一番美味しそう
「いいんですよ。いつでも、好きなだけ食べて」
オーレンが腕を広げている。
「本当に?」
喜んで裸の胸に飛び込む寸前で、ナジュアムは跳ね起きた。
「うわあああっ!」
なにこれ、なんて夢だよ。思い切り叫んでしまってから、慌てて口を塞いでぷるぷるしていると、どたどたとらしからぬ足音を立て、オーレンが部屋の扉を叩いた。
「ナジュアムさん!? どうかしましたか!」
彼はいつものようにキッチンで朝食の用意をしていたのだろう。まさか声がそっちまで届いてしまうとは。返事ができずにいると、ノックの音が激しくなる。
「ナジュアムさん!」
このまま突入されてしまいそうだ。今は、すごく困る。
「な、なんでもない!」
なんとかそう答えて、ナジュアムは枕を引き寄せて顔をうずめた。ダメだ。昨日のアレが、よっぽど記憶に残ってしまったらしい。
だいたい、あんな優しい顔で「全部あなたのものです」なんて言われたら、勘違いしそうになるだろうが。
ナジュアムは恨めしく唸り声をあげた。
なんとか気を取り直して部屋から出ると、オーレンはまだ部屋の近くでウロウロしていた。
「本当に、何でもないんですよね?」
本気で心配しているとわかるから、大変決まりが悪い。
こっちはまともに顔も見られないってのに、大丈夫だと伝えてもオーレンはまだ何か疑っているようだった。食事中も、彼は何度もこちらを窺っていた。
ホント、やめてくれ。君が元凶だよって言えたらどんなにいいだろう。
一番美味しそうなのは自分だって、自覚ないのかな!
◇
朝っぱらから大変疲れたというのに、職場で面倒な先輩に声をかけられてしまった。
「なんかおまえ、最近キレイになったか?」
「はい?」
仕事の合間に、先輩がチラチラ投げかけてくる視線には気づいていた。また何か難癖をつけるつもりかと身構えていたら、これだ。
ナジュアムはどう答えたものか迷い、小首を傾げ、淡い金色の髪を耳に掛けた。
ナジュアムの紫の瞳は、どこか人を惑わせるようなところがあると誰かが言っていた。
白い肌や、華奢に見える体つきが庇護欲を誘う、とも。
とはいえこの先輩はいつだって、孤児であるナジュアムに対する不満を隠そうとしない。伝言を伝えないとか、書類をわかりにくいところに隠すとか、妨害や嫌がらせもしょっちゅうだ。
どんな魂胆があるものかと警戒していたところへ、下働きの少年が会話に加わった。
「あ! 俺もそう思っていました! ナジュアムさんはもともとお綺麗ですけど、最近はさらに磨きがかかったと言いますか」
十四、五歳の少年に綺麗だとか言われると、のけぞりたくなるくらい居心地が悪い。
ただ、こっちの企みはわかりやすい。彼はしきりに、ある一点へ視線を送っている。ナジュアムが使っている机の引き出しには、オーレン製のジャムやパテを入れてある。彼の狙いはそれだろう。
「変にへつらうより、素直にくださいと言われるほうが俺は好きだな」
おべっかを使ったという自覚はあるのだろう。彼はバッと姿勢を正して頭を下げた。見事な変わり身だ。
「ナジュアムさん、ジャムを分けてください! このあいだの、妹に取られちゃって」
「じゃあ今日は二個持っていきな」
「いいんですか!?」
少年が嬉しそうにジャムの瓶を選んでいる横で、先輩まで興味を持ってしまったようだった。
「これ、おまえが作ったの?」
「違います」
「やっぱり。恋人でもできたんだろう」
「いえ、残念ながら」
やっぱりとはなんだ。答えながら、ナジュアムさりげなく室内に目を配った。
客の一人でも来てくれれば、彼との会話を打ち切れるのだが、こういう時に限って誰も来ない。
隠すなよとか、どんな相手だなどとしつこく聞かれて、思い浮かべてしまうのはどうしたってオーレンの顔だ。
それに、実のところナジュアムも鏡を見ては、やたらとツヤツヤした肌にとまどっているところだ。
寝不足が解消され隈も消え、吹き出物の類もなくなった。食事という楽しみができたせいか、表情まで明るくなった気がする。
「で、どんな子なんだ。可愛い子か? こんなものを持たせるくらいだから家庭的なんだろうなあ。今度会わせろよ」
たぶん先輩の想像とは大きく違うが、家庭的で可愛いところは合っている。
そう思ったらつい笑みが漏れた。ナジュアムの表情の変化をどう捉えたのか、先輩がわざとらしく「おおお!」なんて囃し立てた。
最近、ナジュアムは彼に何をされても動揺しなくなったので、彼のほうは新しいからかいのタネでも探していたのかもしれない。
「なあ、これ、俺もひとつもらっていいか?」
「え、構いませんけど」
本当は嫌だった。この人に食べさせるくらいなら自分で食べたい。けれど、下働きの子にはあげたのに先輩にはあげないとなると、もともと面倒臭い先輩が、さらなる進化を遂げかねない。
それに、オーレン効果で先輩も心を入れ替えてくれるかもしれないし。そうなったらちょっと面白い。
「瓶は洗って返してくださいね」
「なんだそれ、面倒くさいな。おまえが洗ってくれよ」
「嫌ですよ」
なんだか妙な感じだ。以前のナジュアムなら、先輩相手に「嫌だ」などと気軽に言うことはできなかっただろう。
けれど意外なことに、軽口を叩いても彼は怒らないようだった。それどころか、すこし距離が縮まったように感じた。




