巨勢悠乃の仕事風景
「じゃあまず、基本中の基本のおさらいといきましょー。さて誰を当ててやろうかなー?」
教壇から生徒たちを見ると様々な反応が見て取れて面白い。あからさまに目を逸らす子。「私を当ててよ」と言わんばかりに真っ直ぐ見てくる子。居眠りしている子は起こしてやるが怒らない。授業を聞いてなくても後で友達に聞くなりして内容を理解できるというのなら別に構わない。時たま内職してる子もいるが、そいつは見つけ次第優先的に当てる。我ながら意地の悪いことだ。さすがにギャーギャー騒いで授業を妨害するヤツは叩き出すけど、幸いそんな悪い子はいままで出くわしたことがない。星花女子には基本、いい子しかいないのだ。
名簿に目をやる。この二年三組にはなぜか「犬橋」「犬井」「黒犬」と苗字に犬がつく生徒が三人もいる。でも三人のワンちゃんたちは前の授業で当てたばかりなのでスルーしよう。
気まぐれで三文字の苗字の生徒を選ぶことにした。このクラスには「小山田」「野々原」「日比川」「御神本(美)」と四人もいる。よし、出席番号の順で小山田さんにしよう。
「それじゃ小山田さん」
「はいっ」
「あ、座ったままでいいから」
立ち上がろうとした小山田さんを制して、「超基本的な問題出すよ」と言いつつ式を板書する。
2 3
― ÷ ―
5 4
「この問題解いてみて」
小山田さんは自分をバカにしてんのかと言いたげな苦笑いを浮かべて「15分の8です」と答えた。
「どうやって計算した?」
「4分の3をひっくり返して掛け算をしました」
「割り算は分母と分子をひっくり返して掛け算。確かにその通り。じゃあ、なんでひっくり返すのか説明できる?」
「それは、ええと……」
「うん。これ説明しろと言われてパッとできる人って意外といないんだよね。だけど理屈は超簡単だったりすんの」
私は5分の2の下に大きな線を引き、その下に4分の3を書いた。繁分数式というやつである。
「分数の分母と分子は同じ数字をかけても大きさは変わらないつーのは小学校でやったね? つーことで分母と分子に3分の4をかける。すると分母は1になってほら、15分の8が出てきた。見た目的にひっくり返して掛け算した格好になったよね」
小山田さんがハトの首のような動きでコクコクとうなずく。おお、と感心したような声もどこからかかすかに聞こえる。
「小学校で分数の割り算習うときにさ、この過程をちゃんと説明せずとにかくひっくり返して掛けろって教える先生がいるんだよね。そこで詰まって分数が苦手になっちゃって、中学高校と引きずって、最後には分数の計算ができない大学生になっちゃったりすんの。みんなは賢いからそうでもないだろうけど、でもひっくり返す理由をあまり考えたこともなかったって子は少なくないんじゃない?」
恥ずかしいことに私の母校にも分数ができない同期がいた。仮にも国立の教育大学なのに。そいつは中学の国語教師になったので学校で分数を教えることはまずないだろうが、もしも家庭を持って子どもが生まれていたら、自分の子どもにどうやって勉強を教えるのだろう。
「はい、分数の基本をおさらいしたところで。これからやる分数式は文字がたくさん出てくるけど、分数の基本さえしっかり抑えておけば何も怖がることはありません。ということで配った資料の十三ページ目を開いてくださーい」
*
放課後。
「お邪魔するよー」
「あ、巨勢先生。こんにちは」
高等部二年生の阿比野明がA4用紙一枚を机に広げて何か書き込みをしていた。
「部長さんどこ?」
「まだ来られてないです」
「そう。ところでそれ、星川クリーン作戦の計画書か」
「はい。今年は新入部員が多いのでたくさんゴミが拾えそうです」
私はボランティア部を担当する顧問でもある。入職した直後は情報部の顧問だったが、四年前にボランティア部を担当していた顧問が定年退職されたためその跡を継ぐ形で異動となった。
特にボランティアに熱心なわけじゃないが、顧問になったのは実は趣味の競馬のせいである。
乗馬部にクラノバーストという馬がいる。この馬、実は私に帯封をプレゼントしてくれた元競走馬であり私にとっての神馬なのだが、そのために思い入れがかなり強くて例え凡走を繰り返そうとも大金を夢見て彼の馬券を買い続けた。
だが結局大波乱の一勝で留まって引退となり、引退後は乗馬として引き取られることになっていたが、それは名目上のこと。実際は畜産業者に送られて処分されてしまうケースも多く、クラノバーストもその中の一頭になりかけていた。クラノバースト推しだった私はどうにか安寧の地を見つけてあげたいと思っていたが、ちょうど星花女子の馬術部が活動している牧場の馬房に空きがあるという情報を聞きつけて私は――あのときは若気の至りだったのか、何と恐れ多くも伊ヶ崎理事長にクラノバーストを引き取るよう直訴したのだった。後で校長にこっぴどく叱られたが、理事長は「検討しておくわ」とだけ言い残した。
後日、クラノバーストが牧場に入厩したという話が耳に届いた。理事長が本当に購入してくれたのだ。しかし私が言い出しっぺということで預託料の半分を払うことになり、加えて「馬一頭救ったんだからボランティア精神もありそうね」とわけのわからない理屈を突きつけられてボランティア部顧問にされてしまった、という流れである。
しかし私はともかく部員はボランティア活動に熱心なので、その子たちの想いを不意にすることはしまいとちゃんと顧問の仕事をやってはいる。
「例年の星川クリーン作戦後の歓迎会、今年は月見屋食堂でやらないの? 部長から歓迎会の内容を送られてたんだけど」
部長に聞こうとしていたことを、阿比野さんも知ってるかと思って聞いてみた。
「クリーン作戦の日に別の団体客が予約入れちゃってるんです。そもそも今年は新入部員が多くて座敷席に入り切らなくて」
「あーそう。そりゃ嬉しい悩みだ。だけど代わりの場所の中華料理屋、値段大丈夫か? 予算オーバーしない?」
「実は新入部員の実家がその店なんです。店を貸し切りにして安くしてくれるそうで。予算内に全然収まりますよ」
「それなら安心だ。上手くやったね」
ありがとうございます、と阿比野さんは丁寧に頭を下げた。
星花女子学園には実家が飲食店という生徒も多い。こっちの新任教職員歓迎会の会場「ガーデン朝倉」も一年三組の朝倉夏樹という生徒の実家だ。ただこっちは理事長が来るから、ボラ部歓迎会みたいに先輩後輩別け隔てなくというわけにはいくまい。
まあ、今更悩んだところでどうしようもない。理事長の機嫌を損ねないよう、綿式玲をちゃんと見ておかなくてはいけない。