雨の日に
その日は、少し仕事が長引いてしまった。就業時間ギリギリにやってきた客の長話に付き合ったせいだった。
後片付けを済ませて庁舎を出たときには、小降りだった雨は次第に激しさを増し、五分も経たずびしょ濡れだ。
ナジュアムとしては、ここまで濡れてしまえばかえって焦る気にもならなかったが、先ほどまで話し込んでいた客の方は大丈夫だろうか。
「あのおじさん、濡れてなきゃいいけど」
なんとなく呟いて、自身はのんびりと雨を楽しむことにした。
そんなふうだから、オーレンが傘を持って家の近くまで出ていたのを見た時は正直驚いた。
「オーレン?」
「ナジュアムさん!」
右手にランプと予備の傘を持ち、自分の傘は左肩へひっかけるようにして差し、彼は小走りにこちらへ向かってくる。
「遅いから心配しました。雨もひどいですし」
「このくらい平気だよ」
オーレンは傘を差しかけたが、家はすぐそこだし、今さらだと思う。だが彼は譲らなかった。
「びしょ濡れじゃないですか。まずシャワーを浴びてください。風邪を引きますよ!」
準備のいいことに、彼は玄関先にタオルを用意していた。それで手際よくナジュアムから水滴を拭き取って、バスルームに押し込んだ。
幼い子供みたいに扱われて、ナジュアムはそのあいだ茫然とされるがままになっていた。
叱りつけるような口調は、この家に彼を連れ込んだ時以来じゃなかろうか。
熱いシャワーを浴びながら、まだどこか夢心地だ。
そうか、オーレンは心配して迎えに来てくれたのか。
じわじわと嬉しさがこみ上げた。
ほっこりした気分で浴室から出て、困ったことに気が付いた。
「服がない……」
そりゃそうか、玄関から直行したもんな。
一人暮らしのころは当然、浴室に服を持ち込むなんてまどろっこしいことはしていなかった。初めてオーレンに浴室を貸した時、彼が服を着て出てきたから、なんとなくナジュアムもそれにならって、彼の前で見苦しいものを見せないようにしていた。
まあ、いいか。ないものは仕方ない。
浴室から出るにはどうしてもキッチンを通る必要があるのだが、彼が後ろを向いているうちにサッと通ってしまえばいい。ナジュアムは軽く考えた。
ところが、扉を開けた瞬間、皿を洗っていた彼はバッチリこちらを見た。
大方、「ちゃんと温まったか」とか確認しようとしたのだろう。
ぱかっと口を開けたまま固まった彼の視線がわずかに下がって、オーレンは慌てた様子で顔をそむけた。
「な、なんて恰好をしてるんですか!」
「……ごめん」
「い、いいから早く服を着てください!!」
嫌悪でもなく、たんに恥ずかしがっているように見える。
ナジュアムは笑いをこらえながら彼の後ろを通った。
「オーレン」
「なんですかっ!」
「ううん、ありがとう。あったまったよ」
キッチンから出る前にチラリと視線をやると、彼は目を固くつむって顔を真っ赤にしていた。
可愛いやつ。
夕食はカサゴを丸一匹使ったアクアパッツァだった。
鱗を丁寧に取り、エラと内臓を外し、ハーブとワインで香りづけされたカサゴからは臭みを一切感じない。うま味がたっぷり溶けだしたオイルに、アサリから出た出汁も加わり、それらをまとった熱々の野菜に至るまで全部美味しい。ニンジンにとろりとしたズッキーニ。
引き締まった白身魚はワインとの相性もばっちりだ。
雨に当たって疲れた体に、オイルたっぷりの料理は良く沁みた。
身も心もすっかり温まって、ナジュアムはだんだんとふわふわしてきた。
「これなら、風邪なんて引きそうもないね」
「そう願いたいものです」
オーレンは真面目に答えたが、それはそれで少し残念な気もする。彼なら優しく看病してくれそうだ。
柔らかいリゾット炊いて、フーフー息を吹きかけて冷まして、真面目な顔をして食べさせてくれたりして。
想像してくすっと笑いかけ、妙な妄想だと気づいて恥ずかしくなった。つい、ワインをグイッとあおってしまう。
「……飲みすぎないでくださいね」
その咎めるような顔を見て、ナジュアムは昼間先輩に言われた言葉を思い出してしまった。
「やっぱり。可愛いくて家庭的、で、合ってるな」
「なんの話ですか?」
「なんでもない」
ナジュアムは上機嫌でワインを飲みほした。




