お接待
老人の言う通り、家は地蔵堂から百メートルも離れていなかった。見た目は年季が入っている家だがかなり大きく、トタン造りの小屋が隣接している。
老人の名前は花田といい、この遠井地区の自治会長とのことだった。現在は奥さんと二人暮らしで、息子は結婚後に海谷市の中心部に移住し、今は孫も成人して独立しているという。
花田夫人は私たちの事情を聞くと、嫌な顔ひとつせず私たちに風呂を貸してくれて、グショクショになった白衣と下着を洗濯してくれた。ちょうど夕食前に押しかけて大きな迷惑をかけてしまったのに、まことに恐縮の極みだ。
夫人が夕食を作っている間、花田さんと雑談していたのだが、
「星花女子学園の先生とな!? は~、これも何かの縁じゃろうの~……」
「縁?」
「実は息子の嫁が昔、星花女子に通っとったんじゃよ」
私たちは「おお」と同時に感嘆の声を上げた。
「もう三十五年ぐらい前かのう。息子の嫁の実家は建設会社でな、海谷駅前の再開発事業でガッポガッポ儲けとったいわゆる成金のお嬢様なんじゃが、それを息子が美味いこと射止めてなあ。嫁が卒業すると同時に結婚したんじゃ」
綿式玲が「チョー早いですね!」ってバカでかい声で言うから、花田さんに見えないように綿式玲の足を軽く踏んづけて注意した。花田さんは「早いじゃろ!」と乗ってくれたが。
三十五年前だとちょうどバブル期あたりか、あの頃にはすでに女は家庭に入るものという考えは古いとみなされていたはずだが、お嬢様学校たる星花女子学園では当時でも卒業してすぐに結婚し家庭に入る生徒がいまだにいたと聞く。今じゃ全く考えられない。
「しかしこの前テレビで星花女子の特集やっとったが、息子の嫁が『私のいた頃と全然違う』って驚いとったな。今はもう家柄だけじゃ入れんのだとか」
「時代の変化に適応した結果ですね。私たちはちょうどその過渡期に教師になりましたけどまあ……いろいろ大変でしたよ」
と苦笑いした。新人教師の頃は天寿派の教師と旧経営陣派の教師の諍いに何度か巻き込まれて嫌な思いをして、旧経営陣派は次々と粛清されて、その入れ替わりで綿式玲が入ってきて。いろんなことを思い出したが、「いろいろ大変でした」の一言でまとめたのだった。
やがて、お待ちかねの夕食が出てきた。
「たくさん歩いてお腹空いたでしょ、たんとおあがりなさいな」
テーブルに乗った数々の料理の中で、目を引いたのがカツオのたたきだった。量は豊富だし、赤身は鮮やかなワインレッド。玉ねぎと青ねぎの盛り付けも巧みですごく美味しそうに見える。
「ささ、まず一杯どうぞ」
花田さんが「酔鯨」というラベルの一升瓶を掲げた。高知の銘酒だ。ん? カツオのたたきも高知の郷土料理だから……
「もしかして高知に何かしらご縁が?」
「妻の故郷じゃ。実はわしも昔お遍路に何度か行ったことがあってな、高知の善根宿のお接待を受けた折に妻と知り合ったんじゃよ」
四国にはお接待という、お遍路さんに食事や宿を提供する風習がある。花田夫人の実家は高知にあり、善根宿という無料の宿泊所を営んでいた。花田さんは夫人に一目惚れして、お遍路のたびに彼女目当てで善根宿を訪れていたそうだ。煩悩まみれで弘法大師さまも呆れとったじゃろうと花田さんは豪快に笑ったが、弘法大師のお導きだったのかめでたく夫人と結ばれることになり、海谷市に一緒に暮らしはじめて今に至る。
「最初、空海八十八ヶ所参りは盛り上がると思うとったんじゃがの」
花田さんはご高齢にも関わらず酔鯨をこれでもかとあおる。
「最初はあんたらのような巡礼者もおったんじゃ。じゃが町おこしなどという俗な目的でやるのはけしからんといろんな人間が言い出してなあ。それで一気に冷めてしもうた」
「町おこしは宗教が絡むと難しいと思いますよ」
香ばしいカツオのたたき、酔鯨のキレのある辛口を味わいつつ、花田さんと話を楽しむ。一方で酒で何度も失敗している綿式玲もちゃんと見張っておく。顔は赤いがいつぞやな歓迎会みたいに無茶飲みはしていない。
「ところで何の目的で巡礼をやっとるんじゃ? 差し支えなければ教えてくれんかのう」
私は言葉に詰まる。綿式玲が一緒に歩きたいと言うからつきあってやった、という程度の理由でしかないのだが、花田さんは多分女二人がお遍路さんの姿で巡礼しているぐらいだから、もっと高尚な理由があるのだろうと考えているかもしれない。
「はい! 願いごとを叶えるためです!」
綿式玲が答えた。
「願いごととな?」
「内容は明かせませんが、私たちにとっては大事な願いです!」
花田さんが私の顔を覗き込んでくる。綿式玲の発言の真意は知らない。だがこのとき、こいつの瞳の中は燃え盛る炎のように輝いていた。
「そ、そうです。願いごとがありましてね」
私は話を合わせた。すると花田さんの両目からいきなり、外の土砂降りの雨みたいに涙がドバっと溢れ出した。
「そ、そのためにわざわざ長い距離を歩いてきなすったのか……なんという心がけじゃ……うう~」
「は、花田さん?」
「失礼。ジジイになると涙腺がゆるゆるになってしもうていかん」
花田さんは夫人からティッシュを貰って涙を拭い取ると、酔鯨を手酌でコップになみなみと注いで、一気に飲み干した。
「あああ、そんなに飲んだら……」
「がははは! わしゃこれでも海道一のザルと呼ばれているんじゃ。このぐらい水じゃよ! さあさあ、あんたらも飲まんか! 明日の景気づけじゃ!」
「そうですね、飲みましょう!」
「飲みましょー!」
疲れはとっくに吹き飛んでいた。
*
だいぶ飲んだはずなのに、酩酊感は程よかった。息子さんが使っていた部屋をお借りして、夫人が敷いてくれた布団の上にごろりと寝転がって柔らかい寝心地を堪能する。
「あー、飲んだ飲んだ。明日早起きできるかなあ」
「明日のことは明日考えましょう!」
「その通りだ。さあ寝ちまおう」
綿式玲が明かりを消す。寝ちまおうと言ったものの、まだお互いすぐに眠りにはつかない。
「なあ、願いごとって何?」
「内緒です!」
ソッコーで答えやがった。もうちょいもったいぶれよと思う。
「まっ、だいたい想像はつくけどな」
「じゃあ、何だと思いますか?」
「内緒です!」
綿式玲の声真似をして答えてやったら、「いじわる!」って抗議の声が飛んできた。そして間髪入れずに寝息が。こいつ、のび太みたいに寝るの早いんだよなあ。
「おやすみぐらい言えっての」
頬をペチンと叩いたら「んあ」と間抜けた可愛い声を出した。