第5話
犬飼探偵事務所には電話機が置かれていない。
なので犬飼さんのスマホが事務所の電話代わりになっている。
お昼ご飯を食べた後夕方近くまで事務所の外の窓ガラスの片付けをしていた俺たちだったが、その間犬飼さんのスマホが鳴ることはなく来客も一切なかった。
そこで犬飼さんが「今日はもう上がりましょ」と言い出した。
「明日は朝九時に来てちょうだい。遅刻しないように」
「あ、あの、明日は学校があるんですけどどうしたらいいですか?」
鬼頭さんが犬飼さんに問いかける。
「そっかー。彩菜は何か部活はやってるの?」
「いいえ、何もやっていません」
「そう、だったら学校が終わったら私のスマホに連絡してちょうだい。彩菜が必要な時は言うから」
「はい、わかりました」
犬飼さんと鬼頭さんはスマホを出すとそれぞれ電話番号とメールアドレスを教え合った。
ついでなので俺も一緒に二人と連絡先を交換しておいた。
ちなみに俺のスマホは犬飼さんが持っていたので既に返してもらっていた。
「じゃあ基本平日は司だけってことね」
「そうなりますね」
「え? 司さんは学校平気なんですか?」
「あー、俺学校はもう行かないから。ですよね? 犬飼さん」
「ええ。司が入院してる間に退学届は出しておいたわ」
入院の時点で俺には犬飼さんの仲間になるか隔離されるか始末されるかの三つの選択肢しかなかったわけだから高校に通い続けることは出来ないと思っていたが、まさか退学届まで出していたとはな。
手回しのいいことで。
「そうなんですか~」
「あ、そういえば訊いてなかったですけど俺と鬼頭さんの給料ってどうなってるんですか?」
「何よいきなり。お金の話なんていやらしいわね」
「いや、こういうことはきっちりしておかないと」
相手が犬飼さんみたいな自己中人間の場合は特にな。
「時給制ですか?」
「まあね。二人とも時給五百円で考えてたんだけどどうかしら?」
「鬼ですか。今時時給五百円なんて職場ありませんよ。せめて千円は貰わないと割に合いません」
ただの探偵事務所ではなく命の危険も充分あり得る職場なわけだから、危険手当も含めて時給千円は欲しいところだ。
「あんた吹っ掛けるわね。ここの家賃だって馬鹿にならないのよ」
「全国の平均最低賃金は確か九百いくらだったと思いますけど」
「司ってどうでもいいようなこと知ってるわね……わかったわよ、時給千円で手を打つわ」
「えっ、時給千円も貰えるんですかっ。わぁ、ありがとうございます~」
ぱちぱちと手を叩き喜びを表現する鬼頭さん。
俺がいなかったら本当に時給五百円で働かされていたかもな。
そこでふと大事なことを訊き忘れていたことに思い至る。
「そうだっ。犬飼さん、俺はどこに帰ればいいんですか? っていうかそもそもここってどこですか?」
大分県に旅行中事件に巻き込まれ気付いたら病院にいた俺はここがどこの県かも知らされていない。
街の雰囲気からして大分という感じではなさそうだが。
「そういえば言ってなかったわね。ここは千葉県よ。そんであんたの寝泊まりする場所はあそこ」
親指をくいっとやり、指し示したのは窓ガラスの割れた犬飼探偵事務所。
「え?」
「あんたは今日から事務所で私と同居するのよ」
「…………ええぇーっ!?」
「お疲れ様でした。失礼します」
「はい、お疲れー」
「またね、鬼頭さん」
鬼頭さんを見送ると犬飼さんはさっさと事務所のある雑居ビルに入っていく。
俺もそのあとを追った。
事務所に戻ると部屋の中は三人で協力して掃除したおかげで一通り片付いていたものの、窓ガラスが全壊してしまっているのでどうにも居心地が悪い。
「犬飼さん、窓ガラスどうなりました? 電話したんですよね」
「したわよ。でも今日はどうしても無理だって言うからじゃあ明日の朝一で直してちょうだいってお願いしといたわ」
「そうですか」
犬飼さんのことだからお願いというより恫喝に近かったんじゃないだろうか。
「キッチンの横に段ボールがあるからとりあえずそれで応急処置しといてくれる? 私はピザでも注文しとくから」
「わかりました」
なぜキッチンの横に段ボールが、という疑問は置いておいて俺はそれらを使って窓を覆っていった。
右腕がないので単純作業でも一苦労だ。
そんな俺を尻目に、犬飼さんは宅配ピザ屋のメニューを見ながらピザを次々と注文していく。
……その代金を払うの俺じゃないだろうな。
二十分後、俺の心配は杞憂に終わった。
届いたピザを受け取った犬飼さんは、スカートのポケットから一万円札を取り出すと配達員の男性に手渡す。
配達員の男性は犬飼さんにお釣りを差し出してから二言三言楽しそうに言葉を交わしていたが、そのすぐ後にあからさまにショックを受けたような顔になるとそのままいそいそと立ち去っていった。
どうせ犬飼さんが余計なことを言ったのだろう。
「犬飼さん、何話してたんですか?」
「別に。さっきの男が食事に誘ってきたから年収一億以上の男にしか興味ないって断っただけよ」
「あー……そうですか」
年収一億とはまた大きく出たものだ。
だがまあ、犬飼さんクラスの美人ならあながちあり得なくもないか。
「何その顔? 司、あんたなんか誤解してるでしょ」
「いえ、別に……」
「言っとくけど私そんながめつくないわよ。断ったのはあくまで仕事中なのに浮ついたこと考えてるさっきの男が気に食わなかっただけだからね」
「そうなんですか? じゃあ年収一億っていうのは……」
「口からでまかせよ。そりゃお金があるに越したことはないけどお金持ちの男って大概嫌な奴でしょ」
犬飼さんは苦虫を嚙み潰したような顔で言う。
いやいや、それはさすがに偏見が過ぎるのでは。
「っていうかやっぱりお金持ってたんですね」
「持ってないなんて誰が言ったのよ」
ふてぶてしい態度で言い放つ犬飼さん。
「言ってませんけどお昼ご飯は俺におごらせたじゃないですか」
「あんたまさかそれ一生恩着せがましく言うつもりじゃないでしょうね。器のちっちゃい奴ね、まったく」
「ぐっ……」
ムカつくが我慢だ、我慢。
こんな人でも一応上司なんだからな。
「ここは私がおごってあげるんだからつまらないことは忘れなさい」
そう言うと四つあったピザの箱のうち二つを俺に渡してくる。
「ほら、トリプルチーズとシーフードよ」
「あ、はい……じゃあ、いただきます」
いくらお腹が減っているとはいえLサイズのピザを二枚なんて正直食べ切れるとは思えないが、そんなことを口にしたら胃袋までちっちゃいのねとかいちゃもんつけられそうな気がしたので黙って受け取った。
「テレビつけてもいいですか?」
「いいわよ。壊れてなければね」
窓ガラスが大破した中でもテレビはほとんど無傷だったが、きちんと映るかどうかはまだ確かめていない。
俺はシーフードピザを口に運びつつテレビのリモコンを探すと電源を入れてみた。
「おお、ちゃんとつきましたよ」
幸いなことにテレビは無事だったようだ。
民放の夕方のニュース番組が流れている。
「……俺の父さんと母さんが死んだのって六日前ですよね。さすがにもうニュースはやってないか……」
試しに全チャンネルを回してみるが俺の家族の事件は取り扱ってはいない。
すると、
「司、言ってなかったわね」
犬飼さんは持っていたピザを置いて俺を正面から見据えた。
少しだけだが怒気をはらんでいるようなそんな険しい表情をしている。
「な、なんですか?」
いつもとは違う雰囲気に俺は無意識に姿勢を正した。
「あんたの妹が起こした事件はテレビはおろかネットでも一切報道されてはいないわ。あんたの妹は異能者だから世間的にはそんな事件は起きていないことになっているのよ」
「え……?」
「あんたの両親や妹の知り合いはまだ旅行中だとでも思ってるでしょうね。まあでも、もう少ししたらさすがに異変に気付いて警察に届けるかもしれないけど」
犬飼さんは俺の目をじっとみつめながら続ける。
「とは言っても組織が裏から手を回して警察の方も上手く煙に巻くんでしょうけどね」
「そ、組織……? 組織ってなんですか?」
「だからあんたも知り合いと連絡とっちゃ駄目よ。組織に消されるかもしれないから」
俺の問いは無視して話す犬飼さん。
「消される……ってどういうことですか? 組織って……?」
「悪いけどその質問には答えられないわ。これが私が今話せる精一杯だから」
「え、そんな中途半端な……」
「もし組織についてもっと詳しく知りたいんだったらとにかく手柄を立てることね」
「手柄……ですか?」
「ええ、そうすれば嫌でも向こうから接触してくるわよ」
話したいことを話し終えたのか、すっきりした顔になった犬飼さんはピザを手に取って再び食べ始めた。
ただピザを食べているだけなのにその姿も映画のワンシーンのように様になっている。
結局この後、俺と犬飼さんはLサイズのピザを二枚ずつ平らげた。
そしてその間、犬飼さんは組織についてはもう一言も語ろうとはしなかったので俺も触れることはしないでおいた。