31 逃げ出した私
足早に公爵邸を出たものの、レジェスが追ってくる様子はない。
すでにミゼル子爵家の馬車はエントランスの近くで待っていたので、急いで乗り込み、家路についた。
座席に座って、進む馬車の振動を感じながら、リシーラは顔を手で覆う。
「……なんで、私」
断れなかったんだろう。
そのまま子爵家に帰った後、部屋に戻る途中で、チャーリーを連れたアンナと会った。
「リシーラ、おかえりなさ……」
すぐにアンナは微笑みを消し、真剣な表情でリシーラに「ちょっと待ってね」と言い置いた。
そうしてすぐ後ろにいた乳母に息子を託し、リシーラの部屋へ一緒についてくる。
リシーラの着替えを手伝い、人心地ついたところでアンナは切り出した。
「どうしたの? 何か嫌なことがあった?」
問われて、リシーラはなぜか涙が出そうになる。
「嫌なことがあったわけじゃないんです。ただ、よくわからなくて」
自分の気持ちがわからなくなっていたリシーラは、あったことをそのままアンナに話した。
内緒にしていたけれど、実は国境の町で隠れている時に、騎士を一人助けたこと。
それがレジェスだったこと。
まさか覚えているわけがないと思った理由と、今までは他人行儀に話してくれていたという経緯。
でも本当は、レジェスはずっとリシーラのことを見分けていて……。改めて自分を選びたいと言われたことを。
その間、リシーラは自分がどう思ったかは話していなかった。
聞かれたら、頭の中を整理しながら話すつもりだったのだけど。
耳を傾けてくれていたアンナは、微笑んで言った。
「考えてみれば、珍しいわね。あなたを大好きな妖精達が、あなたにレジェス公子が近づいてもいいと思っているのは」
「え……」
「だって、助けてあげてほしいとあなたのところへ連れてくるなんて、よほど妖精達にとって彼は信用できる相手なのでしょう」
言われてみれば、とリシーラは思う。
クー・シー達が食料を探しに行ったりしている間、リシーラとレジェスの二人きりになったことは何度もある。
もし信用できない人だったら、誰かは側に残っただろう。
戦うこともできないリシーラでは、怪我が治りかけの騎士が相手ではあっさりと倒されかねないから。
「そしてあなたも、レジェス様のことを信頼していたのね」
言われてうなずく。
あの時、怪我が治って動けるようになっても、レジェスが自分を傷つけるとは思わなかった。
恩を感じてくれているだろうという期待もあったけど、レジェス自身がそんなことをする人ではないと思ったから。
それはクー・シー達が信じている人達だったから。
同時に、リシーラが長い時間を一緒に過ごして、信用できると思ったから。
「そういう人は貴重よ。なかなか出会えるものじゃないわ。ウォルターに出会って、私もそう感じたから一緒にいる。ちょっとだけ想像してみてもいいんじゃないかしら。それで、良い未来が描けそうなら、試してみてもいいと思うの」
「そうなのですね。でも……」
レジェスといるのは嫌ではない。
信用できる人だとは思う。
でも、母親のことが脳裏をよぎってしまう。
世界で最も信用するべき人として教えられて、育ったのだ。
あなたのお母様ですよ。お嬢様のことを一番考えてくださっている方です、と。
けれど妖精の世界から帰った後、何を言ってもリシーラを疑い、とうとう視界に入れるのも嫌がるようになった。
それを裏切られたように感じていたリシーラは、一時だけいい顔をしていて、リシーラに何か原因がなかったとしても、思い違いで相手を憎む人がいると知ってしまった。
レジェスは、変わらないだろうか。
本当にレジェスを信じていいものか。
チェンジリングのことまで知ったら、彼にもやっぱり裏切られるのではないかと思ってしまう。
そんな物思いを感じ取ったのかもしれない。アンナが言った。
「ダメだったらいつでも出戻って来ていいのよ」
いつの間にかうつむいていた顔を上げると、アンナが微笑んでいた。
「ここはあなたの家だし、私達はいつまでも家族よ。たとえあなたが結婚したってそれは変わらない。だから、逃げ出したくなったらいつでも帰って来て。そうは言っても、リシーラは遠慮してしまうだろうけど」
アンナがくすくすと笑う。
そうされると、リシーラも自分がずいぶんと頑固に遠慮し続けすぎたことを実感して、反省してしまう。
そうだった。
ウォルターとアンナだけは、どんな時も変わらない。
そういう人もいる。レジェスが、同じではないと誰が言えるだろうか。
アンナは続けて言う。
「もし出戻りで気が咎めるなら、先に約束しておきましょ? 出戻りをする時は、今度こそ前にお願いしたように、チャーリーの姉になってちょうだい」
養子になれば、遠慮なく帰れるし、気が根しなくなるというアンナの配慮に、リシーラは微笑む。
どんな形でも見捨てないでいてくれる。ウォルターとアンナは、ずっとそうやって、リシーラが安心する約束をくれていた。
レジェスはどうだろうか。
(お姉様達みたいに、私が安心できる約束をくれるかしら)
そう信じるには、もう少し足りない気がするのだ。
「お姉様は……。レジェス様が命を救われた恩を感じて、求婚したのだと思いますか?」
リシーラはずっとそう思ってきた。
お世辞と一緒の発言だから、本気じゃないだろうと。
リシーラを探してまで結婚したがっているのは、それだけ恩を重く考えているんだろうなと解釈していた。
否定する材料もないけど、肯定する発言もレジェスから出たわけじゃないけど。
「私には、それが本当なのか違うのか、判断ができる気がしないんです」
アンナは笑ったりせずに応じてくれた。
「そうね。惚れっぽい人でも、自分の本当の気持ちはわかっていないことも多いわ。誰かに頼りたいという気持ちを恋と勘違いする人も多いし。でも……そうね。やっぱりお互いが無一文でも、相手を選びたいと思うかどうかしら」
その言葉に、リシーラは納得する。
貴族女性だけではなく、生きて行くにはお金が必要になる。
だからこそ、お金がある人を魅力的だと感じてもそれは仕方ないことだし、建前でその気持ちを隠している人も多いだろう。
でもお互いに無一文だったら。
リシーラが貧乏でもレジェスは選んでくれるだろうか。
レジェスが公子でもなく、騎士ですらなかったとしても、彼を選びたいと思うかどうか。
そして一緒に生活していくことができるかどうか。
それを考えてみるのはいい案だと思えた。
「ありがとうございます、お姉様。私、もう少し考えてみます」
リシーラの少し前向きになった答えに、アンナは嬉しそうに微笑んだ。




