第9話
「駄目ね」
部屋の中にあったすべての服やアクセサリーに触れた犬飼さんが口を開く。
「同窓会に行った時の記憶とか浮気してる時の記憶が残った物は何もないわ」
「それってどういうことですか?」
「きっとその時に着ていた服やアクセサリーを今も身につけて出かけているのね」
「なるほど。じゃあ浮気しているかどうかまだわからないってことですか?」
「ええ」
そう答えつつ右手に革の手袋をはめ直す犬飼さん。
とその時、玄関の方からドアが閉まる音が聞こえた。
加納さんがミネラルウォーターを買ってきてくれたのだろう。
だがいつまで経っても二階に上がってくる気配がない。
どうしたのだろうと思っていると、
「あなたー、どこー? どなたかいらしてるのー?」
女性の声が家の中に響いた。
「げっ犬飼さん、奥さんが帰ってきちゃったみたいですよっ」
「そうみたいね」
「何落ち着いてるんですかっ。どうするんですかっ?」
「うっさいわね。今考えてるから黙ってて」
そうは言っても加納さんの奥さんが階段を上がってくる足音が聞こえてくる。
もうすぐそこまで来てしまっているようだ。
「司、私が上手くごまかすからあんたはにこにこしてなさい。いいわね」
「え、本気ですかっ?」
犬飼さんにそんな芸当が出来るとは思えないのだが……。
とその時、
「あなた、そこにいるのー?」
加納さんの奥さんがドアの隙間から顔を覗かせた。
写真で見たよりも若く見える。
「あら? ええっと、どちら様?」
俺たちを見て訝しげに問うてくる。
それはそうだろう、家に帰って自分の部屋に見知らぬ男女がいたら誰だって不審がる。
泥棒扱いされて大声を出されなかっただけマシってものだ。
犬飼さん、どうするんですか?
俺は犬飼さんを盗み見た。
すると犬飼さんは加納さんの奥さんに対してうやうやしく頭を下げた。
いつの間にか黒いコートの前を閉じて革の手袋も外している。
「初めまして。私たちは加納さんの部下で犬飼と神宮と申します。仕事で近くまで来たので加納さんにおうちに誘われたんです。申し訳ありません、ご挨拶が遅くなりまして」
「あ、いえ。主人の会社の方でしたのね……」
言いながらもまだ少し怪しんでいるようだ。
加納さんの奥さんと目が合った俺は出来るだけ穏やかな表情で微笑みながら会釈をする。
「加納さんは今飲み物を買いに行ってらっしゃるので私たちは待たせてもらっていたんです」
「そうなんですか……でも、どうしてわたしの部屋に……?」
当然の質問だった。
しかし犬飼さんは動じることなく、
「つい先程まで加納さんに奥様のお写真を見せてもらっていたんです」
流暢に説明してみせる。
「加納さんがあまりにも奥様のことを褒めていらしたのでどのような奥様なんですか? とお訊ねしたところこちらのお部屋に案内されまして奥様のアルバムを……」
「え? わたしのアルバムを主人がお二人に見せたんですか?」
「はい。申し訳ありません、勝手に拝見してしまって……」
両手を揃えてお辞儀をする犬飼さん。
「いえそれはいいですけど、なんか恥ずかしいですわね」
顔の前で手を振りつつ加納さんの奥さんは顔を赤らめていた。
「そんなことありませんよ。とても素敵なことだと思います」
そんな加納さんの奥さんの手を取って犬飼さんは「私も加納さんのように奥様を素直に褒めることの出来る素敵な男性と結婚したいですわ」と心にもないであろうセリフを吐く。
俺にとっては歯の浮くような言葉であったが加納さんの奥さんの心には刺さったようで、加納さんの奥さんの警戒心が目に見えて解けていくのがわかった。
するとその直後一階から玄関のドアの閉まる音が聞こえてくる。
やっと加納さんが帰ってきたらしい。
「あら、あの人が帰ってきたみたいだわ。それではお二人とも、下に参りましょうか」
「はい、わかりました」
「あ、はい」
気分をよくした加納さんの奥さんに促され、犬飼さんと俺は加納さんの奥さんの部屋をあとにした。
「もうあなたったら、部下の方たちを置いて家を留守にするなんて何を考えてるの」
「え……あ、ああ、そうだったね。ごめんごめん。二人も悪かったね」
加納さんは顔に似合わず、と言ったら失礼だが割と機転が利くタイプだったようで瞬時に状況を把握して話をうまく合わせてくれた。
そのおかげで加納さんの奥さんに疑念を持たれることなく、俺たちは無事家を出ることが出来たのだった。
「いやあ、びっくりしましたよ。妻が帰っていたんですから」
「あなたやるじゃない。嘘つきの才能があるわよ」
家をあとにした加納さんと犬飼さんと俺は近くの公園にいた。
「そ、それでどうでしたか? 妻が浮気をしているかどうかわかりましたか?」
「ええ。残念だけど完全にクロね」
加納さんの問いに犬飼さんが言いよどむことなく答える。
「なっ……そ、それはどうしてでしょうか?」
「企業秘密だから詳しくは話せないけど間違いないわよ」
と犬飼さん。
あれ? 浮気時に身につけていた洋服やアクセサリーはなかったんじゃ……?
「それでも決定的な証拠が欲しいなら言い訳も出来ないような写真を後で撮って送るけど」
「あ、い、いえ。いいです……」
加納さんは口を真一文字に結んで首を横に振った。
さすがに決定的な証拠写真は見たくないのだろう。
「フォローにならないかもしれないけど一応言っとくわ。あなたの奥さんはあなたのことを愛していないわけじゃないわ、今はただちょっと羽目を外したいだけみたいよ」
「そ、そうですか……」
「それじゃ司、帰りましょ」
「は、はい」
……意外だった。
犬飼さんは自分以外の人間のことなどまったく気にも留めていないと思っていた。
だがおよそ無関係の加納さんに対して犬飼さんは優しい言葉をかけたのだった。
俺は犬飼さんのことを少しだけ見誤っていたのかもしれない。
犬飼さんの背中をみつめながら俺は自然と笑みがこぼれていた。
「あっ忘れるところだったわ。これ加納さんに渡してきてちょうだい」
立ち止まった犬飼さんは俺に紙切れをよこす。
「ん? なんですかこの紙?」
「依頼料の十万円を振り込んでもらう口座の番号が書いてあるのよ。ほら早く渡してきなさい」
「は、はあ」
俺は公園のベンチで一人うなだれている加納さんの元へと口座番号の書かれた紙切れを持って戻った。
……やはり犬飼さんは犬飼さんだ。
平身低頭加納さんに口座番号の書かれた紙切れを渡してから犬飼さんと再び合流する。
「それにしても犬飼さん、同窓会の時の服はなかったんですよね? それなのにどうして加納さんの奥さんが浮気してるってわかったんですか?」
「んー?」
「もしかして加納さんの奥さんがさっき着ていた服に触って確かめたんですか?」
俺の目からは犬飼さんはそんなことはしていないように見えたのだが……。
すると、
「そんなことしてないわよ」
とつまらなそうに犬飼さんが返した。
「じゃあどうやって……?」
「司、あんた見てなかったの? 私あの奥さんの手に直接触れたじゃない」
「え……どういうことですか?」
「どういうって……あー、あんた私の異能の力誤解してるわね。私のサイコメトリー能力は人に触ればその人の記憶も読み取れるのよ」
「えっ、そうだったんですか?」
だからあの時犬飼さんは加納さんの奥さんの手を握ったのか。
なんとなく不自然だと感じてはいたがそういうことだったか。
「あ……っていうか犬飼さん、敬語使えるんじゃないですかっ」
犬飼さんは加納さんの奥さんに対して丁寧すぎるほどの敬語でもって接していた。
てっきり犬飼さんには敬語という概念はないのだと思っていたのに。
「敬語が使えるなら加納さんにも使ってくださいよ。加納さんは依頼主なんですよ」
「嫌よ邪魔くさい。さっきのは仕方なく敬語を使っただけよ。普段から敬語なんて死んでも使うもんですか」
死ぬより敬語を使う方が嫌とは一体どんなポリシーなんだ。
犬飼さんの主義、信条に興味など更々ないが犬飼探偵事務所が潰れると俺の生活にも影響が出るので依頼主への態度は改めてほしい。
……まあ、俺が何を言ってもこの人には響かないんだろうけどな。
「犬飼さん、これで今回の依頼は完了ですか?」
「ええ、これで十万円ゲットよ。ボロい商売でしょ」
犬飼さんは俺に顔を向けるとにこっと笑い白い歯を覗かせた。
その表情を見て思わず見惚れてしまった自分が恨めしい。