第8話
外を歩くとやはり他人の視線が俺の右腕付近に向けられてくる。
いい気持ちはしないが、逆の立場だったら俺もつい見てしまうかもしれないのでこればかりはしょうがない。
それにしても平日の昼間に街中を堂々と歩くという行為は妙な罪悪感と優越感を覚える。
今までに感じたことのなかった感覚だ。
幸い俺は割と大人びた容姿をしているので、周りからは暇な大学生くらいに見られていることだろう。
コンビニに着くとざるそばとカツサンドを買って事務所へと戻る。
コンビニが混んでいたせいで思っていた以上に時間がかかってしまった。
あまり遅いと犬飼さんが文句を垂れそうなので俺は早足で帰路につく。
……どうでもいいけど俺って仕事らしい仕事まだ何もしていないな。
「帰りましたよー」
事務所に戻るとテーブルの前の椅子にスーツを着た男性が座っていた。
その男性が振り返り俺に軽く会釈をする。
「初めまして。お邪魔しています」
「あ、どうも」
男性と目が合った俺は頭を下げると、テーブルを挟んで対面の椅子に腰かけていた犬飼さんの横へ歩みを進めた。
「もしかして依頼主の方ですか?」
犬飼さんにそっと訊ねると、
「そう、依頼人。今来たとこよ」
犬飼さんは依頼主の男性に聞こえることなどお構いなしに言い放つ。
もう少し言い方ってものがあるだろうに。
「それ冷蔵庫に入れといて。あとついでにお茶持ってきてちょうだい」
「あ、はい、わかりました」
言われた通り俺はキッチンに向かい買ってきたお弁当を冷蔵庫にしまうと、お茶の用意をして依頼主の元へ。
「失礼します」
言いながら依頼主の男性の前にお茶を置く。
「ありがとうございます。いただきます」
物腰柔らかな四十代くらいのその男性は穏やかな口調で言うとお茶を一口だけ口にした。
「ほら、司も座って」
「はい」
犬飼さんに促され俺が席に着くと依頼主の男性が口を開いた。
「改めまして、私は加納守といいます……今日は突然お邪魔してすみません」
「別にいいわよ。それより用件は何? 奥さんの浮気調査とか?」
「ちょっと犬飼さん、失礼ですよっ」
「は? 何がよ」
「何がって……」
「いえ、いいんです。事実その通りなので」
と依頼主である加納さんが伏し目がちでそう話す。
「妻が最近妙に私に優しくなったんです。前までは私に無関心だったのに最近は毎日お弁当まで作ってくれるようになって……」
「それで浮気の心配ですか? 特におかしくないような気がしますけど」
「司は女心が分かってないわね。浮気してる罪悪感と充実感からそういうことする女は結構いるのよ。憶えておきなさい」
犬飼さんは「ちっちっち」と人差し指を揺らしながら俺に顔を向けた。
なぜ自慢げなんだろう。
「加納さん、あなたの奥さんって年いくつ? 美人?」
「今年で三十九歳です……写真ありますけど見ますか?」
言うと加納さんはスマホを取り出し、何度か画面をスライドさせてからそれを犬飼さんと俺に見せてくる。
「へー、年の割にはなかなか美人ね。これなら浮気してる可能性は充分あるわね」
と犬飼さん。
確かに俺もそう思ったが、だとしても言葉を選んでほしい。
というかせめて敬語くらい使ったらどうなんだ。
「妻が優しくなったのはついこの間あった高校の同窓会に行った頃からなんです。妻は高校の頃かなりモテていたようなのでもしかしたら……」
「元彼にでも再会して焼け木杭に火がついたってとこかしら」
不謹慎にも犬飼さんは楽しそうに言葉を吐く。
「……かもしれません」
消え入りそうな声で答える加納さん。
結婚どころか彼女すらいたことがない俺にとってはその心中は想像も出来ない。
「ちなみに奥さんは主婦よね? 今は家にいるの?」
「妻ですか? 妻は今日は外で友達とランチをしてくると言っていたので、今の時間だと家にはいないと思いますけど……」
すると、
「わかったわ。その依頼引き受けましょう」
犬飼さんが声を上げた。
「本当ですか?」
「ええ。依頼料は結果がどうであろうと十万円よ。それでいいわね?」
「は、はい……よろしくお願いします」
加納さんは椅子から立ち上がると俺と犬飼さんに向かって頭を下げる。
「あ、いえ。こちらこそ」
「さてと、そうと決まったら早速あなたの家に行きましょうか」
「え……私の家に、ですか?」
「そうよ」
「あの、差し出がましいようですけど浮気調査というのは妻を尾行したりするのではないのですか?」
加納さんは申し訳なさそうに犬飼さんに訊ねた。
「浮気してるかどうかなんてのはその人間の持ち物を見ればわかるものなのよ。つべこべ言わないで家に案内してちょうだい」
……多分犬飼さんはサイコメトリーとやらで手っ取り早く加納さんの奥さんが浮気しているかどうかを見極めるつもりなんだろうけど、そんなことを知らない加納さんは不安げな表情だ。
もしかしたらこの事務所に相談しに来たことを後悔しているのかもしれないな。
「は、はあ……わかりました」
「じゃ行きましょ」
そう言うと犬飼さんは立ち上がり、椅子に掛けてあった黒いコートを手にしてさっさと事務所を出ていってしまった。
俺は加納さんと顔を見合わせてから、
「とりあえず俺たちも行きましょうか」
「は、はい」
加納さんとともに犬飼さんのあとを追うのだった。
犬飼さんはピチピチの半袖シャツにミニスカート、それでいて右手にだけ革の手袋をはめ肩から厚手の黒いコートを羽織るという暑いのか寒いのかよくわからない恰好で街中を颯爽と歩いていた。
そんな犬飼さんの後ろを俺と加納さんは並んでついていく。
「あ、そこを左ですっ」
前を歩く犬飼さんに向かって加納さんが声を飛ばした。
「青い屋根の家が私のうちです」
「あー、あったわ」
突き当たりを左に曲がると加納さんの言う通り青い屋根の家が目に入ってくる。
二階建てで新築同様の立派な一軒家だった。
壁の色が青みがかっているのも涼しげで趣きがある。
「へー、なかなかいい家じゃない。そういえばあなたって何の仕事してるの?」
犬飼さんが家を見上げながら訊くと、
「私は建築士をしています」
と加納さんが答えた。
だからデザイン性の高い家に住んでいるのかと合点がいく。
「子どもはいるの?」
「いません。なので今は家には誰もいないはずです」
そう言うと加納さんは鍵を開け家の中に入っていった。
「やはり妻は出かけているようですね」
「じゃあさっさとやっちゃいましょ」
犬飼さんは「お邪魔します」の一言もないまま勝手に家に上がり込むと廊下を進む。
「ちょっと犬飼さんっ」
俺は犬飼さんが脱ぎ捨てたヒールの高い靴を向きを揃えて置き直してから、犬飼さんと加納さんの後に続いた。
「奥さんの部屋はどこ?」
「妻の部屋は二階の……階段を上がってすぐ右側の部屋ですけど」
加納さんが言い終える前に犬飼さんは階段を上っていく。
そして二階にたどり着くと右の部屋のドアを開け放った。
加納さんの奥さんの部屋は広くて、そこには大きなテレビや一人用のベッドがあった。
察するに寝室は別々なのだろう。
「奥さんが同窓会の時に着ていった服とかアクセサリーとか見せて」
犬飼さんは加納さんに顔を向ける。
が、
「同窓会の時の服ですか? ど、どうだったかな……」
加納さんは首をひねって考え込んでしまう。
「何、憶えてないの?」
「す、すみません。ちょっとよく憶えてない、です……」
「まったく。そんなだから浮気されるのよ」
ついさっき初めて会ったばかりで明らかに年上の加納さんに不遜な態度で吐き捨てる犬飼さん。
ある意味すごいな……ああはなりたくないが。
「仕方ないわね。片っ端からやるしかないか」
「な、何をでしょうか?」
「んー、こっちの話よ。それより私喉乾いたわ、ミネラルウォーターあるかしら?」
「ミ、ミネラルウォーターですか? えっと、今は水道の水しか……」
「ミネラルウォーターも置いてないの? じゃあ悪いんだけどミネラルウォーター買ってきてちょうだい」
と言いたい放題の犬飼さん。
さすがに見かねて俺が話に割って入る。
「水道水でいいでしょ別に」
「駄目だから言ってるのよ。私味覚が人一倍敏感なの」
口を開けて舌を見せてくるがそんなことされてもな。
「だったら俺が買ってきますよ。加納さんに買いに行かせるのは失礼ですからね」
俺がそう提案するも、
「それも駄目。あんたには手伝ってもらうことがあるんだからここに残りなさい」
と犬飼さんは頑として聞かない。
そんな様子を見ていた加納さんが、
「だ、大丈夫ですよ。私が買ってきます」
自ら言い出した。
「え、いいんですか?」
「はい、私は大丈夫です。で、ではちょっと行ってきますね……」
部屋を出ていこうとする加納さんの背中に向かって「軟水でお願いねー」と最後までわがままを言う犬飼さん。
この人、頭のネジが外れているのではないか。
玄関のドアが閉まる音がした。
加納さんが家を出ていったようだ。
「犬飼さん、加納さんがいい人だからって調子に乗りすぎですよ」
「司、あんた何か勘違いしてるでしょ」
「え、勘違い?」
「私はサイコメトリーするところを加納さんに見られたくなかったから理由をつけて追い払っただけよ。なのに司ってば自分が買いに行くとか言い出すんだから」
犬飼さんは腕組みしながら躾の出来ていない犬を見るような目を俺に向けてきた。
「あ、じゃあさっきのはわざとだったんですか?」
「決まってるでしょ、私ミネラルウォーター嫌いだもん。なんでただの水に高いお金払わないといけないのよ、どうかしてるわ」
どうかしてるのは犬飼さん、あなたの方ですよ。
言ってやりたい気もするがあまり口答えするとにらまれそうなのでやめておく。
「じゃあ加納さんが戻ってくるまでに済ませるわよっ」
そう宣言した犬飼さんは右手にはめていた革の手袋を外した。
そしてその右手でクローゼットの中の服という服を触り出した。
おそらくだが犬飼さんのサイコメトリー能力は右手にしか反応しないのだろう。
「これは違う……これも違う」
次々と右手で服に触れては声に出していく。
クローゼット内の服を触り終えた犬飼さんは今度はタンスに手を伸ばした。
中に入っていた女性物の下着類を触っていく。
うーん……確かにこんなところ加納さんには見せられないな。