無理なんだ
ああ、言ってしまったな。
それでもナジュアムの胸に不思議と後悔はなかった。
こんなもの、今となっては、もう笑い話だ。誰かに話してしまえば、こんなにもくだらない、どうってことのない思い出だったんだ。
それなのに、長いこと星を見るのも嫌になっていた。
「悔しかったからね、そのときは朝方まで一人でそこにいた。そしたらひどい風邪を引いちゃって。それ以来、空を見ると思い出しちゃって、見上げることもなくなってた。バカみたいな理由だろ?」
なんだかすごく、もったいないことをしていた気分だ。
綺麗なものを綺麗と認めることもできずにいたなんて。
「……前から思ってたんですけど、ナジュアムさん、男の趣味が悪すぎですね」
「別に俺だって――」
「俺だって?」
「いや、何でもない」
好きで付き合っていたわけじゃない。それなりに情はあったけど、愛していたかと聞かれれば口を濁してしまうような。
はじめての時だって、無理やり襲われたようなものだし。
だが、純情な彼にそんなことは言えない。
それにしても……。
ナジュアムはチラッと手を見下ろした。さっきからずっと、ポカポカと暖かい右手。
いつまで握ってるつもりなんだろう。
オーレンは、たぶんきっと、いや絶対に! 無意識なんだと思う。下手に騒げば変に思われる。それにこのぬくもりがあったから、ヤランとの思い出だって素直に話せた気がする。
無理だな。
突然すとんと納得してしまった。
無理なんだ。彼を愛さずにいることは。
今まで恋や愛情だと思っていたものが、しょせんは、本の上の文字を指でたどるような行為だったとわかる。頭で理解しようとしていた。だけど彼を前にすると考えるよりも先に想いがあふれ出してしまうのだ。
オーレンのことが好きだ。
こうして隣に立つだけで、ただ手をつないでいるだけでこんなにも満たされる。
バカだな、俺は。
ナジュアムは声には出さず呟いた。
いつかいなくなる人間に、こんな思いを抱いてどうするんだ。
ナジュアムはするりとオーレンの手から逃げ出して、笑顔を作った。
笑顔は作り物だけど、言葉は心からのものだ。
「連れてきてくれてありがとう、オーレン。本当に久しぶりにちゃんと星を見たよ。なんか、あの夜のことが、いい思い出に上書きされた気がする」
オーレンはハッと息をのんだ。
暗いから、泣きそうなのはバレていないはずだけど。
ナジュアムはいつの間にか空いた左手でギュッと心臓を押さえた。
寂しさで凍えたその手を、オーレンは両手で包み込んだ。
「だったら、こんなところで満足していないでちゃんと上書きさせてください」
「は?」
オーレンがとんでもないことを言い出した。
「オーレン、ちょっとなに言って」
ものすごく、誤解を受けそうなことを言っていると彼は理解しているだろうか。
「一緒に行きましょう、その丘に! ワインの代わりにスープでも持って。二人で満足するまで星を見ましょう!」
「ちょっ、声が大きいよ。夜中だよっ」
「あ! す、すみません……」
オーレンは握っていた手をパッと離し、口を押えて縮こまる。
その様子を見て驚きが笑いに変わってしまった。夜中だと注意したのは自分なのに、大声で思い切り笑いたくなった。
「……俺、本気ですから。今度絶対、二人で見に行きましょうね、星」
「うん、そうだね」
ナジュアムはあいまいに頷いた。
彼の善意は嬉しい。同時に気持ちをハッキリ自覚してしまった今、少しつらかった。
あまり優しくしないで欲しい。その言葉もまた、彼には言えない。
「あ、でも。星を見たくなっても、夜中にひとりでフラフラしちゃダメですよ。ナジュアムさん、なんか危ないから」
「なんだよそれ、君みたいなのは、もう拾わないよ」
「そうじゃなくて。行きたくなったら、一緒に行きましょうねって、ことです」
「……あんまり、優しくしないでくれない?」
言わないつもりだったのに。ついポロリとこぼしてしまった。
彼の方は、「どうしてですか?」なんてきょとんとしているから、こちらが気にしすぎなのかも知れない。ナジュアムはため息をついて彼の肩をぽすぽすと叩いた。
「今日のところは、もう帰ろうか」
あまりオーレンの睡眠時間を減らすわけにもいかないだろう。
「……はい」
オーレンのためだというのに、どことなく不服げだ。だけどナジュアムが「お腹も空いたしね」と付け加えると、彼は態度をころりと変えた。
「すぐに帰りましょう」
もう何を作ろうか真剣に考えている顔つきだ。
こうでなくちゃ。
彼は料理人で、ナジュアムは雇い主……ではないけれど、それに近しい存在で。
そのくらいの距離感を保つのがちょうどいいんだ。
それとも、均衡を壊してしまおうか。抱いてくれと懇願して彼が慌てふためいて逃げ出すのを見送ろうか。
ナジュアムはその考えをすぐに打ち消した。きっとオーレンのことだから真顔でダメですなんて言って諭して、全部なかったことにしてしまうんだ。それはそれで痛すぎる。
「あ、そうだナジュアムさん」
オーレンはくるりと振り向いた。
「俺、欲しいものは特にないんですけど、ナジュアムさんにお願いしたいことはあるんです」
「なに?」
「今度、俺の働いている店に来てくれませんか? なかなか美味しい店なので、ナジュアムさんにも食べて欲しいんです」
「君はそればっかりだな」
「大事なことでしょう? で、どうなんですか? 来てくれます?」
「そうだな、行こうかな」
「やった! 約束ですよ!」
なにがそんなに嬉しいのか、オーレンはギュッと両手を握りしめて喜びをあらわにした。
「ああ、でもまずは、やっぱり今夜食べるものを決めないとですね。すぐ作れるものにしますね。でも、あったかいもの」
「前に使ったトウガラシのオイルは?」
「ナジュアムさん、辛いの苦手じゃありませんでした?」
「辛すぎるのは得意じゃないけど、出始めたばかりのトマトをいくつか買っていただろ。アレと合わせればきっとおいしい」
「よく見てますね。なら、パスタにしましょうか。辛さは控えめで」
「ぜひそうして」
話をしていたら、すごくお腹が空いてきた。




