白波の着物
「──わっ! はぁぁ、びっくりしました……。また転ぶところでしたぁ。えへへ……マスターにはご迷惑ばかり」
いつものように、日課の散歩。生ぬるい潮風と焼けるような炎陽の日射しを浴びながら、今日も白波はつまづいていた。もはやノルマ達成というレベル。散歩の途中に、必ず一回は転びかけるんだよね。ほとんど僕が手を掴むから、大事にはならないんだけど……心臓に悪い。
咄嗟に掴んだ彼女の手を離しながら、少しだけ鼓動するその感触とともに、原因は何かと問う。ここ、綺麗な道路だし、転ぶ要素もないはずだけどなぁ……と思っていると、白波は得意げに着物のたもとを揺らして言った。
「あっ、今回は着物の裾を踏みました!」
「……昨日と同じじゃん。危ないから着るのやめたら」
枝葉の影が、白波の顔に落ちる。それから陽光が射し込んで、彼女はその眩しさに少しだけ目を細めた。かと思えば一気にそれを見開いて、拗ねたような口調になる。
「ダメですっ。これは四宮聡志がデザインしてくれた、私にとっては大切な大切なバーチャル着物です! これを脱ぐなんて、そんな……えっちなのは、いけませんっ」
「え、それっておじいちゃんがデザインしたの?」
「……たぶん。私にプレゼントしてくれたのがおじい様というだけで、本当は違う方がデザインしたのかもです」
「へぇー……。でも、なんで着物なんだろうね」
「うーん……忘れましたっ! 好みだと思います!」
着物がおじいちゃんの好み。……ということは、白波にはおじいちゃんの性癖が反映されているのだろうか。
──なんか嫌だ。
◇
「えっ、島の伝統工芸……ですか? 着物が?」
道端にある木陰で涼みながら、白波はしゃがんだまま目を丸くしてそう言った。片膝立ちで壁に背中を預けつつ、圭牙と凪はめいめいに頷く。ほとんど効果のない手扇の風でさえ、汗に触れると、やけに冷たく感じた。
散歩の途中にばったりと会ったついでに、二人におじいちゃんのことを訊ねてみた結果がこれだ。聞いたことがない話に、僕も思わず積極的になってしまう。白波の隣で同じようにしゃがみながら、二人に目配せした。
「この島で、織物やってたの?」
「んー、そう。今はこんなんやから稼働してないけど、昔っからこの島は絹織物と漁業で栄えてたんさ」
「あのジジイがわざわざヒューマノイドの衣装に着物を選ぶってこたぁ、そういう理由だろ。俺らも今まで気にしてなかったが、言われてみりゃ納得がいく」
「じゃあ私、島のマスコットですねっ」
マスコット……バーチャル・ヒューマノイドはマスコットになるのだろうか。そんなことを考えつつ、満面の笑みで僕を見つめる彼女に、ひとまず相槌を打っておく。白波が嬉しそうなら、別にそれでいいけどさ。
ひょいと立ち上がった凪が、腰に手を当てながら言う。
「ちっちゃいけど、呉服屋とか残っとるんよ。見に行く? 行くか! どうせ暇やもんな、顔見せに行くでっ。そんなら白波、はよ立ち! 夏月も! アンタもやっ」
「おぉう、積極的ですね……。マスターみたい……」
「ウチは変態ちゃうからなっ!?」
「待って、それはおかしい」
朝から妄想たくましいものだ。……いつものことか。
◇
彼女の言うお店とやらは、商店が見える高台の路地から、ガードレールの切れ目にある階段を降りて少しのところだった。昔ながらの屋根瓦で、この時代には不釣り合いにも思える木造建築、入口に掛けられた暖簾には、『簾田呉服店』と店名が染色されている。扉の傍らにちょこんと置かれている行燈が、どこか可愛らしい。
「おっちゃん、いるー?」
凪は合図もなしに木組みの格子戸を開けると、軽い態度で店内に入っていった。手招く彼女に案内されるまま、僕たちも続く。空調が効いているようで涼しい。
「わぁ……! 着物がいっぱいです……!」
中に入ると、さっそく棚に陳列された反物やら長着やらが目に飛び込んできた。女性物の振袖だの訪問着だのも、しっかりと展示されている。島がこんな状況でも、お店としてはやっているらしい。ちょっと、意外だ。
「……また寝てんな、あのジジイ」
さして広くない店内の隅に、後付けのようなレジカウンターがあった。初老に差し掛かった甚平姿のおじいさんが、椅子に座りながら、カウンターに突っ伏して寝ている。凪はそんな彼を見ると、呆れたような笑い顔で近くに歩み寄った。一気に息を吸い込んで、耳元で怒鳴る。
「おっちゃん、起きて! お客さんやで!」
「んん……? おー、羽城さんのとこの凪ちゃんか」
「なんか凪、お母さんみたいですね……」
「分かる。そういうところありそう」
おじいさんは手元に置いていた丸眼鏡をかけると、凪を見上げて大きく笑う。結構うるさい声だったけど、なんであんなに平然としていられるんだろう。すごい。
「相変わらず耳の遠いジジイだな……」
「お母さん、声が大きくて怖いですねぇ……」
おじいさんは僕たちの方に視線を遣ると、隠しもしない白髪頭を掻きながら、一人一人指さしていった。
「圭牙くんもいるんか。んで、見ない顔が二人……あぁ、こないだ来た子でしょ、四宮さんとこのお孫さんか。んで、もう一人のお嬢さんが……はぁ、着物か。いや待て、それ……お嬢さん、その着物はどこで買ったもんだい」
おじいさんは白波を見るなり立ち上がると、今まで寝ていたのが嘘のような速さで彼女に詰め寄った。反射的に僕の後ろへと隠れた白波に苦笑しつつ、答えを促す。また着物の裾を踏んで転びかけていたのは、ご愛嬌。
「え、えっと、その……私、バーチャル・ヒューマノイドですっ! なので、買ったとかそういうのではなくて! 前のマスターが……あの、四宮聡志が私に贈ってくれました! 買ったものでは、ないです……ごめんなさ──」
「──やっぱりそうだ! 見てすぐに分かった。これはね、僕が四宮さんに頼まれてデザインしたんだ。実際に仕立てたものをバーチャル化するとか言ってたが、はぁ、こういうことだったか……。いや、嬉しい嬉しい」
「……へ?」
気が良さそうに白波の肩を叩きながら、おじいさんは饒舌に語る。まさかこの人が、うちのおじいちゃんに依頼されて彼女の着物を仕立てた張本人とは……。いやまぁ、同じ島の人間なんだから、不思議ではないけど。
白波はそんな彼を相手に最初こそ困惑していたものの、自分が着ている着物をデザインした当人だと知るや否や、いつものような晴れやかな顔に戻る。床に顔をつける勢いでお辞儀すると、おじいさんを見上げて笑った。
「あっ、あの……その節はありがとうございました! 私、ドジでいっつも着物の裾とか踏んじゃうんですけど、これ、すごく愛着があって、すごく気に入ってます! とても大好きで大満足です! えへへっ……」
「やーやーやー、良かった良かった……。こんなに可愛い子に着られて僕も嬉しいねぇ……。死んでもええや」
「おっちゃん、ちょいセクハラ気味になっとるからな……? ヒューマノイドにセクハラはあかんよ。肩を叩くな、肌に触れるな、こーんな幼気な女の子に──あと死ぬんやったら身辺整理してから死んでくれへん?」
「あっはっは、相変わらず冗談が上手い子やなぁ」
この奔放さは、どこか白波に似ているな──と思いつつ、嬉しそうな顔で僕を見る彼女に頷き返す。さっきまで隠れていたのが嘘のように積極的になっていた。
「おっちゃん、着物っていくらくらいするんですか?」
「物によらぁね。お嬢さんのはこんくらい」
そう言って、指を二本、三本と出していく。恐らく桁は十万円単位だろう。二、三万は無理だよね……。明らかに動揺しながら、白波は自分の着物を眺め回していた。
「ひぇっ……そんなのを私は踏んでたんですか……!?」
「あーあー、バーチャルなら大丈夫。気にせんで。本物をずーっと引っかけたり汚したりしたら大変やが」
「バーチャル・ヒューマノイドで良かったです……」
胸を撫で下ろしている白波と、そこそこの金額になることを知って目を丸くしている凪、それを遠目に眺めながら、適当な甚平を持って買おうとしている圭牙が一人。いなくなったと思ったら、ひょっこり出てきた。
「ジジイ、これくれ。金は凪が払う」
「はい、税込み六三〇〇円、まいどあり」
「えっ、これウチが払うことになったんか……?」
あまりにも自然な精算に笑いながら、白波の方に視線を戻す。……あれ、いない、と思ったら、どうやら店内を物色しているらしい。どんな着物があるか見ているのだろうか。あ、その振袖はちょっと派手目かも……?
と思っていると、壁際の陳列棚のところで立ち止まっていた彼女に、ひょいひょいと手招きされた。
「マスター、これ見てくださいっ! すごいです!」
「うん……? わ、ほんとだ。すごいね……切り絵?」
「行燈みたいです! どうやって作ったんでしょう……」
彼女が立ち止まって指さしたのは、行燈だった。照明として、飾り棚のところに置かれている。ただよく見ると、普通の行燈ではなくて、どこか切り絵のように陰影が入っていた。白波みたいな和服姿の少女の絵らしい。
向こうで話している凪たちを他所に、おじいさんがこちらに歩いてくる。僕が覗き込んでいるそれに気が付くと、彼は一風変わった行燈について補足してくれた。
「あー、それはね、昔に本土から来たお客さんがくれたもんだよ。住んでんのが三重のあたりかなぁ……なんか、型紙アートみたいなのやっててね、切り絵とかこういう伝統工芸を出してるんだ。所用で一着だけ仕立てたことがあったんだけど、そのお礼に貰ったもんさ」
「へぇぇ……可愛いですね。私もこういうふうにやってもらいたいものです。もっと可愛くなれるかもですね!」
「今のままで充分に可愛いやろアンタは……」
「凪、それセクハラですよ……?」
「なんでやっ!」
◇
「おっちゃん、ありがとうございましたっ! また行きたくなったらみんなと一緒に行きますね!」
「はいはい、いつでも来な。待ってんよぉ」
──結局、暇を潰したいおじいさんのご好意で、今日はずっとここにいた。昼食は素麺、前に裏山で採ってきたらしい生姜を麺汁に浸しながら食べたのは、もう数時間前の記憶らしい。たまには人の家に厄介になって、みんなで過ごすのも、悪くないなと思った。
入口の暖簾をくぐって、もと来た道を帰る。
「今日はなんだか、楽しかったですねっ」
「そやね、素麺が美味かったくらいやな」
「あぁ、素麺は美味かった」
「え、おじいさんの話は?」
「あんなもん昔話や。昔っから聞いとる」
少しだけ涼しくなってきた潮風に吹かれながら、僕たちは横並びになって、アスファルトの上を歩いていく。凪の返事に苦笑する間もなく、すかさず圭牙が「んなのはどうでもいい。明日はサバゲーやるぞ」と言ってきた。
──夏休みがこれだけ楽しいのは、いつぶりだろう。