美味しいよ
ふわりと甘い香りに目が覚めてキッチンをのぞくと、朝日の中、オーレンが作業していた。
ナジュアムはそれをぼんやりと見つめた。
「おはようございます。そんなところでなにしてるんですか?」
「いや、オーレンがいるなって思って」
するとオーレンは苦笑めいた笑いを浮かべた。
「はい。いますよ。今日はナジュアムさんもお休みでしょう? 三食一緒に食べられますね」
彼が笑みを深めたときには、いつのまにか表情から苦さは消えていて、まぶしすぎるくらいになっていた。ナジュアムはかえって戸惑い、その場から動けなくなってしまった。
でも、なんか手招きしている。しかたないので警戒しながら近づいた。
「あ」
「あ?」
うっかりパカッと開けた口にスプーンがさしこまれる。
「味見をどうぞ」
イタズラ成功みたいな顔を見て、ナジュアムはムッと眉を寄せた。
「……まだうがいをしてないのに」
「じゃあ早く済ませてきてください。もうすぐできますよ」
口の中には、ブルーベリージャムの甘酸っぱい味が広がっている。いそいそと動き出したことを悟られないように、ナジュアムは席に着くときはことさらにゆっくりを心掛けた。バレている気もするけれど。
テーブルに並ぶのは、ベーコンエッグだ。レタスとミニトマトが添えられている。オーレンはそれを即席のサンドイッチにしてほおばった。ナイフとフォークでちまちま食べるナジュアムと違って、オーレンの一口は大きい。みるみるうちにサンドイッチが吸い込まれていく。
思わず食事の手を止めてぽやっと見つめていると、オーレンが怪訝な顔をした。
「ナジュアムさん?」
「あ、ごめん。オーレンがいるなって思って」
オーレンは「ははっ」と小さく笑う。
「二回目ですね」
「そうだっけ」
ナジュアムはごまかして、ブルーベリージャムをひと匙掬ってパンに乗せた。
「今日俺、買い出しに行きますけど、ナジュアムさんはどうします?」
「一緒に行く」
食い気味に返事をしてしまった。オーレンが嬉しそうにしてくれたのが救いだ。
オーレンは道を歩いているだけでいろんな人に声をかけられる。ご近所さんはついでにナジュアムにも挨拶をしてくれるのだが、いつもはそんなに声をかけられることがないので驚いてしまう。
「ほんと、馴染んでるね、君」
「そうですか?」
正直、ナジュアムよりも地域に溶け込んでいると思う。
市場につくと、オーレンはトマトを大量に買い込んだ。
選んでいるときは声もかけづらいほど真剣だったのに、配達に預け、何を作ろうかワクワクしている様子は可愛いらしく、胸がぎゅうっと痛くなった。
なんとか気をそらそうとキョロキョロしていると、さくらんぼを見つけた。
「味見するかい?」
店主に言われて、ひとつ食べてみるがそのまま食べるには甘みがうすいような。
「ケーキにでもするといいよ」
店の人に言われナジュアムがピクリと反応したのを見て、オーレンはにっこりする。
「買います」
「こっちのは酸味が強いからジャムにいいよ」
「ジャム……」
今朝のジャムも美味しかったなと思い出していると、オーレンは笑いをかみ殺しながら「じゃあこっちも」と値段交渉を始めた。
それからさらにズッキニーやルッコラやサヤエンドウなどを買い、海産物の並ぶあたりで二人の声がそろう。
「手長エビ!」
こういう時オーレンが作りそうなものはわかってる。
「まずはパスタでしょう?」
「はい、そうしましょう!」
オーレンとこうして他愛のない話をすることもしばらくなかったし、彼といるだけで心が浮き立った。
だけどやっぱり、一番はコレだ。
ワインのコルクを開けて、グラスに注ぐ。
オーレンがテーブルに運んできたのは、もちろん手長エビのパスタだ。
買い物に時間をかけすぎて、お昼は外でさらっと済ませたから、少し早い夕食でもお腹の準備はバッチリだ。
作っているのをそばで見ていたから、余計に食欲を誘った。
フライパンにたっぷりのオリーブオイル、鷹の爪とにんにくを少々を入れて熱していく。もうこれだけで美味しそうだけど、オーレンはそこへ、半分に切った手長エビを入れて焼き付けた。あたりには濃厚な海の香りが漂う。
飲み始めていいか尋ねると、ジロっと睨まれてしまった。しかたないのでぐっと堪えて、彼がパスタをゆでる間、ナジュアムはせっせとつまみを盛り付けた。
チーズと生ハム。ルッコラのサラダ。
タイミングを見計らって、ワインを開けたときには期待は充分に高まっていた。今日は果物入りの甘いお酒じゃダメだ。献立を決めた瞬間から、辛口の白ワインと決めていた。
オーレンのグラスには炭酸水を注いでおく。彼も早く酒の味を覚えればいいのにな。
パスタに乗っかった手長エビはどこか愛嬌を感じさせる。
だけどごめんね、食べちゃうんだよ。
「乾杯!」
ワインでくちびるを湿らせ、はやる気持ちを抑えてフォークで丁寧にパスタを巻き取る。エビの豊かなうま味が口の中に広がって、笑い出したくなるくらいだ。
「今日、ずっと楽しそうですね」
オーレンが笑っているが構うもんか。
「うん」
すなおに頷いてワインを一口。最高だ。
「このところ、食欲が落ちてたみたいだったから、安心しました」
「見てきたみたいに言うね」
用意されていたものについては、残さず食べるようにしていたのだし、バレるわけがないのだが。
「常備菜と、パンの減り方で」
彼は肩をすくめてみせた。そうか、バレるのか。
「……一人だと、味気なくて」
怒るかと思ったが、意外なことにオーレンは頷いた。
「ですよね。俺もそうです」
「クッションに目鼻でもつけてオーレンの代わりに話しかけようかと思ったよ」
「え、それは嫌です。俺とおしゃべりして?」
思わぬおねだりに爆笑してしまう。
「可愛いな、オーレンは」
「ナジュアムさん、もう酔ったんですか?」
「酔ってないよ。けど、今すごく幸せ。すごく美味しいよ」
ニコニコするナジュアムを見て、オーレンは目を見開き、子供みたいにくしゃっと笑った。
「それはよかった」
心の底から安心したみたいな顔をされて、ナジュアムは少し反省した。
そう言えば、いつも聞かれてから答えるばかりで、伝えていなかったかもしれない。
「オーレン、本当に美味しいよ。それに、今日はとても楽しかった。ありがとう」
「え? え? どうしました? 今日はまたえらく素直ですね」
「オーレン相手に気取っても仕方ないしね。それに、お酒も入ってるし」
「やっぱり、もう酔っぱらってるんじゃないですか。飲み過ぎないでくださいね」
彼の小言まで嬉しくて仕方ない。
たくさん食べて、たくさんしゃべって、そして結局たくさん飲んでしまった。




