五分くらいでふもとまで来てしまった。
「あ、ここからは歩くよ」
「平気です。それに、暗いから危ないです」
上り坂になっても、彼はまだナジュアムを下ろす気がないようだった。
さすがのオーレンも息を切らしていたが、でもどこか楽しそうだった。
「君の判断基準がよくわからない……」
開けた場所まで出て、ようやく地面に下ろしてもらえたナジュアムは、どっと疲れ切っていた。
走っている時ならともかく、ゆっくりと進む坂道ではオーレンの体温をどうしても意識してしまって、なんだか息をするのもはばかられた。
「これ、持っててください」
オーレンはそんなナジュアムには構わず、食べ物の入ったカゴを押し付けてきた。
持つけれども。
そして彼は、手慣れた様子でリュックから布を取り出して地面に敷くと、次に小さなランプを取り出して足元に置く。旅の間に使っていたものだろうか。
彼はナジュアムからカゴを受け取り、座っていいと手ぶりで示してから、思い出したように尋ねた。
「判断基準てなんですか」
聞いてはいたらしい。ナジュアムはムッとしながら、オーレンの横に膝を抱えて座る。
「キスしたら怒ったくせに、抱き上げるのはいいとかどういうこと?」
すると彼は体の前で両手を振ってみせた。
「あ、これは! そうしたほうが早いと思って!」
「ふうん。俺のことも荷物だと思ったわけだ」
「そんなことないですよ!」
オーレンは、夢中になると突っ走るようなところがある。
思えば、出会ったときからそうだったかもしれない。勝手に自分の役割を決めて居ついてしまった。
笑い出しそうになるのを隠して、ナジュアムは空を見上げた。
「しかも、やっぱり曇ってるし」
「あれ!? いや、ほら、少しは見えますよ!」
オーレンの言う通り、丘の上だけは雲間からぽっかり星が見えている。だけど、街の方は全体が薄い雲に覆われていた。
いつか、ヤランと来たときとは大違いだ。あの時は、怖いくらい星が綺麗に見えた。
「せめて、冷めないうちに食べましょうか」
誤魔化すようにオーレンはナジュアムにスープの入った瓶と木製のスプーンを手渡した。
「瓶のまま?」
「具をスプーンでつぶすようにして食べればいけるかと」
案外と大雑把だった。こらえきれずにナジュアムはくすっと笑い声をもらす。
スープはトマトの匂いがした。温かくて美味しかった。
サンドイッチは、手元が暗いせいで食べるまで中身がわからない。今食べたのは、鶏肉のフリットにアボカドを合わせたものだった。
星はあんまり見えなくても、これはこれで楽しいかもしれない。
ううん、かもしれない、なんて嘘だ。
本当はすごく楽しい。
彼とこうして一緒にいるだけで満たされる。やっぱり彼のことが好きだと思ったら、少し泣きそうになった。




