十キロウォーキング
あの歓迎会からちょうど一週間後。私は本当に綿式玲と十キロ歩くことになってしまった。
「まずは準備体操からです! まずは肩を動かしてー!」
「ふあああ……」
あくびをしながら肩を上下に動かす。時刻はまだ午前七時になるかならないかといったところ。ウォーキングするなら朝が一番らしいが、普段の起床時間が七時過ぎの私にとっては早すぎる。早朝の気温はまだ肌寒く、どんよりとまでは行かないが曇り空だ。
「はいアキレス腱をしっかりと伸ばしましょう! いっちにっさんし! ごーろくしちはち!」
「いっちにっさんしーごーろくしちはち……と」
「はい足首も回してー!」
左右の足首をぐりぐりぐり、と。
「それじゃ出発しましょー!」
準備体操を終えた私たちは歩き出した。県道に出て、駅とは反対方向に向かう。
土曜日の朝は往来する車が少なく、人気も少ない。静かな環境の中をジャージ姿の女二人が歩く。
私の着るものといえばほとんどスーツかスウェットの二択だった。遊びに行くときの服も一応は持っているけれど、遠出でもしない限りは外出するときもスウェットだ。オシャレなんざ興味を持たなくなって久しく、私は干物女寸前になっていた。
ちょっと歩いただけでも汗が出てきたが、綿式玲は平然として息も整っている。
「ちなみにどこ行くの?」
「わかりません! 私の本能の赴くままです!」
「ええー……」
一応スマホは携帯しているが、歩きスマホになってしまうので時間を見ていない。だから肌感覚でしかないがだいたい半時間は経ったころだろう。
やがて私が一切行ったことがない地区に入っていった。この辺は特にこれといったランドマークがなく、少々古い家が目立つ住宅街である。
その中でまず目に飛び込んできたのはトタン作りの町工場。宝文チック(※)な古い書体で「(有)大谷鉄工」と書かれている看板は錆びていて、ひと目見ただけで私が生まれる前から建てられたものだとわかるほどだった。しかしまだ八時前、土曜日なのに溶接作業をしているのが外からでも見えた。
「今までよく潰れずに生き延びてきたなー」
「私に似て体力があるんですね!」
と、綿式玲が言うからつい笑ってしまった。
さらに進むと小さな墓地が見えた。その中にひときわ大きい墓碑が建っていたが、それは戦没者の慰霊碑だった。戦争の傷跡が残っているのを知る人は果たしてこの周りにどれぐらいいるだろうか。
住宅街の中心地に入っていくが、住民の姿はあまり見えなかった。それでも車は間断なく往来していて、それなのに道が狭いものだからその都度塀際まで避けなくてはいけなかった。
そうして坂道に差し掛かったところで、意外な物件を目にした。
「へー、こんなところに居酒屋があるんだ」
閑静な住宅街の中に「居酒屋 坂のそば」というそのまんまな店名の店があった。店の外観は新築一戸建てのようで、朝だから当然開いてはいなかったが出入り口には木製の看板が掲げられ、おすすめメニューが書かれたボードが置かれていた。海谷港直送の魚を使った刺し身がウリらしく、値段も少々安い。隠れた名店の予感がする。
「ふーん、今度行ってみようかな」
「そのときは私も連れて行ってください! あ、ポマードの先生抜きで!」
「あはは、誰が誘うんだよ」
歓迎会で綿式玲がゲボした原因を作ったポマードたっぷりの教師とは担当学年が違うし今まで会話らしい会話もしたことがないし、仲良くなりたいとも思わなかった。
しかしこうして歩いてみると、意外な発見があるものだ。綿式玲は先週「今まで見過ごしていた風景を再発見しながら歩くのは楽しい」と言っていたが、その気持ちが今このときよく理解できた。
「さあ、坂道行きますよー!」
坂道を見るとなかなか急角度で、しかも長い。だけど足は自然と坂道の方へと進んでいた。よし、とことん歩いてやろうじゃないの。
*
「つかれたー!」
教員寮まで戻ってきた頃には、早朝の曇り空がウソのように紺碧の空が広がっていた。
「十キロお疲れ様でした!」
綿式玲のスマホにはウォーキングアプリがインストールされていて、そこに映し出された歩行距離は「10.14km」だった。若干オーバーしているが目標達成である。まさか歩ききれるとは思っていなかったが。
「どうでしたか!」
「いやー、結構気持ちいいなこれは」
心地よい疲れを感じたのはいつ以来だろう。明日は足がパンパンになるだろうが、達成感が勝っていて明日のことなんざどうでも良くなっていた。
「いい汗かいた。シャワー浴びよう」
「はいっ!」
部屋に戻って、先に綿式玲からシャワーを浴びさせようとしたが、
「一緒に入りましょう!」
「はあ!?」
「いや、私たち一度裸の付き合いをした仲でしょう!」
「ちょ、声が大きいって!」
これで何回目だよ、注意するの。
「教員寮は防音効いてないんだよ。頼むから声抑えてくれ」
「はいっ! でもご一緒してください!」
「しょうがねーなあ……」
そういうわけで二人して風呂場に向かい、服を脱いだ。
「うお……」
綿式玲の生まれたままの姿を見るのは初めてではない。だが頭がまともに働いている状態で改めて肉体を見ると、足だけでなく全身が鍛えられているのがわかる。無駄なお肉がついてきた私とは大違いだ。
私の中で色欲が湧いて出てこようとしているのがわかる。これはまずい。
「は、早く済まそうか」
風呂場の中に入った途端、なんと綿式玲が密着してきた。
「うおっ!?」
風呂場は一人での利用を想定した広さとはいえ、体をくっつけなきゃいけないほど狭いものではない。
「先生を見たらムラッときてしまいました! もう我慢できません!」
「あ?」
それからしばらくの間、シャワーの水音と、くぐもった嬌声が風呂場を包んでいた。