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第二章 王からくだされるもの (1)

 永遠にも思われる一瞬が過ぎ去った時、澄んだ明るい音色が、高く細く響き、大気をぴりりと振るわせた。エプィヌは、滝の泉に打ち付ける微かな衝撃が、その音に呼ばれて駆け抜けていくような気がして、無意識にそちらを振り返った。

「ラギが笛を吹いている」

 泉の縁に立っていたルチーフェロは、すっと屈伸したかと思うと、瞬きの後には軽々と地に降り立って、先へと歩き出しながら、エプィヌの背をそっと押した。

「行こう。あんたにラギを紹介しよう」

 滝の広場に至るまでに歩いた小径を、再び途中まで辿ると、先程は気付かなかった、獣道のような踏み分けが、細々と茂みの奥に繋がっているのが見えた。ルチーフェロは、足で下草を払いながら、その中をずんずん進んで行く。おかげで、エプィヌは、顔の前にしつこく枝垂れてくる蔦を避けるのに専念することができた。

 ほどなくして唐突に現れた水路には、四角く切り揃えた石で舗装した通り道を、滝の方からやって来た水が、緩やかに流れていた。上流には厚い木の板が差し込まれていて、水門の役を果たしており、そこで勢いが変わっているのだ。

 水路を下流に向けて目で追っていくと、岩の陰に、誰かが背を預けて座っているのが見えた。ルチーフェロは、迷わずその人影に向かって歩を進める。エプィヌは、わずかに緊張しながらも、遅れをとらないよう彼を追いかけた。

「ラギ」

 ルチーフェロは、山野の子兎にでも声をかけるように、姿の見えない相手に呼びかけた。岩の向こうで、小柄な肩がぴくりと反応する。しかし、待てど暮らせど返答はないようだった。

「ラーギニール」

 ため息混じりに張り上げられた声は、今度も虚しく響き渡った。岩陰からは、こちらの様子などお構いなしの、澄んだ笛の音が漏れ聴こえて来る。

 痺れを切らしたルチーフェロは、エプィヌに待っているよう告げると、大人の男一人が横たわった程もある水路を、岩場の方へと難なく飛び越えた。エプィヌは、獲物を狙う雪豹のような俊敏な動きに目を見張りつつ、子兎の反応を固唾を飲んで見守った。

「おい」

 ルチーフェロは相手から笛を奪い取った。

「返事くらいしろ。そうでないと、こんな風に邪魔するぞ」

「分かったよ」

 不服そうな声を上げながら姿を見せたのは、ルチーフェロより頭一つほど背の低い少年だった。

「ーー分かったから、返してよ」

 ルチーフェロの手から銀の笛を取り返した少年だったが、ほっとした表情を浮かべたのも束の間、対岸から見物しているエプィヌに気が付くと、あからさまに身を固くした。

「どうした。おまえ、ユディトに聞いてただろう。今日からラウル家に入ったエプィヌさ」

 少年は、頷くでも首を振るでもなく、肩をすくめて立ち尽くしていた。ルチーフェロは、ややため息混じりに言った。

「ほら、逃げたっていずれ、どっかで出くわすんだから」

 ルチーフェロの後をとぼとぼと歩き、水路の渡し板を伝ってこちらに向かって来る少年は、丘の人(ベルグフォルク)が飼っている子山羊のように従順で、ユディトのような明朗さや闊達さは微塵も感じさせなかった。しかし、静かでありながら、ルチーフェロに見せるちょっとした反骨は、この少年の芯の強さを伺わせる。

「ーー僕は、ラーギニール。ラーギニール・ディティ・ラウルです」

 艶やかな黒髪が、緩く螺旋を描きながら額にかかっており、時折風が吹いては、半ば隠れている少年の顔を顕にする。その下の伏し目がちの瞳は、いかにも草原の人々(ヒャルマール)らしく灰褐色だが、よく見ると、光の加減によっては、黒にも青にも思える虹彩をしていて、まつ毛が長いところなどは、はっとするほどユディトに似ていた。

「初めまして、ラーギニールさま。今日からラウル家のお世話になる、ヨークはヴィーヴェランのエプィヌです」

 正直なところ、ルチーフェロのような優男には辟易していたので、ラーギニールという少年が大人しそうなのを、エプィヌは心の中でこっそり歓迎していた。三歳年少ということもあり、僅かではあるが、気持ちに余裕を持てるような気もする。

「彼女も、おまえと一緒に学舎に通う予定だぞ」

 ルチーフェロは、黙りこくったままの少年に語りかけた。

 エプィヌがいくら見つめても、目が合う心配はなさそうだった。ラーギニールの視界に映っているものは何なのかは分からないが、少なくとも、焦点はエプィヌを通り越したどこかにあった。

「あの、ラーギニールさまは、笛を嗜まれるのですか?」

 調子を良くしたエプィヌは、明るく問いかけた。

「これ?」

 ラーギニールは、目を丸くしながら、自らの手の中の銀色の笛を見つめた。

「はい。さっき、ずっと吹かれていたので」

「ああ、見たかったら、どうぞ」

 エプィヌは、訳も分からぬまま、差し出された笛を受け取り、どうしたものかと、少年とそれとを交互に見比べた。別に、見せてもらいたかったわけではないのだ。しかし、もちろん突き返してしまうわけにはいけないので、しばし、興味を持った様子を装うことにした。

(ルチーフェロの言っていた、変わってるというのも、なんだか分かる気がするわ)

 ラーギニールの言動から抱いた印象は、まず、他人にさして関心がないのだろうということ、そして、独特の感性の持ち主なのだろうということだった。笛の穴を覗いてみたり、陽光にかざしてみたりしながら、エプィヌはそんなことを徒然と考えた。

 とはいえ、ラーギニールの笛は綺麗な品だった。銀製の筒に歌口と指孔が七つ開けられ、造形は至って素朴だが、継ぎ目がなく手触りが滑らかで、突っかかりのない綺麗な音が響くわけが分かる気がした。しかし、それ以上観察しようにも、楽器の知識は全く持ち合わせていないので、エプィヌは、すぐに一通り眺め終えてしまった。

 ラーギニールは、手元に戻って来た笛に口をあてがい、息を吹き込んだ。銀色の笛は、ピーという軽やかな高音で歌い、彼が孔を指で打つと、それに合わせて独特な調子を紡いだ。

「お上手ですね」

 恐る恐る声をかけると、少年は視線だけをよこし、やはり、エプィヌと目が合う前に顔を背けてしまった。

「ーーいや、こうやって、音程を確認するだけだよ」

 彼はぼそぼそと返答し、笛を手の中で転がした。

「音程?」

「うん」

 ラーギニールは、相手が静かに、自らの次の言葉を待っているのを感じ取ったのか、少しばかり肩の力を抜いたようだった。

「こっちに来て」

 意外な言葉に呆気に取られたエプィヌは、先をどんどん歩き出す少年に着いて行くのに出遅れてしまったが、にやにやと笑いを浮かべるルチーフェロに促され、急いで後を追った。

 先ほどラーギニールが隠れていた岩場まで至ると、そこには、水路から引かれた水溜まりがあった。それだけではなく、不思議な造形物が浮かんでいる。

 大振りの桶が水中に伏せて沈められ、そこから、長さの異なる管がいくつも並んで突き出ている。桶から伸びた革製の細長い管は、足踏み式の鞴に繋がっていた。世にも奇妙な装置だ。

 言葉に詰まったまま突っ立ているエプィヌに、ラーギニールは静かに言った。

「仮に、水風琴(オロ・ローン)って呼んでる」

水風琴(オロ・ローン)?」

 エプィヌは耳慣れない言葉に首を傾げた。

「ここに貯めた空気を使って、風琴(ローン)を奏でる仕組みになってる。水圧のおかげで均等に管に空気が回って、安定した演奏ができるんだ」

 装置を順々に指し示しながら、ラーギニールは簡素に説明した。

「全く、ややこしいことを考えつくよな」

「でも、これはまだ、自動の原理を考えるための試行」

 ルチーフェロの言うことには耳を貸さず、ラーギニールは静かに熱弁を奮い続ける。

 エプィヌには、その水風琴(オロ・ローン)で何が駄目なのかが分からなかった。十分立派で、この国の音楽に革命すら起こしそうな品だというのに。

「ぼくは、音楽をやっているわけではないから」

 エプィヌの考えを察したのか、ラーギニールは申し訳なさそうに付け足した。

「水や空気を、人の手を介さず自在に操るには、まず、この庭にもっと高低差が必要なんだ。とにかく高いところから水を落として、その勢いで、底に叩きつけられた時に、風琴(ローン)の鞴に空気が送り込まれる」

 彼は、好きなことを話すとなると、止まらない質なのだろう。兎のように怯えているような仕草が抜け切ったわけではないが、その割に、ずいぶんと流暢に喋り続ける。

「理想はもちろん、全てを循環させることだ」

「天才だわ……」

「そんなことないよ」

 ラーギニールは、初めてエプィヌの目を見てそう言った。謙遜しているのかと思ったが、そんな様子はおくびにも見えない。

「色んなことを、順を追って考えたら、自然とそうなる。だが、理論を実証できないと意味がない」

「可愛くないやつ」

 黙ってやりとりを観察していたルチーフェロは、そう言って唇を尖らせた。

「おれと違って頭がいいんだから、褒められた時くらい嬉しそうにしろよな」

「エプィヌさん」

 いきなり名を呼ばれて、エプィヌは背筋を正した。ラーギニールは、自分に一切興味を抱いていないと思っていたので、あまりに不意打ちだった。

「学舎に通うんでしょ。何を専攻するの」

「えっ」

 彼が真剣に、返答に耳を傾けているのが分かった。エプィヌは、ルチーフェロとの会話を思い出し、知らず知らず手をもみ絞りながら言った。

「ーー歴史学を専攻します。養父は歴史学者でした。やり残した研究があるんです」

「へえ、どんな」

 ルチーフェロが、あまり抑揚のない声で問うた。エプィヌは瞬時にためらったが、慎重に言葉を選んで回答した。

「ーー正直に言うと、語れるほどの知識は、まだありません」

 博士は各地の伝承を集めており、特に、王政の影響を強く受けていない丘の人(ベルグフォルク)の言い伝えは、神話じみてはいるものの、王国の正史と比較すると興味深いと語っていた。

(いつからだろう、博士が研究について多くを語らなくなったのは……)

 博士は、自分に才がないと判断したのだろうか。それとも、他に何か理由があるのだろうか。一度そう考えると、無駄な思考だと分かってはいるが、止められなかった。

 エプィヌは、押し出すように続けた。

「博士が書き残したものは、全て古語……古語でも表記の仕方が変則的で、崩字で記されています。わたしは古語ですら、習得する途上でした。まずは、それを読み解くことから始めます」

「ふうん……」

 本当に、関心があるのかないのか、ラーギニールの反応は曖昧だった。

「エプィヌさん、ここへ来る時、街を見たでしょ」

 唐突に話題をすり替えられ、エプィヌは戸惑った。ルチーフェロもまた、何を言い出すのか訝しむような表情を浮かべていたが、しかし、ラーギニールは構わずに続けた。

「“宝石の王都”は、厳密な取り決めの末の産物なんだ。例えば、家屋の型式は厳密に決まっている。素材から、造る工程や道具まで全てだよ」

「そうなのですか?」

 丘の上から見た景色、中庭の泉の中に刻まれた王都の地図……通って来た市の様子など、一つ一つを思い起こしても、ラーギニールの言葉は、いまいちぴんと来なかった。初めての場所や賑やかさに目を奪われて、記憶は、形よりも眩い極彩色で埋め尽くされている。

「もっとも、それは我々草原の人々(ヒャルマール)にしか適応されていないけど。だから丘の人(ベルグフォルク)の文化が根強いヨークから来たエプィヌさんには、ただ綺麗な“宝石の王都”にしか見えなかったと思う」

 またも、ラーギニールは、エプィヌの思考を見透かしたように言った。

「エンドラッドを構成する今の建築様式は、何百年も前の雲の峰(スフ・マリス)の噴火から得た教訓を元にされているんだって。街が色に溢れているのは、ただ綺麗だからじゃない。火山灰に埋もれても、各々が自分の家を判別できるようになんだ」

 エプィヌは、純粋に、なるほどと理解しながら頷いた。伝承にも、噴火の影響は色濃く反映されている。かつてターリア王国がフェンサリル(古語で「神王国」の意)と呼ばれていた時代に、火山灰に苦しむ民を救ったのが、雲の峰(スフ・マリス)の向こうからやって来た王女と十四人の魔法使いたちだった。不思議で巨大な装置を造り、地上に明るい空を呼び戻しただけでなく、今もなお、数百年に渡って王都を潤し続ける水道橋を考案し、建設したのも、他でもない彼らだとされている。ただ、その伝承を歴史として裏付ける遺跡が、水道橋以外のものは一切残っていないことが口惜しいと、博士はよく語っていた。

 エプィヌがそんなことを思い出していると、ラーギニールは、眉を曇らせながら、囁くように言った。

「何百年も進歩のない、保守的な様式を踏襲するだけなんて面白くない」

 その言葉は、あまりに意外だった。学問は、博士のような研究者によって、新たな境地を切り拓かれて行くのではないのか。何百年もそのまま、誰も手を加えないなどということが、本当にあり得るのか……。

「なら、ラーギニールさまが……。今だって、画期的な物をお造りになられていて」

 ラーギニールの言うことの意味を捉えきれないまま、エプィヌはその場をしのぐように言葉を探した。

「そういうわけにはいかないのさ」

 間髪を容れず、ルチーフェロは、やや厳しい声で指摘した。そのつもりはなかったが、エプィヌは知らず知らずのうちに怯んでしまったようだった。ルチーフェロは、怖がらせたことを謝ると、今度は、穏やかな口調に戻って続けた。

「学門は全て、国王から許されて分け与えられるものだ」

「そうなのですか?」

 エプィヌはだんだんと、何も物を知らない自分に嫌気がさしてきた。王都では……いや、本来、草原の人々(ヒャルマール)の間では常識なのだろうか。それとも、学舎に通うような職能階層や、貴族にとっての暗黙の了解なのだろうか。何はともあれ、エプィヌがとんでもなく無知を晒していることは明白だった。

 今にも消え入りそうなエプィヌとは対照的に、ルチーフェロは、真面目な話をしていると、きちんと王子然として見えた。

「たとえば、学舎で建築を学んだ者たちが設計し、技師を雇って街や船を造る。その工事だけとってみても、エンドラッドの色んなものが回っている。だから、歯車の要となる部分を野放図にしてはおけない。元締めをきちんとしておかないと、いつか王政は揺らいでしまう」

 エプィヌは、分かったような、あまり納得できないような、奇妙なもやもやを胸の内に感じた。

(だからって、噴火の教訓があるにせよ、数百年も何も変わっていないほどの完成された学問なんて存在するのかしら)

 ラーギニールが抱える不満はもっともだ。ルチーフェロの言う為政者の意図も、きっとその通りなのだろう。しかし、エプィヌの頭の中では、両者の孕む問題が合致しなかった。それとこれとは、別なのではないかと思うのだ。

(ラーギニールさまは、なぜわたしに、そんな話をしたのだろう)

 ーーその人は本当に、あんたを歴史学者にしたかったのかな……。つい先頃のルチーフェロの言葉が、再び脳裏を過った。エプィヌには、自分がこれから、何かを選び取らねばならないことを予言されているような、そんな響きを帯びているようにも感じられた。ラーギニールの話もまた、同様に……。

(二人が、全く同じものを見ているとは思えないけれど)

 その時、邸宅の方から、鈍い鐘の音が鳴り響いた。振り仰ぐと、高い屋根の、さらに上層に鐘楼があるのが見えた。白い鳩が群れになって周囲を飛び回り、空に綺麗な円を描いている。ヴィーヴェランの古城の塔にも、鳩の群れが時折やって来ていたことを、エプィヌはふいに思い出した。

(そうか、あれは飼い慣らされた鳩だったのね)

 ラーギニールもまた、重苦しい空気を振り払うかのように、上空を見つめていた。

「ーー正午を知らせる鐘だ」

「ラギ」

 立ち去ろうとするラーギニールの背中に、ルチーフェロは厳しい口調で投げかけた。

「ラギ、おまえはたしかに才能に溢れているが……さっきのような言は、治安維持を司る立場としては素直に看過できない。今やっている実験も、絶対にこの庭の外に持ち出すなよ」

 途端に、辺りは水を打ったように静まり返った。エプィヌは、自分の鼓動の音をひたすら聴いているような気がした。

 ラーギニールは、ちらりと王子を振り返ったが、はいともいいえとも、返事はなかった。兄弟のようでもあり、主と臣下の関係性でもある二人だったが、簡単には推し量れない何かが、そこには確かにあった。互いに川の対岸に立ち、探り合いながら言葉を交わしているようだ。ーーエプィヌには、そう見えた。

 ラーギニールは、数歩先で一度歩みを止め、元のように、ぼそぼそとした声で言った。

「昼餉の時間です。戻りましょう」

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