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第二章 王からくだされるもの (2)

 森を抜け、小さな丘を越え、回廊に通じる扉まで戻る頃には、エプィヌは久しぶりの空腹に襲われていた。ヨークを発って丸三日の間、ノルドや御者とともに、宿場町に立ち寄って食事を摂ってはいたものの、どんなに珍しいものを口にしても、博士を失った失意や、これからへの緊張のために、全くと言っていいほど味がしなかった。食べ物が喉から腹へと滑り落ち、そこからじんわりと体温が上がるのを感じるまでは、何かを食べた実感すら湧かなかったほどだ。

(思えば、あの山賊焼(ボルカ・テーレ)なんて、すごく美味しそうだったのに……)

 日の眠るところ(アッティ・リンズ)の山麓一帯の郷土料理で、山鳥の肉のぶつ切りを多種の香辛料、岩塩で味付けし、製粉した小麦、稗、粟などのころもをまぶして揚げたものを、なぜか山賊焼(ボルカ・テーレ)というらしい。香辛料の種類や、ころもに使用する穀物の配分の違いに地域差が出るのだと、宿屋の主人が得意そうに語っていた。ノルド曰く、料理の評判が街道一との呼び声も高い宿屋らしかったが、その味を一つも思い出せないのは、とても残念だった。

(でも、お腹が空くほど……)

 博士の死から一月以上経って、ユディトたちと交わり、少しずつ、地に落ちていた気分に光が差して来たということだろう。

 ヨークは、王都エンドラッドより百グラードル(長さの単位、一グラードルは竜の成体を表し、約十メートル)ほど標高が高い。荒地の先には切り立った岩壁ーー異端の碑壁(ラクァン・ロッ)があり、幼い頃はそこが世界の最果てなのだと思い込んでいたものだった。昔々、王都の魔狩り(フィキル)を逃れて日の眠るところ(アッティ・リンズ)を越え、隠れ住んだ一族があったという。丘の人(ベルグフォルク)の説話には夢が詰まっていて、エプィヌは、いつかその地を踏んでみたいと憧れていたが、このような形で叶うことになろうとは、思いもよらなかった。

 博士の死は、突然降りかかった、実感のない悪夢だった。なにしろ、二人の生活で医術師にかかったことなど、エプィヌがほんの幼い頃に高熱を出した時くらいで、博士は、風邪も知らないくらい頑丈な身体を持っているはずだったのだ。ーーそんな博士が、冬も終わりのある朝、書斎から上がって来ないまま、机に俯して冷たくなっていた……。

 博士と二人の暮らしだったエプィヌは、未だかつて、人の死というものに触れたことがなかった。丘の人(ベルグフォルク)の厳かな葬送の列が、ヴィーヴェランの丘の麓を取り巻き、風葬地の前の石塔に供物をしているのを年に数回見かけることはあったが、それは、透明な絹の帷を一枚隔てた、どこか遠くの世界の出来事のように感じていたのだった。

 八つの時だったと思う。育てていた管狐(オコジョ)の子が、ある日突然冷たくなっていたのを、博士はエプィヌに「命の炎が燃え尽きたのだ」と教えてくれたことがあった。だから、同じことが起こったのだと、咄嗟に判断できただけで、その他のことは何一つ分からなかった。ただ淡々と、博士が今際の際に書き残したと思われる書き置きに従って火葬をし、壺に骨を納めた。ユディトからの文が届いたのは、それから半月の後だった。見知らぬ人物からの申し出には、もちろん戸惑ったものの、博士の遺した研究を続けていくためには、学ぶ手立てを得なければならないと、エプィヌは自然と分かっていた。返信の書簡を胸に抱いて、パーバディンの街の郵便屋まで降りて行った日が、まるで昨日のようだった。

 今まで振り返る暇もなかったが、こうして立ち止まってみると、目まぐるしい日々を送ってきたものだと、エプィヌは思った。これから入舎試験も待っているし、与えられた部屋の片付けもしなければならない。新しい生活が落ち着くには、まだしばらくかかりそうだが、忙しくしている方が、元気のためには良いのかもしれなかった。

 回廊を行くと、ある地点から、明らかに昼餉の良い匂いが漂い始めた。

(これは……)

「お、山賊焼(ボルカ・テーレ)か」

 ルチーフェロが呟くと、その傍でラーギニールがこくりと頷く。二人とも、心なしかそわそわしているように見えて、なんだか可笑しかった。

 方向音痴の気があるエプィヌは、邸宅に入って最初に驚いた玄関の広間を目にしてようやく、回廊をぐるりと一周して、元の場所に戻ってきたことに気が付いた。

 三人の姿を見とめると、ノルドが礼をしながら壁際まで後退った。それを合図に、玄関正面に切られた大きな両開きの扉が内側に開かれる。

 そこは、淡い光に包まれた不思議な空間だった。エプィヌはまず、その装飾の美しさに驚いた。昼間のため、頭上に居並ぶ灯燭に火は入っていないが、夜になって全てに明かりが灯ると、どんなに綺麗だろうと思われた。それも、この空間は石造りではなく、壁も天井も、四方八方全てが、色とりどりの硝子の小片を寄せ合わせた、繊細な図像で覆われているのだ。ここに入った時に青いと感じたのは、その装飾のせいだった。また、中央には、見たこともないような大きな食卓が延々続いている。よく見ると、それは巨木を縦に切った立派な一枚板であり、これでもかというほど磨き上げられ、鏡の代わりになりそうな輝きようだった。その最果てには女主人のユディトがすでに座しており、エプィヌたちを悠然と待ち構えている。

「待ちくたびれたわよ。さあ、三人とも早く席にお座りなさいな」

 彼女の前には空席が三つあり、そのうちの最も下手が、エプィヌにあてがわれる席なのだと思われる。しかし、想定はしていたことではあるが、まだまだ見たことのない顔ぶれが食卓を囲んでいたので、溶けかけていた緊張がぶり返して、それどころではなかった。博士ほどの年頃の男が二人に、それぞれの妻と思しき女人らと、他にも若者と娘が着席し、こちらを見ている。その表情は様々だった。瞳に驚きの色を湛えている者、興味深そうにしている者、何を考えているか読めない者……。

「急に人が増えて驚いたでしょう。後で紹介するから、気にせずお座りなさい」

 ユディトは、彼女の左側に二つある空席の方を指し示すと、笑って手招きをした。しかし、エプィヌは足がすくんだようになって、すぐには動けなかった。

「遠慮しなくていいんだぞ」

 ルチーフェロは、すでに自らの椅子に落ち着いてくつろいでいる。彼がこの家の主人と言われれば疑わないほどの自由さだ。一方、ラーギニールはこちらが座るのを、気を遣って待っているようだった。順番やら何やらを気にするより、ぐずぐずしている方が迷惑なのだと察したエプィヌは、ぎくしゃくと手足を動かして、なんとか、ノルドが引いた椅子に腰掛けた。

「みんなそろったわね」

 ユディトがそう言うと、傍に控えるノルドが手を叩いた。何の合図だろうと思っているうちに、一様の白いチュニックを纏った若い下僕が三人、銀色の長い配膳台を押して現れた。彼らはこぞって、ルチーフェロの美貌に引けを取らないほどの、長身かつ整った容姿をしている。貴族の家に勤める家人にはそれぞれ階級があり、客の応対をする下僕の美醜は家の格に直結するのだと、博士の持っていた王都の歴史の書物で読んだことがある。エプィヌは、ユディトやルチーフェロ、ラーギニール以下、もちろん配膳をする下僕たちも含め、こんなに美しい人々を見たことがなかった。王都でも最上級のラウル家のことだ。エプィヌの主観でそう感じるというだけでなく、王国の美の価値観が、きっとこういうものなのだろう。

 下僕たちは、女主人の前から順に、鏡のように磨かれた食器を静かに並べて行く。エプィヌは、誰かに食事を運んでもらうなど初めてで、ラウル家の者たちのように、世話をしてくれる彼らを、近くを吹き抜けるそよ風のように感じることなどできなかった。

「食事を始める前に、紹介しましょう」

 ユディトが口を開くと、食卓を囲む皆が一斉に注目した。いくつもの眼差しに串刺しにされ、エプィヌは気が気ではなかった。一挙一動が吟味されている感覚は、とてもではないが、耐え難いものだ。できることならば、すぐにでも森の奥に逃げ出して、隠れてしまいたかった。

「この子は、わたくしの旧友の子で、エプィヌというのよ。身寄りがなくなったので引き取ったの。王都も初めてだから、良くしてあげて」

 そっと促され、憂鬱になりながらも、今日何度目かの挨拶をする。

「ヨークはヴィーヴェランのエプィヌと申します」

 声は、やはり少し震えていただろう。しかし、氏のないエプィヌの名乗りが与えた衝撃は、そんなことを意識にのぼらせないほど強かったらしい。人々は目に見えてたじろいだ。

「なんと……」

 声を上げたのは、一番手前に座っている男だった。白いものが混じり始めた灰色の髪を後ろに流し、その下にきりりとした太い眉が一文字に引かれている。生真面目で厳格そうな印象だ。彼は、言葉の続きを飲み込んだが、エプィヌの出自について不満を抱いていることは明らかだった。

(それもそうよね)

 そもそもの身分が違うのだから、歓迎ばかりではないのも当然だ。しかも、得体も知れない容姿までしている。頭では分かっていても、そういう素振りを見てしまうと、より深刻に、場違な自分の存在を意識してしまう。

「バラク、あなたの思うことも最もよね」

 ユディトは、険しい顔付きで黙り込んだ男に向かって言った。

「わたくしも氏のない出自だった。そんな者がラウル家に入ることは前代未聞だったでしょう」

 雲が動いたのか、差し込む光線がさっと色褪せ、彼女の深い青の瞳は、漆黒のように沈んだ。

「わたくしは、ただ身寄りのない子を支援して、余生の生き甲斐に浸ろうというつもりなんかではないのよ。この子を守ることには、意味があるわ」

 エプィヌは思わず息を呑んだ。鼓動が速くなり、膝の上で重ねた指先が震える。

「では、なぜなのです?」

 バラク呼ばれた男は、エプィヌの思いを代弁するかにように問うた。

「ペリドットは、類稀なる歴史学者だった。彼の遺したものを、決してそのままにはしておけないわ」

 回答は、期待したほど明確なものではなかった。詰めていた息を静かに吐き出しながら、エプィヌは残念なような、安堵したような中途半端な気持ちを持て余した。

「竹を割ったようなお人であるあなたにしては、いささか曖昧なお答えですね」

 彼は、訝しむように顔を曇らせて続けた。

「歴史学者なら、王都の学舎に勤める優秀な人材で不足ないのではないか。その娘を否定するように聞こえるかもしれないが、研究を継げるのはたった一人というわけではないだろう。友への思い入れも分かるが……」

 エプィヌは、男の言葉をなるべく意味として捉えないよう意識しながら、俯いて目を閉じた。話題の中心に置かれることも、自分の存在について議論されるのも、こんな経験をすることは後にも先にないことを祈りながら、時が過ぎ去るのを待つしかなかった。他の人々は誰も、どちらの側にも加勢せず、嗜めることもしない。沈黙を決め込み、石像のように硬い表情をしていた。

「本当に、あんたはいちいち細かくてうるさいよなぁ」

 そこに横槍を入れたのは、ルチーフェロだった。彼でなくては、口を挟むことなどできなかっただろう。

「何だっていいだろう。ユディトの学問に対する崇高な思想なんて知らないが、この子にとって幸せな道を与えてやろうって気概だけで、それ以上でも以下でもない理由の全てだと思うけど」

 彼は悠々と足を組み替え、顎に手を当てながら挑発するように笑った。

「それに、この子自身も同じことを望んでいる。この国で書籍の出版を許されているのは、きちんと国立学舎を修了した者だけだ。研究を継いで、その成果を世に出したいと思うのなら絶対条件だ。必要なことなんだから、あんたは何も気にすることはない」

 素直に頷くのも、この雰囲気の中ではためらわれたが、エプィヌは、心の中でこっそり、流れを打ち切ってくれた彼に感謝した。

「殿下、あなたさまには分かるまい」

 バラクは、諦めたようにため息をついた。若者に何を言われようが、簡単に感情を昂らせたりはしないようだ。

「ーーエプィヌといったか、そなたには本当に申し訳なかった」

 突然名を呼ばれ、謝罪を受けたエプィヌは、返答のしようもなく、ただ唖然としながら男を見た。

「いいえ……とんでもございません」

「この話はもうしまいだ。ユディト」

 食卓の上で、二人の視線が一瞬搗ち合った。まだ結論に至っていない、納得していないことをバラクが訴えかけたようにも見える。

「ええ。説明不足だったわたくしが悪かったわ。エプィヌには嫌な思いをさせてしまったわね」

 ユディトは、非常にあっさりと言った。バラクが竹を割ったような、と彼女を評していたが、まさにその通りだと思った。その時だった。

「ーー料理が冷めてしまうよ」

 ずっと黙っていたラーギニールが声を発したので、エプィヌは驚いた。とは言っても、近くにいるから聞こえる程度の、小さな呟きだったのだが。

「ラギは、なんだかんだあんたを気に入ってるみたいだな」

 向かいのルチーフェロが笑った。

「あいつなりに、場を和ませようとしたんだよ」

 当のラーギニールは、何を言われようとどこ吹く風だったが、母親のユディトですら、目を丸くして驚いているようだった。

 彼女は、いささかぎこちなく指示した。

「ラーギニールの言う通りね、運んでちょうだい」

 先程の下僕たちが、奥の厨房との仕切り戸を開けて、再び姿を現した。エプィヌは気付かなかったが、主たちが込み入った話を始めたのを悟り、しばらくの間控えていたようだった。

 その間、ユディトは簡潔にバラク以下、食卓を囲む者たちの名と関係性を説明した。バラクはユディトの夫の弟で、その妻はデボライヤ、息子はツァドク。続く三男はナタンといい、妻はスィエネ、娘はリィリィアーナ。

 エプィヌが、そんなに多くの人の顔と名前をいっぺんに覚えることができるはずもなく、ぼうっとしている間に、主菜の山賊焼(ボルカ・テーレ)が卓上に置かれた。四つ脚の付いた分厚い銀の器には、香り付けのためか、大きな何かの葉が敷かれており、その上に、大胆にぶつ切りされた鳥肉が、もくもくと湯気を立てている。

「おお、久しぶりだな」

 バラクは、ほんの少し頬を緩めて言った。彼の隣に座る女人が、その言葉に反応する。

「わたくし、ここへ嫁して来てから初めて、この料理を知りましたの」

 きっと、かつては、どこか上流の家の箱入り娘だったのだろう。まるで鈴を振るような声で、純真そうにころころと笑う人だった。鈍重な空気感が、霧が晴れるように消えてなくなり、そんな妻にバラクが向ける眼差しも、意外なほど優しいものだった。

「そうか。まあ、わたしも、ユディトが兄の元に来て、料理人に作らせた時が最初だったのだが」

 ターリア王国には一角獣(ユノ・ケローズ)を操る聖騎士(ディヤナ)が王国軍として存在するため、王直属の近衛兵しか、貴族の二男、三男が身を立てて行く道は残されていない。あるいは、中流以上の子息に混じって王立学舎で学び、教授や学者として地位を得るか、二つに一つだ。ターリアの廃神令以降、神職がなくなり、秘密裏に“間引き”が行われることも多いと、エプィヌは何かで読んだことがある。例に漏れず、ここに残っているバラクや、他のラウル家の男たちも、近衛を任じられているといったところなのだろう。

 ユディトは、苦笑しながら女人を見遣った。

「懐かしいわね。あなたも気に入っているのね、デボライヤ」

「ええ、ユディトさま」

 女人は、口元を手で隠しながら上品に微笑む。

「王都で山賊焼(ボルカ・テーレ)を作っている家なんて、ラウル家だけですわ」

(博士に教わったのかしら)

 思考が顔に出ていたのか、ユディトはこちらを見て笑った。

「ノルドが馬車旅の途中に食べて来たって聞いてね」

 彼女は、小刀を器用に操りながら言う。

「昔、高山植物の研究するのに、ヨークの方を旅をしたことがあるの。その時に食べたのを気に入って。宿屋の主人に作り方を教わって、ここの料理人に伝えているの。ヨークでよく食べていた?」

「よく、というほどではないです」

 慣れない食器の扱いに苦戦していたが、居ずまいを正すと、エプィヌは慌てて返答した。

「ヨークは羊の肉が主で、草原の人々(ヒャルマール)丘の人(ベルグフォルク)も食文化はそう変わりません」

 無口な丘の人(ベルグフォルク)の中年夫婦のことが思い出された。

 博士は、街に住む草原の人々(ヒャルマール)が皆そうするように、屋敷仕えを雇っていた。夫の方はガマ、妻の方はラーダという名で、返事意外の言葉を聞いたことのないくらい、寡黙な二人だった。彼らは決まって土順日(曜日のようなもの。土星、木星、火星、太陽、金星、水星、月の順番で暦を数える)毎(七日に一度)に、食物や羊の乳を荷車に積んで、ヴィーヴェランの丘を登ってくる。エプィヌの胸の高さ程しか背丈のない、小柄な彼らだったが、どこにそんな力があるのだろうという腕っ節の強さで、ぐいぐいと重荷を持ち上げるのだ。また、あちこちが朽ちた古城の修繕はガマの仕事で、ラーダの方は、エプィヌとともに掃除や洗濯をしたり、料理の作り置きに精を出したりした。その間、なぜ会話もなく意思の疎通ができたのかは、よくよく考えると甚だ疑問だが、貧しい主従には決まった習慣しかなく、いつも同じことの繰り返しだったし、何も不自由はなかった。

 そんな暮らしの中で、ガマが時折獲って来る山鳥は特別だった。ラーダは、何も言いはしないものの、いつもより表情明るく、うきうきしたような様子を見せる。博士は、食卓に並んだ山賊焼(ボルカ・テーレ)が、山脈の向こうの料理だと教えてくれた。

「そう、ではあなたの思い出の味も教えてもらわないとね」

「ありがとうございます。粗末な料理ですので、皆さまのお口に合うかどうか……」

 本当のところを言うと、山賊焼(ボルカ・テーレ)がそれにあたるのかもしれなかったが、ユディトにとっても特別な料理なのだと思うと、今更言い出しかねた。それ以外を考えると、日々食べていたものは、ふかし芋や羊の乳の(カル)(レアチーズのようなもの)だが、いくらなんでも、高貴の人々の口に入れるのは憚られる。エプィヌは、愛想笑いでごまかすしかないのだった。

「ねえ」

 最初は、自分に声をかけられたのだと思わなかったが、ややあって顔を上げると、斜め向かいに座ったリィリィアーナというらしい若い娘が、きらきらと光る淡い灰褐色の瞳を、こちらに向けていた。

「ねえ、あなたいくつ?」

 彼女の、溌剌とした活発そうな雰囲気は、エプィヌには眩しいほどだった。それに、遥か南国に咲くという大きな太陽の花を思わせる、燃えるような橙色のブリオーは、袖が丸く膨らんだ形をしていて、豊かな巻髪の可愛らしい印象を増幅させていた。何もかもが、エプィヌとは正反対の娘だ。

「ええと……十八です」

「一緒ね!」

 この家の中の誰よりも、自分のことを歓迎してくれている。裏表のなさそうな娘だとは思ったが、こんなにも、言うこと一つ一つに対して大きく反応をされると、かえって身がすくんでしまった。

 エプィヌの引きつった表情に気付いたのか、リィリィアーナは、すまなさそうに首を傾げた。

「ねえ、学舎に行くんでしょう?」

 彼女は、先程よりも幾分小声で問うた。

「はい。入舎試験に通れば、その予定です」

「いいわね、女で学舎に通うなんて本当に珍しいのよ。いつがその試験とやらなの?」

 そういえば、全くその辺りの詳細を聞かされていないのだった。ようやく思い当たったエプィヌは、ちらりとユディトの方を盗み見た。

「そうそう、三日後に特例の試験を行ってくれるそうよ」

 視線を察したユディトは、それで思い出したかのように言った。彼女にとっては、まだ三日の猶予があるという感覚なのだろう。

「三日後なの!」

 焦りのあまり、頭が冷え冷えとして何も言えなかったエプィヌの代わりに、大きな声を出したのは、リィリィアーナだった。

「その感じだと、今発表したんじゃないの?」

 くるくるとした瞳が、エプィヌに問いかける。

「そうですね、つい今初めて……」

 ユディトの手前、全力で首を縦に振ることはできなかったが、そんなのひどいわ、とリィリィアーナが代弁してくれた。

「例外のことだから、学舎側の意向も無視できなくてね。急のことで、申し訳ないのだけれど」

 淡々としたユディトの語り口は、そうは言っているものの、ただ事実を伝えるつもりしかないようだ。

「いいえ、色々と調節していただきまして、本当にありがとうございます」

 エプィヌも、与えられたせっかくの機会に不満を持っていると思われたくなかった。しかし、予期していたよりも早く訪れる運命の日を目前に、残された時間の中でやらなければならないことを考えると、急に重圧がのしかかって、どうにも身動きができないのだった。

(ここに置いてもらうからには、絶対に失敗は許されない……)

 ユディトの願いが、本当に、博士の才能の灯を継ぐこと一点にあるのならば……それが、自分に期待される役割なのだとしたら。瞬時に、様々に思いが巡って、たとえ命を削ったとしても叶えることのできない、星を掴まえるような物語の序章に、立ち尽くしているような気分だった。

 それからのエプィヌは、また山賊焼(ボルカ・テーレ)の味が分からなくなった。リィリィアーナは気遣ってくれたが、誰にどんな言葉をかけられようと、それが余計に空気をぴりりと弾くばかりで、時の砂粒が少しずつこぼれ落ちるのを、ひしひしと感じ続けた。

(この後、部屋にたどり着けるかしら……)

 やらねばならないことは、たんとある。何も始まっていないうちから恐れおののいていては、本当に先が思いやられるのだ。

 エプィヌは、食べ方に神経を尖らせながらも、なんとか精をつけようと、一生懸命に料理を口に運んだ。

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