同行二人 結願
八十七番目札所、不動明王堂を参った頃には午後十一時半を回っていた。後は縁楼寺のみで国道を道なりに歩けばゴールだ。
ちなみに今日の昼飯と夕飯は一切口にしてない。遅れを取り戻すため、食事の時間を惜しんでの強行軍だったからだ。そこまでしても日付をまたぐ頃までにたどり着けるかどうかは微妙といったところ。
ただ真っ直ぐ歩くだけだが、この空の宮市は日本一の高さを誇る霊峰のふもとにあるため、縁楼寺のある霊峰方面への道は緩やかな上り坂になっている。それでも普段歩くには何とも思わないのだが、ほぼ休息無しの上にこの三日間で蓄積された足へのダメージがボディブローのように効きだして、履いているわらじが鉛でできた靴かと思うほどに足取りが重くなっていた。
「さあ先生! あともうちょっとですよ!」
「お、おう……」
これが某24時間番組だったらテーマ曲が流れ出してスタジオの芸能人たちが涙する場面だろう。しかし今の私たちを迎えるのはわずかな街灯の光と、赤と黄の点滅信号と、どこからか聞こえてくる犬の遠吠えだけ。
それでもいまだ元気の尽きない綿式玲の励ましを心の金剛杖として、私は懸命に足を動かした。
そしてようやく終わりのときが来た。「1km先 縁楼寺」の案内看板を目にして、最後の気力を振り絞る。最初は生徒に見られたくなかったこの白衣姿を、今は生徒たちに見せてやりたかった。巨勢先生と綿式先生は頑張ったぞ、と。
午後十一時五十八分。日付が変わる直前で、私たちはついに八十八番札所、縁楼寺の山門にたどり着いた。
「や、やったぞ……!」
「やりましたね!」
闇夜の中、私たちのスマホのライトで照らし出された縁楼寺の山門は異様に大きく見えた。山門は二十四時間開放されていて夜中でも境内は自由に出入りできるようだが、深夜に好き好んでお寺に行く人は肝試し目的以外ではまずいないだろう。
「しかしいくら山門が開いてるからってこの時間はどうだろう……朝まで待った方がいいか?」
「この近くにホテルらしいところはないし、野宿確定ですね!」
その心配はありませんぞ、と後ろでしわがれた声がした。
振り返ると、しわにまみれた不気味な笑顔が青白い光の中にぼうっと浮かび上がっていて……。
「ひぎゃああああ!!!!」
私は絶句して腰を抜かしたが、綿式玲はとんでもない悲鳴を上げて私に抱きついた。
「ほっほっほっ、驚かせてすみませぬな」
落ち着いて見ると、その人物は懐中電灯で自分の顔の下を照らしているだけであった。老人の男で、僧衣を着込んでいる。
「よくぞここまでたどり着かれましたな。松山寺から話は聞いておりますぞ」
「もしかして……」
「そう、わしが縁楼寺の住職ですじゃ」
自己紹介を聞いた途端に老人、もとい縁楼寺住職の笑顔が仏様のように見えてきた。しかし何で今夜来るってわかったんだろう。
「そこの前髪ぱっつんの方、何で今夜来るのがわかったのかって言いたげですな?」
「ぎくっ」
心を読まれた? まさか……。
「全てはお大師さまが教えてくださるのですじゃよ」
態度が無意識に顔に出ていたのを悟られただけだ、と思い込むことにした。綿式玲は私の白衣の裾を掴んだままだったが、それを見た住職が「怖がらんでもいい、さあ、中に入りなさい」と、優しく言うのだった。
住職に導かれ、恐る恐る山門をくぐる。境内は松山寺よりもかなり広く、住職の懐中電灯と私たちのスマホのライトの光量を合わせても、真夜中の人気のないお寺独特の不気味さを打ち消すことは敵わない。
松山寺と縁楼寺だけは本堂と大師堂、二ヶ所をお参りしてそれぞれに納札することになっている。まず本堂にお参りしたが、私たちのために住職が用意してくれたのか、祀られている大日如来像が淡い照明を受けて浮かび上がっていた。うっすらと映る程度の明るさのはずなのに、神々しく見えた。
私は綿式玲と一緒に、神妙に、一所懸命に願った。
そして大師堂。空海八十八ヶ所の参りの総仕上げだ。住職に見守られながら納札箱に最後の納札を入れ、丁寧に御宝号を三度唱えた。
「うむ、しかと見届けましたぞ。さあ、あなた方がたどってきた軌跡を見せてくだされ」
私たちはスマホの、八十七ヶ所を撮影した画像を順番に見せた。
「おお、確かに全ての札所を参られていますな。これにて空海八十八ヶ所、結願でございます。いやはや、ご苦労さまでした」
「よっしゃあ! やったぞー!」
「やりましたね!」
私たちは抱き合った。汗臭さなんぞ気にならなかった。長いようで短く、短いようで長い三日間の巡礼が終わった瞬間である。本家本元の四国八十八ヶ所参りと比べると遥かにスケールが小さいが、達成感は今までに味わったことがないほど大きく、自然と熱いものが両眼から溢れてきた。
「ここには小さいですが宿坊がございます。そこでゆっくりとお休みくだされ」
宿坊は普段一般参拝客に公開されていないが、今回は特別に泊めてもらえるとのことだった。まずはシャワーで汗を流す。風呂場は星花の教員寮のよりも小さめで、横着して二人一緒に入ったらおしくらまんじゅう状態になった。
そういえば綿式玲が新人歓迎会で粗相した後、教員寮に連れ込んで一緒に風呂入ったんだよな。私も泥酔してたのであんまり覚えていないが、おそらくムラっときてこいつと……こいつ、いい体してるしな。
しかし今は疲労が積み重なっているためか、はたまた巡礼によって煩悩が消えてしまったのか、綿式玲の鍛え上げられた肉体を見ても何とも思わない。ササッと頭と体を洗って風呂場を出た。
部屋は八畳で、すでに布団が敷かれている。隅に置かれたちゃぶ台の上には皿があり、おにぎりとたくあんが乗っかっていた。
「ああ、住職が用意してくれたんだな」
「ありがたやありがたや~」
私たちは合掌して頂くことにした。寝る前の食事は体に良くないが、そんなことは言っていられない。口にしたら涅槃に行きかけるほど美味かった。一日目に食べたカレーライス、二日目に食べたカツオのたたきに匹敵する程の美味だった。
「ふー、ごちそうさん。さあ、歯磨いて寝よう。明日も歩いて帰らなきゃいけないからな」
「えっ! 電車使わないんですか! 私につきあってくれるんですか!」
「もうここまで来たらとことん歩いてやんよ」
「嬉しい!」
綿式玲がかなり強い力で抱きついてきた。
「ちょ、苦しいからもうちょい……」
「あのね先生、私いままで五人の男とつきあってきたんですけど、みんな一回お散歩(傍点)しただけで別れてしまったんです」
私の訴えを無視して、いきなり自分語りを始める綿式玲。しかし男絡みの話は今まで何度も聞かされていたから覚えている。お散歩に耐えられるのが一人でもいたらまた違った人生を歩んでいたかもしれない。
「だけど悠乃先生が初めてですよ。五年間もお散歩につきあってくれて、しかもこのスペシャルコースも一緒に歩ききって、それでもまた一緒に……」
「おうおう、えらくしんみりして。お前らしくないぞ」
綿式玲が顔を放して、私をしっかりと見据えてきた。
「悠乃先生、もう言っちゃいます! 私の願い事はですね!」
「私と一緒になりたい、か?」
「ファッ!?」
なんちゅう声を出すんだ。
「な、何でわかったんですか!」
「んー、なんとなくな。じゃあここで質問。私の願い事を当ててみな」
「もしかして、私と同じ……?」
「お前の願い事が叶うように、だ。でも、正解ということにしてやろう」
「それってつまり……」
「おう、よろしくな。綿式玲」
「……びええええんっ!!」
綿式玲の目から涙が噴出して、面白いなあなんて呑気に構えてたら一瞬で押し倒されてキスされていた。おにぎりの中に入っていた昆布の味が広がった。さらに舌入れてこようとしやがったから、あわてて突き飛ばした。
「おいっ、ここお寺だぞ!」
「すみません! つい煩悩が出ました!」
「はあ……とりあえず、今は体を休めような」
私はおでこにキスをしてやった。そしたら綿式玲のヤツ、術にかかったみたいにコテンと横になって、そのまま寝息をかきだした。
「本当に世話が焼けるなあ、こいつは」
私は布団をかぶせてやり、その中に潜りこんで目を閉じた。
クーラーが効きすぎてキンキンに冷えた部屋の中で、綿式玲の温もりは心地よかった。