昨日の出来事
「昨日はとんだご迷惑をおかけしました!」
スズメの鳴き声をBGMに、日曜の朝は綿式玲の全裸土下座謝罪から始まった。二日酔いで頭が痛い。
「……とりあえず、これまでの状況を説明して貰えるかな、わかる範囲でかまわないから」
「はい! 私、あんまり酔っていなかったんですけど、あの先生の頭を嗅いでしまった途端に一気に気分が悪くなってゲボしてしまいました!」
あの男性教師は普段からポマードをたっぷり頭につけていて、匂いのきつさに生徒から苦情が出ているほどだった。あの人が酔っぱらって倒れ込んだときに、綿式玲の鼻があの人の頭に近づいていたのをうっすらと思い出した。あんなゼロ距離で匂いを嗅いだら気分が悪くなって当然だ。
「で、その後は?」
「はい! 危ないからもう帰れと言われました! 歩いて帰るつもりだったのに巨勢先生に無理やりタクシーに乗せられました!」
「あっ、そうだそうだ。家まで帰れるかどうかわかんなかったし、服も汚れてたから私の部屋に泊めることにしたんだった……」
断片的ではあるものの少しずつ思い出してきた。当然、タクシー代は私が負担した。いくら使ったかは全くわからないが痛い出費だ。でも電車を使っていたら、ゲボで汚れた姿を公衆に晒すことになっていたからこれで良かったかもしれない。
ふと部屋を見渡すと、綿式玲の服と下着が部屋干しされていた。
「で、洗濯して風呂入れてそのまま寝たんだな、きっと。で、なぜ私までマッパなんだ……?」
春はいつもスウェットを着て寝ているのだが。
まだ酔いが覚めきっていないのか、顔色が良くなかった綿式玲だったが、急に頬に赤みがさした。
「巨勢先生、全く覚えていないのですか? あの熱いひとときを!」
「…………はい?」
「まず、一緒にお風呂入りました!」
「一緒に!?」
またもやうっすらと思い出した。確かに一緒だった。めんどくせえから一緒に入っちまうか、って言ってた気もする……。
「それからお風呂の中で恋バナしました!」
頭がますます痛くなってきた。
「ああ、したようなしてないような……私そんときに何て言ってた?」
「男女問わずたくさんつきあったけど、どれも半年以上持たなかったって嘆いてました!」
ああ、これは全部しゃべっちゃってるな……。
「それから?」
「は、はいっ! そのっ……女どうしもいいぞと言って私の体を」
「ちょっ、ストップストップ!」
ズキズキ痛む頭を振り絞って記憶の糸を手繰り寄せる。その中に、布団の上で綿式玲に覆いかぶさっていた光景があった。そのときの綿式玲は蕩けた顔つきをしていた。
「う、うわ……何てことをしてしまったんだ……」
教員寮では異性同性問わず連れ込んでアレしちゃいけないなんて寮則はないが、モラルとしては非常によろしくない。しかも相手は自分が教育を担当している後輩。周りが見たら立場を利用したとも思われかねない。
うう、頭がめっちゃ痛い……。
「大丈夫です! 声を漏らさないよう腕噛んでましたから!」
「わっ、声が大きい!」
私は手のひらで綿式玲の口を押さえた。その状態でも綿式玲はモゴモゴと口を動かす。
「すみません! だけど気持ちよかったです! 新しい世界が開けましたような気がします!」
信じられないほど、あっけらかんとしていた。私が「女どうしもいいぞ」って言っていたとなると多分ノンケなのだろうが、ノンケ相手に手を出すのは私のポリシーに反する。それなのになぜ手を出したのか。酒が入ったせいでタガが外れてしまったのだろうか……。
「とりあえず、服着て朝飯でも買いに行こうか。奢るわ」
「ありがとうございます!」
とりあえず服を着ないと。私のスウェットはゴミ袋の上に乗っかっていた。いい加減ゴミ出さないといけないが、しかしよくこんな汚部屋に客を入れたもんだな。
*
スウェットとジャージの女二人がニアマートに入ると、教え子たちに出くわしてしまった。根本と安田という、我が二年四組の生徒で二人とも美術部に所属していた。
「あっ、悠乃先生と綿式先生おはようございます!」
「お、おう、おはよー」
「おはようございます!!」
綿式玲のあいさつが一番大きかった。店内だからもう少し声を抑えてほしい。
「制服なんか着ちゃって、美術部って日曜も部活あんの?」
「今日は美術館まで鑑賞会に行くんですよ」
と、根本が答えると、
「先生たちこそ二人揃って何してるんです? めっちゃラフな格好で」
と、安田が聞いてきた。
「学校周辺の見回りしてんの。ねえ綿式先生?」
私は教え子たちに嘘をついた。担任と副担任が休日の朝から一緒にご飯を買いに行ったなんて知れたら、尾ひれがついて変な噂になりかねない。他人様の色事に耳聡いのが多いし。
「はいっ!」
綿式玲がちゃんと合わせてくれた。エライエライ。
「日曜日でも大変ですね」
「治安を守るのも教師の役目だよ。ねえ綿式先生?」
「はいっ!」
根本と安田は元気の良すぎる返事に気圧されたのか、苦笑しながら後ずさりした。それでもどうにかごまかせたようだ。二人が退店してから、私はカツサンドとコーヒーを買ったが、綿式玲はおにぎり五個にカロリーブロックにスポーツドリンクと、私の懐事情を一切無視して大量に買い込んだ。
「そんなに入んの……?」
「朝食はたっぷり食べます! でないとエネルギーが足りません! これから歩いて帰るからなおさらです!」
「綿式先生さ、マジで家から歩きで通勤してるの?」
「はいっ!!」
「橋立市の西端から?」
「その通りですっ!!」
そこまでは車でも渋滞がなくてもだいたい三、四十分かかる。歩きなら六、七時間といったところで、日付が変わったぐらいのタイミングで出発しないと間に合わない。私は信じなかったが、綿式玲の目は曇り一つない輝きでウソをついているとも思えなかった。
とりあえずイートインスペースで朝食を摂ったが、綿式玲はおにぎり五個をあっという間に平らげてしまった。カロリーブロックは帰る途中で食べるらしい。
「ごちそうさまでした! それではこの辺で失礼します!」
「え、もう帰るの?」
「明日がありますから! 巨勢先生、お世話になりました! 今度は私の奢りでデートしましょう!」
「ちょ、声が大きいって!」
店員さんにギロリと睨まれて、私は「すみません」と頭を下げた。
「まあ、今度暇なとき頼むよ」
社交辞令として受け流すことにした。
「それでは、お疲れさまでした!」
綿式玲は敬礼ポーズをすると、腕を大きく振り上げて歩き出した。
そのスピードは尋常ではなかった。道路の右側を走っていたマナー違反の自転車を、綿式玲は歩いて追い越した。自転車に乗っていた人は悲鳴を上げ、急ブレーキをかけたせいで転びそうになった。
私はつい走って追いかけたが、信じられないことに私の走る速度よりも向こうの歩く速度の方が上だったのだ。最近運動不足になっている身と現役バリバリの体育教師というハンデ差を考慮しても異常な速度だ。
綿式玲の姿はあっと言う間に見えなくなってしまった。ちょっと走っただけでゼーゼーと息を切らす私。何と情けない。
「あれ、マジモンだわ……」
大学時代は散歩同好会にいたということを思い出したが、歩きぶりは同好の域ではなく、もはや競歩選手のそれであった