今日で終わり
ヤランと別れたのは、二月初めの冷え込む夜のことだった。
オーレンと出会う、数か月前のこと。
「今日で終わりだから」
痩せぎすの背中をさらしたまま、気だるげに髪をかきあげるヤランを、ナジュアムは枕元からぼんやりと見あげた。
ああ、また始まった。
もうこない。お前といてもつまらない。そんな言葉を投げつけておきながら、何度でも戻ってくるような男なのだ。
数週間もすれば、悪かった、本気じゃなかったなどと笑って、するりと家に入り込む。決まりきったことだとしても、引き留める言葉を惜しめば、さらに機嫌を損ねてしまうだろう。
「ヤラン」
「俺、今度結婚するんだ」
「え?」
さすがに驚いて、ナジュアムは慎重に身を起こした。先ほどまで好き勝手弄ばれていた体は、下手に動けばあちこち悲鳴を上げる。部屋の中が寒いせいか、今夜は余計に辛く感じた。
なんとかヘッドボードに背中を付けて一息つく。そのころにはヤランは手早く服を身に着け、手鏡を覗き込んでいる。茶色の髪を念入りに撫でつけて満足すると、ナジュアムのものである手鏡は、無造作にベッドに投げ捨てられた。
いつもナジュアムがそうされるように。
「それ、どういうこと?」
「おまえと会ってても未来がないけど、あの女と寝れば爵位が手に入る。だからさ、なかったことにしてくれ。今までのこと全部。出会った時のことから、全部だ」
そう言われてナジュアムが思い出したのは、ヤランが孤児院に連れてこられた時のことだった。
ヤランはまだ七歳で、ナジュアムは六歳だった。
彼は何もかもが気に食わないという形相で、必死に涙をこらえていた。
なにをされても、なにを言われても突っぱねられなかったのは、あの頃の彼の姿が頭にこびりついていたからだ。
年の近い男同士、助け合わなくてはならないとずっと思い続けてきた。彼はどうしようもなく寂しいのだと。
「ヤラン、ちょっと待ってよ」
「なんだよ、不服なのか」
彼は三白眼気味の目をすぼめた。嫌な感じの目つきだった。壁や椅子を蹴ったりする寸前の。
「俺はこれでようやく貴族に戻れるんだ! 俺にふさわしい場所に戻れる!」
ナジュアムはハッと口元を抑えた。
まだそんなことを考えていたのかと口走りそうになった。幸い、ヤランは自分の考えに夢中でこちらを見ていなかった。
ぎらつく瞳で未来を語っている。
「俺はさ、立場を手に入れたら、この街に鉄道を引くつもりなんだよ。これからは魔石に頼らず使えるエネルギーが必要なんだ。石炭の時代なんだよ!」
「……うん、前にもそう言っていたね」
魔石を利用するには、魔人の助けが必要だ。ヤランはそれが気に食わないらしい。奴らの顔色を窺いながら生きるのは嫌だとか、魔石はいずれ枯渇する資源だなどと寝物語に聞かされていた。
けれど、そんなにうまくいくだろうか。ナジュアムには疑問だった。
魔力を動力とする道具は、すでに生活の隅々まで行きわたっている。部屋の明りやストーブ、冷蔵庫、コンロやオーブン、水道だってそうだ。
水質の維持に至るまで魔石の力を借りているというのに、石炭が代わりを担うのだと言われても、どうにも腑に落ちなかった。
東の帝国では盛んに使われていて、国を富ませていると新聞で読んだが、同時に炭鉱で起こる痛ましい事故についても伝えられている。
それに魔石は、魔力をこめれば半永久的に使えるものだ。もちろん、手入れを怠れば壊れてしまうものでもあるけれど。
その時、自身の存在を主張するように魔石の力が弱まり、部屋の中がすうと暗くなった。
一秒も経たず元通りになったが、あまりに妙なタイミングだったのでナジュアムは笑い出したくなった。
ため息に紛れて泡にもならず消えてしまったけれど。
――そろそろ魔法屋に行かないと。
現実から逃げるように、ナジュアムは考えた。
どうしてヤランは魔法を否定するんだろう。とても、綺麗なものなのに。
「ああ、言っておくけど邪魔はすんなよ? 泣いて縋られてもうぜえだけだわ」
ぼうっとして、ヤランの言葉を聞き流しかけた。そしてふと思った。
もういいんじゃないか。どうせ反論したところで、聞いては貰えないのだ。
「わかった。忘れる」
「はあ!?」
望む言葉を言ったと思ったのに、彼は声を荒げた。
「おまえ、本当にそれだけか!」
ほかに何があると言うんだろう。
つまらない、気が利かない、一緒に歩いているところを人に見られたくない。そんなふうに言われて、夜中一方的に訪ねてくる形でしか会わなくて、求められるのは体だけ。
そんな関係をダラダラと続けて、ナジュアムも今年で二十三歳だ。
いいことだってあったはずだ。けど、今は何も思い出せない。
ようやくわかった気がする。ナジュアムといても、彼はきっといつまでたっても満たされない。
手を離さなきゃ。
幼いころの幻に縋っていたのは、きっと、ナジュアムのほうだった。
ナジュアムはヤランの目をじっと覗き込んだ。
「忘れるよ、全部」
そうしなきゃ。
「――おめでとうヤラン。お幸せに」
寿ぎの言葉を贈ると、彼は息を詰まらせた。自分のほうが傷ついたとばかりに。
それも一瞬のことで、彼はすぐに鼻で笑ってみせた。
「お、俺が居なくなっても他の男に媚びるんじゃねえぞ。おまえのいいところは、顔と体だけなんだから。すぐに飽きられて、みじめな思いをするだけだ。――ああ、そうだ忘れるところだった! これ、くれてやるよ。だからいいな! 受け取ったからには俺との関係をべらべらしゃべったりするんじゃねえぞ」
足元に投げつけられた封筒から、紙幣が数枚はみ出した。
吐き気にも似たもやつきが胸にわだかまった。体ごとそむけた視線の先には、さきほどヤランの投げ捨てた手鏡があり、青白い自分の顔が映っている。
幼いころから、美しいという言葉をよくかけられた。艶やかな金髪、春先に香るライラックのようだと称えられる瞳。
通りすがりの見知らぬ男に、くちびるを褒められたこともある。
孤児院を訪れる金持ちから、ゾワゾワするような視線を向けられたことも一度や二度ではない。
孤児が過ぎた美貌を持つということは、なにかと厄介なことで、ヤランがこれまで汚らわしい大人の手から何度も守ってくれたこともまた、事実なのだ。
「今日で終わり、か」
冷えきった寝台の上で、ひとりきり、ナジュアムは毛布を体に巻き付け子供のように膝を抱えた。