33 パトリアと妖精
まっすぐに向かったのは、伯爵家の庭の一角。
公爵邸を見上げる場所に買えたという、庭のある伯爵家は、初代が果物好きだったために作った果樹園がある。
その中に、虫よけになるからと植えられたとんがった形の木。
冬の間も常盤緑を保つその木に駆け寄って、パトリアは抱き着いた。
母親がまだ優しかった頃に、ピクニックの真似事をした時や散歩の時に、この木陰で休んだ思い出の場所だった。
もう母親の愛情は諦めても、優しい思い出のある場所がここだけになってしまったパトリアは、ここしか泣ける場所がなくなっていた。
「どうしよう。どうしよう」
パトリアにできることなんて何もない。
逃げ出せば何がなんでも父親はパトリアを探し出して連れ戻される。
公爵家にすがりたくても、父親どころか、祖父の代からその地位を狙って後ろ暗いことを繰り返したパトリアの家を、公爵家は嫌って助けてくれないだろう。
「せっかく、最近は穏やかに暮らせてたのに」
気に入らないとすぐ鞭を持ち出すようになった父親のせいで傷が絶えなかったパトリアだったが、近ごろは急にそれがなくなっていた。
急に父親に用事ができたり。
父親が転んで鞭が遠くへ飛んでいき、恥ずかしくなった父親が早々にどこかへ行ってしまったりと、上手く避けられていたのだ。
そのうちに父親も鞭を持つことが少なくなっていったのだけど。
「もうだめよ。鞭なんかじゃない、一生の傷がつくわ。しかも逃げられない。もう嫌……。誰か助けて」
でも思い浮かぶ顔はない。
ほんの少し、パトリアの傷を黙っていてくれた婚約者選びのパーティーに来ていた令嬢を思い出した。
パトリアが虐待されていたことを黙っていてと言われて、パトリアの願いを聞いてくれたのも彼女だけ。
けど、彼女だって貴族令嬢の一人でしかない。
しかも子爵家で、権勢のある家でもないのだから、パトリアを助けるなんて力はないのだ。
誰も頼れないと絶望するパトリアに、誰かがささやいた。
『どうしたら、助けられる?』
パトリアは泣きぬれた目で、周囲をゆるりと見回す。
誰もいない。
……いや、いた。
果樹園に落ちる日陰の中。木の後ろからひょっこりと顔をのぞかせた小さな姿。
今すがっている木のように、とんがった形の手のひらほどの木だけど、幹から手足のような枝がひょこっと伸びて、くりくりとした目がついている。
「夢でも見てるのかしら……? でもいいわ。このまま夢の中にいられたらいいのに。本当にこのちっちゃな木が、私を助けてくれたらいいのに」
『助けてあげるよ!』
今度こそ本当に、木から声がした。
夢だと思っているパトリアは、面白くなって言ってみた。
「じゃあ助けて」
『どうしたらいい? 何をしてほしい?』
聞かれたパトリアは、軽い気持ちで口にする。
『私の結婚相手になるらしいヴェンス伯爵がいなくなったらいいわ』
そうしたら、パトリアは開放される。
ただそれだけを願った。
翌日、パトリアは渋面の父親に朝食の席で告げられた。
「ヴェンス伯爵が急死なされたそうだ」
まさか、とパトリアは思った。
(あれは夢のはず……。それとも、私の妄想が実現してしまった?)
でも数日後、今度は別の公爵との婚姻についての話を聞かされた。
パトリアはまたしても、果樹園で、不思議な小さな木と話す夢を見た。
その時の木は、なんだか前よりも葉も幹も黒いような気がした。
焦げた臭いもするし、パトリアは「大丈夫なの? 病気でもしてるの?」と尋ねたが。
『大丈夫だよ。君が幸せになるのなら』
そんな言葉を聞かされて、パトリアは感動のあまり他のことが気にならなくなった。
だってパトリアはずっと願ってきたのだ。
そんな風に両親に言ってほしい。もしくはそう言ってくれる、素敵な人と結婚したいと。
翌日、またしても結婚相手に挙げられた公爵が亡くなった。
「くふふふ、くふふふ」
愉快な気分になってきて、パトリアは笑う。
その日は、たまたま他の貴族令嬢達とのお茶会があった。
お茶会でヘレナという令嬢の顔を見て、そういえばと思い出す。
彼女は選ばれたのだろうか。
周囲のヘレナをいつも持ち上げている令嬢が、にこにこと話しかける。
「もう公爵家からご連絡は来たのですか?」
ヘレナは困ったように微笑んだ。
「結果については公表しないようにと、公爵夫人がおっしゃっておりましたし。私が言えるのは、公爵家のパーティーに招待されたことだけですわ」
やんわり濁したのだと思った令嬢達は、「楽しみですわね!」と公爵家のパーティーを想像し始めた。
(まさか、本当に選ばれたのかしら)
想像するだけで、心の中がきりとしてくる。
すると、テーブルに黒っぽい手のひらほどの木が現れた。
『君を悲しませる奴を、やっつけてあげるよ』
そこで素直にうなずこうとしたとき、思い出したのはパトリアの傷を黙っていてくれた令嬢の顔だった。
他の人をいじめてはいけない。
それに同意してくれるなら、口外しない、と。
(ええ。でも、死ぬほどの悪いことはしていないわ)
ちょっと困ればいいだけ。
そう思ったのに……。
三日後、他の令嬢からの手紙で、ヘレナが怪我をしたらしいと聞いた。
あのお茶会の帰り、馬車が横転したらしい。
だんだんと楽しくなってきたパトリアだったが、突然、父親によって遠くへいく準備をしろと言われた。
「一体どこへ行かせるのですか?」
さすがの母親も、不審そうな表情で尋ねていた。
「従兄の妻の親族に、ルード子爵が連れ歩く妻を探しているそうだ。今までは華やぎがほしくて奴隷を連れていたそうだが、貿易が波に乗ったらしくてな。貴族の妻が必要になったと聞いた。国外にばかり行くのなら、これ以上伯爵家の傷になるようなことはないだろう。鞭でしつけるのも上手いだろう」
パトリアはもう、涙も枯れてしまったようだった。
なんの感情もわかない。
父親は、パトリアを伯爵家にいる女性の形をした付属品だとしか思っていないと、改めて口に出しているだけだ。
「伯爵家の正統な娘を、奴隷の代わりになんて!」
母親は怒ったが、それも嫁ぎ先に不満があるからのようだ。
考えてみれば、老人に嫁がせると言われた時だって反対はしなかった。
パトリアはいつもの果樹園へ行く。
木陰に座り込んでも、涙は出てこなかった。
「どうして、私は普通の幸せが手に入らないのかしら」
パトリアはずっと、幸せな結婚がしたかっただけだ。
「嫌い……。みんな嫌い」
泣いているパトリアに気づいてくれないみんなが嫌いだ。
「レジェス様が、私を選んでくれないから」
そのうちに、唯一の希望だったレジェスとの結婚のことを思い出す。
あれだけが、パトリアが家から逃げて幸せになれる唯一の道だったのに。どうして自分を選んでくれなかったのか。
レジェスと婚約できなくても、パトリアみたいなひどい結婚を押し付けられないだろう、他の令嬢達も憎い。
「みんな、壊れちゃえばいいのに」
『じゃあ全部綺麗にしちゃおう』
また、あの小さな木の声が聞こえた。
……気づくと、パトリアはどこかで見た場所にいた。
これは、公爵家の庭ではないだろうか。
公爵家の館を斜めから見られる、小さな池のある庭。
果樹園の木と同じ常盤緑の針葉樹が噴水を囲んでいる。
その木一つ一つに、パトリアは手にべったりとついていた血を塗りつけていく。
山へ登る者が、道迷いをしないよう印をつけるみたいに。
池をぐるりと囲む分だけ血を塗りつけ終わると、パトリアの足元にいた小さな木が、ぶわっと黒い煙のようになって広がり、血塗られた木の全てをとりまく。
あの小さな木はいなくなったけど、十数本もの大きな黒い幹の木がその分身のように、パトリアにささやく。
『さあ望みを言ってごらん』
パトリアは、彼らに願う。
「そうしたら、数日後のパーティーで、みんなに私のお願いを聞いてもらいましょう」
木がざわめく。
『そうしよう、そうしよう』という言葉を繰り返しながら。
 




