第6話
「お風呂、私先入るけどいいわよね」
晩ご飯のピザを食べ終えテレビのバラエティ番組を二人して観ていると犬飼さんが口を開いた。
「あ、はい、もちろんどうぞ」
ここは犬飼探偵事務所。
犬飼さんの家でもあるわけだから当然犬飼さんが何においても優先される。
「じゃあお湯入れてきて」
「俺がですか?」
「あんた以外誰がいるっていうの」
「いや、まあそうですけど……」
観ていた番組がちょうど面白いところだったのだが、犬飼さんに逆らうわけにはいかないのでしぶしぶ立ち上がるとお風呂場に向かう。
蛇口からお湯を出したところで壁についていたモニターを見ると設定温度が四十三度になっていた。
「四十三度?」
ってだいぶ熱いよな……?
そう思った俺は設定温度を四十度に下げてからお風呂場を出た。
「犬飼さん。お湯、出してきましたよ」
「んー」
部屋に戻った俺にありがとうを言うこともなく犬飼さんはテレビに夢中になっている。
別に感謝の言葉を期待していたわけではないが目線をくれるくらいはしてもいいんじゃないのか。
俺は二人掛けのソファを占領している犬飼さんを横目に、隣の簡素な椅子に腰かけるとテレビの続きを楽しもうとした。
とその時、
ブーン、ブーン……。
俺のスマホが振動音とともにズボンのポケットの中で震えた。
スマホの画面を確認すると幼なじみの如月からメールが届いていた。
メールを開くと[お土産忘れるなよっ]とだけ書かれてある。
なんとも自分勝手で面白味のない文章ではあったが、そんなものでもすべてを失った俺にとっては感慨深く思えた。
同じ文面を繰り返し読みながら一人感傷に浸っていると、
「司、さっきも言ったけど生きていたいなら返事しちゃ駄目よ」
犬飼さんがテレビを見ながら顔を動かすことなく言った。
「……わかってますよ。組織に消されるんでしょ」
「そういうこと」
犬飼さんが教えてくれた組織とやらがどんなものなのかはわからないが、マスメディアや警察をコントロール出来るあたりかなり強大な力を持っているであろうことはなんとなく察しがつく。
俺は如月からのメールには返信せずにスマホの電源を落とすとポケットの中に突っ込んだ。
午後九時になりバラエティ番組が一段落すると、ソファに寝そべって観ていた犬飼さんが起き上がる。
「さてと、お風呂入ろうかしら」
独り言のようにつぶやきつつ隣の部屋に入っていく。
そして着替えらしきものを手に戻ってきた犬飼さんが今度はお風呂場に消えていった。
俺、本当に犬飼さんと同居するんだな。
着替えを持ってお風呂場に行く犬飼さんを見て今更ながらその実感がわいてくる。
「あ、っていうか俺着替え持ってないぞ……どうするか」
洋服はともかくとしてせめて下着だけでも今すぐコンビニで買ってこようか。
でもさすがにお風呂に入ったままの犬飼さんを放っておいて出かけるのはまずいよな。
などと逡巡していると、
ガチャ、ガチャガチャ……。
出入口のドアノブが乱暴に回された。
それと同時に、
「なんだ、鍵がかかってるのか」
男性の声が外から聞こえてくる。
誰だ……?
「おい桃子っ。おれだっ」
ドア越しに声を上げる男性。
犬飼さんのことを親しげに桃子と呼んでいる。
もしかして犬飼さんの彼氏か……?
どうすればいいか戸惑っていると、
「桃子、なんのつもりだっ。おれが忙しいのは知っているだろ、早く開けろっ」
犬飼さんの彼氏らしき男性はドアを叩き出した。
犬飼さんはお風呂に入ったばかりでまだ出てきそうにはないし、これ以上騒がれると近所迷惑なので俺が出るしかないか……。
意を決した俺は一呼吸おいてから鍵を開けてドアを開いた。
すると外には眼鏡をかけた小男が立っていた。
年の頃は三十代後半から四十くらいだろうか。
「ん? きみは誰だ?」
俺を見るなりその男性が口にする。
「えっと、一応犬飼さんの部下です……」
「桃子の部下? じゃあ桃子はどこだ?」
怪訝な顔で訊ねてきた。
「えーっと、今は……ちょっと……」
「ちょっとなんだ? きみ、本当に桃子の部下なのか?」
至極当然の質問をされてしまう。
「はい、えーっとですね……」
まいったな……お風呂に入ってるなんて言ったらややこしいことになるのは目に見えている。
疑いの眼差しで俺を見上げてくるその男性を前にして俺が目を泳がせていたその時、
「司っ! あんた勝手にお風呂の設定温度変えたでしょっ!」
バスタオルを体に巻き付けた犬飼さんがどたどたと足音を立てながらやってきた。
げっ……!
「私は熱いお湯が好きなんだから勝手に――ってあら」
「おう、桃子。やっぱりいたんじゃないか」
犬飼さんとその男性の目が合う。
俺は修羅場になるのを回避しようと必死に男性に向かって説明しようとする。
「ご、誤解しないでくださいねっ……お、俺はえっと、違いますよっ。犬飼さんとは今日会ったばかりで……いや、そういう意味じゃなくてですねっ……」
だが口が上手く回らない。
「何言ってるんだきみは? おい桃子、彼はどうしてしまったんだ?」
「ちょっと司、誤解してるのはあんたよ」
「……へっ?」
二人の思いがけない反応に俺は声が裏返った。
「こいつは小林っていって私の知り合いの医者よ。私はこいつにちょくちょく仕事を押しつけられてるだけ。それ以上でもそれ以下でもないわ」
犬飼さんがそう言うと小林と呼ばれた男性が続けて話す。
「初めまして。おれは小林源太、すぐ近くの小林メンタルクリニックで院長をやっている者だ」
「あ……そうだったんですか。すみませんお騒がせして。俺は神宮司といいます。今日から犬飼さんの下で働かせてもらっています、よろしくお願いします」
俺は小林さんに頭を下げた。
「そんなかしこまることないわよ、司」
「桃子の知り合いにしてはしっかりした人間のようだな」
「自分のことを棚に上げてよく言うわ……司、小林は組織の人間だからね。あんまり仲良くしない方がいいわよ」
「え、組織の……?」
俺は小林さんを盗み見た。
どこにでもいるような普通の男性に見える。
「桃子も似たようなものだろう」
「私は全然違うわっ。あんたみたいにどっぷりとは浸かってないもの」
仲がいいのか悪いのかはわからないがとりあえず小林さんは犬飼さんの彼氏ではないようだ。
二人の様子を見て、ひとまずは面倒事にならなくてよかったと安堵する俺だった。
「それで、何しに来たのよ? あんたは私と違って暇じゃないんでしょ」
犬飼さんは小林さんをねめつける。
「おう、そうだった。今日桃子のところに女子高生が顔を出したか? おれのクリニックに相談に来た子だったんだがお前のことを紹介したんだ」
「来たわよ。あんた厄介な子よこしてくれたわね。おかげで私も司も悪霊に殺されるところだったんだからっ」
「そうか、すまなかったな桃子。きみにも悪いことをしたな、司くん」
「あ、いえ。俺は別に……」
大の大人に頭を下げられて俺は恐縮してしまう。
「実はあれは手違いだったんだ」
「手違いってどういうことよ?」
「本当は桃子じゃなくて桜子のところに行かせるつもりだったんだが間違えたんだ。すまん」
「はあっ? 桜子ですって!」
「ああ。あの悪霊は桃子では手に負えないレベルの悪霊だった」
「何それっ、桜子の方が私より有能だとでも言いたいわけっ」
犬飼さんは小林さんの胸ぐらを掴み食って掛かる。
だが小林さんは動じない。
「ああ。桜子の方が格上だ」
「なっ……ちょっと司っ、塩持ってきなさいっ」
「まあ無事だったようでよかった。じゃあおれは帰るからな」
「二度と来んな小林っ」
犬飼さんは吐き捨てるように言い放つとドアを勢いよく閉めた。
「あの、桜子さんって誰ですか?」
気になったので訊いてみたのだが、
「あん?」
鋭い目つきでにらみつけられてしまったので「いや、なんでもないです」と俺はその場を退散した。