第一章 宝石の王都 (5)
案内すると言った割に、ルチーフェロは特段、言葉をかけてくる気はないようだ。彼の後を追って歩くうちに、エプィヌは、いくつ回廊の角を曲がったのか、すっかり忘れてしまった。部屋の大きさや扉の飾り、柱の彫刻など、同じものは一つとしてなかったが、どれも似通っているのには間違いない。ある柱には、背の高い人々。またある柱には、小柄で羊を飼い慣らす人々の姿が刻まれている。そして、火を上げる雲の峰と、飛翔する翼竜が現れたかと思うと、そこで回廊は終わり、突き当たりに至るようだった。
ーーアッティラとドゥリンの子孫たちは、かつてエンドラッドのあった平地に住む草原の人々と丘陵地や岩場に小さな共同体を作って暮らす丘の人に分かれ、平地の人々が丘の人々を支配することで世界を構築していた。しかし、雲の峰に暮らしていた竜が火の柱を逃れて現れ、人々を脅かし始めた。竜を倒した者を勇者として讃え、新たな王とすると、双方の氏族をまとめる長老が宣言したことにより、多くの若者が竜に戦いを挑んだ。そのなかで王の座を射止めたのは、リーヴという若者だった。彼は、ある時雷に焼かれて消失した神樹エンドラッドの最後の実から生まれた、輝く魔剣を抱いた神の子であった……。
そんなことを思い出しながら歩いていたエプィヌは、立ち止まったルチーフェロの背中に危うく衝突しかけ、慌てて二、三歩退いた。
「大丈夫か」
ルチーフェロは、よろめいたエプィヌの方を振り返り、腕を掴んでそう言った。
「申し訳ございません」
顔を近づけて瞳を覗こうとする気配を察知し、エプィヌは素早く身を引いた。彼は、頑なに壁を作ろうとするその様子に苦笑を浮かべたが、すぐに何事もなかったかのように踵を返すと、閂を外して扉を押し開けた。
すっかり日が高くなり、燦々と降り注ぐ陽光が眩しかった。明るさに目を瞬かせたエプィヌは、その場所が、あくまでも塀に囲われた邸宅の一角であることを忘れてしまいそうになった。
「すごい……」
なだらかな丘が広がり、咲き乱れたルビタリスの間を縫った一本道が、その先に鬱蒼と茂った深緑の森へと続いていく。ここには、目に見えない空間がいくつも重なり合って存在しているのかと疑いたくなるくらい、どこまでも広大な土地だ。
思わずこぼした呟きを耳聡く聞きつけたルチーフェロは、これ幸いとでもいうように、エプィヌの手を取って階を降り始めた。
「あの!」
半ば踏ん張るようにして立ち止まったエプィヌを、彼はからかうような表情で見上げた。
「どうかしたか?」
「手を……」
言い終わらないうちに、ルチーフェロは構わず手を引っ張り返して、前につんのめったエプィヌを抱きとめた。
「姫百合色の、綺麗な髪だ」
前髪に触れられ、エプィヌは凍り付いた。
「おれは、ここでくらい王子なんて鎖から解き放たれたいんだよ。付き合ってくれよな」
驚いて呼吸が詰まったようになり、彼を見上げた刹那、ぷつりと時が途切れたような感覚に陥った。
「ーーそんな風に仰られても、難しいことです」
不本意にも赤面したエプィヌは、ようやく言葉を絞り出すと、ローブを目深に被った。人肌に触れると、こんなに熱く感じるものなのか……。一旦気付くと、そればかりを意識してしまう。博士と手を繋いだことすら、物心ついた時分から振り返ってみても、一度もなかった。
(いつも、博士の後ろを歩いて着いて行った。置いていかれないように、博士を一人にしないように)
ヨークでもよく群れ咲いていたルビタリスは、知っているよりも大ぶりに咲き誇っていた。高山の花だと思っていたが、王都でもその姿を目にするとは思いもよらなかった。エプィヌは、大人しく手を引かれながら、足元ばかりを見ていた。
(この人は……)
愛嬌があり、身分をかさにきて偉ぶったりしないところは、多くの人の心を捉えるだろう。しかし、何を腹に秘めているのかが全く読めない。そして、夕刻の影を纏ったような静けさや、瞳の奥の暗さが、彼のこれから言わんとしている何かに起因しているような気がしてならなかった。
しばらくすると森の中の空が開けた場所に出、黒々とした石の壁から勢いよく伝い落ちる、人工の滝が現れた。そこの水は一度、前面に張り出したバルコニーのような泉を満たした後、傍の水路から何処かへと流れていくようだ。エプィヌはそのようなものを見るのが初めてだったので、いったいどのような仕組みで、水が上に引き上げられているのかを疑問に思った。ターリア王国の技術の結晶といえば、年々距離を伸ばす水道橋だが、それも母なる水源から導かれたもので、規模の割に原理は知れている。
ルチーフェロは、ぼうっとしながら滝を見上げるエプィヌを導いて行くと、平らになった泉の縁を指し示した。
「失礼いたします」
エプィヌが腰掛けると、彼もまた隣に座り、足を組んでこちらを見遣った。
「それで、さっきの話だけど」
幾分、唐突な始め方だった。エプィヌは、家人たちの反応を思い出し、やや緊張してしながら次の言葉を待った。
ルチーフェロは、上空を飛び回る小鳥を目で追いながら、こともなげに言った。
「十八年前の謀叛、現国王による国王夫妻殺害事件の裏で、俺に身に一波乱あったからさ」
「国王夫妻の暗殺……」
思考が着いていかず、エプィヌはただただ目を丸くした。
「まさか、知らないのか?」
ルチーフェロは訝しむように、まじまじとこちらを見つめる。
「お恥ずかしながら」
エプィヌは、今がこれまでの人生で一番混乱しているかもしれなかった。そのような大事件があったのなら、いくら王都から離れた地方であっても、噂くらい耳にしたことがあるはずだ。たしかに、丘の人の人々は、自らを差別する草原の人々の事情には一切興味を持たない。それでも、博士は歴史を追うのが生業なのだから、王都の事情に全く明るくないわけがなかったし、そのことを当代の歴史としてなんらかの形にするのが当たり前だろう。
エプィヌの回答に、ルチーフェロはやや戸惑った様子を見せたが、すぐ真顔に戻ると、静かに問うた。
「もちろん、現国王の名くらいは知っているな?」
「はい……ロヴァル陛下、フィルレリア妃陛下」
「そうだ。そして、おれと双子の妹のラプンツェルがいる」
何から話すべきか、頭の中で順を追っているのだろう。ルチーフェロは、時々言葉を途切らせながら続けた。
「まあ、簡単に言うと、殺された先王と、臣籍降下されたその異母弟……現国王の醜い争いさ。女をめぐる、内輪のね。情けない話だろう?」
険しく大きな山脈によって三方向を隣国と隔てられ、海運に恵まれて交易は盛んであるものの、他国からの侵略とは無縁と見えるターリア王国に、思わぬ内憂があった……。天と地がひっくり返ったとしても、エプィヌは今ほど驚きはしないだろうと思った。
「先王と現国王は、同じ女を愛した。ヨークから来たフィルレリアという女、おれたちの母。現国王の館に仕え、気に入られて王宮へも伴っているうちに、先王のお手つきになったってわけさ」
ルチーフェロはあっさりとした口調で語り続けた。まるで、自分の家族のことではないとでも言うように。エプィヌは、ルチーフェロの言葉と言葉の間に流れる水音が、だんだんと遠ざかっていくような気がした。見たことのないはずの王宮が、そこに座す人の面影が、彼の一言一言から浮かび上がってくるようだった。
「数ヶ月遅れて身籠った正妃は、母君を、腹の中の我が子の乳母にと望んだ。正妃はすでに、先王と母君の関係に気付いていたってことさ。人が悪いよな」
同意を求められても、頷ける立場のエプィヌではなかったが、その残酷さを思い、なんとなくルチーフェロを直視することができず、顔を伏せた。
「おかげで、おれと妹は生まれてすぐ、母君から引き離された。おれたちは、結局誰が父親なのか定かではないが、ただ、おれがラウル家に養子に出されたんだから、父君が……現国王が父親ってことでいいんだろう。つまり先王は、父君とおれには皇位継承権を与えないと決めたんだ。ラウル家は、父君の母の生家で、後見でもあったから、まとめて日の目を見させないつもりだったようだ。母への愛情のおかげで、命を取られなかったことだけが救いさ」
彼の瞳に、何かを秘めたような底の見えない色があるのは、そういう背景からくるものなのかと、エプィヌは腑に落ちたような気がした。
(その生まれに、後ろ指を指され続けるのね。誰もが思っているよりも、よっぽど、彼には王宮に居場所がないのかもしれない)
王子などという雲上人のことを哀れに思うのは不敬だが、今のエプィヌには、そのような感情しか浮かばなかった。
エプィヌの浮かない表情に気づいたのか、ルチーフェロは薄く笑って、風で乱れた小麦色の髪をかき上げた。
「ラウル家のアデルとユディトは、その頃、子を失ったばかりだった。おれは、ユディトの乳を飲んで育った。事件後、城へ戻される時に、ユディトはそのまま乳母として雇われた。まあ、そういう仲なのさ」
「大好きなんですね、ユディトさまのこと」
少々無理をしながらも、エプィヌが小さく微笑み返すと、彼は呆れたように首を振った。
「ユディトだけさ、おれを本当に心配しているのは。だからってもう、子どもみたいに、大好きとかそんなんじゃないけど」
「いいえ、そうなんです。そうだと思います」
エプィヌは、むきになっているルチーフェロの様子が面白く、その刹那、王子だということが頭から抜け落ちてしまった。あっと思った時にはすでに遅く、彼は、急に強気に出たな、とエプィヌを見て大笑いした。
「王宮は窮屈だ。おれは一応、聖騎士の管理と治安維持を任されているから、割と外に出る機会は多い。ここは良い休息の場だ」
目の端に浮かんだ涙を拭いながら、ルチーフェロは吐息混じりに言った。
それからしばらくは、とりとめのない会話が続いた。ここを訪れると、ユディトはいつも、彼の好きな揚げ菓子を作ってくれること。表の門からは入らず、子供の頃からの秘密の抜け道があること。愛馬の名は黒翡翠だということ……。さやさやと鳴く木々の葉ずれが心地よく、エプィヌは時間が経つのを忘れていた。
あんたのことも教えてくれよ、とルチーフェロは言った。
「おれは、ユディトがあんたをどういうつもりで呼び寄せたのかは知らないが」
エプィヌは足元に視線を落とし、ルビタリスが揺れるのを見つめながら、こくりと頷いた。
「歴史を学ぶためなんだろう?」
顔を上げると、すぐ近くに彼の顔があった。その瞳は真剣に何かを探っているようで、こちらが目線をずらしても揺らぐことはなかった。
ややあって、ルチーフェロは口を開いた。
「あんたの育ての親、ペリドットとかいう学者だったか」
「ーーその通りですが」
なにを言われるのかと、知らず知らずのうちに呼吸が浅くなっていた。エプィヌは、努めて落ち着いた声で返答した。血の繋がりを問われるのか、それとも、ただ思い出話を聞きたがっているのか。それは分からなかったが、彼の表情は、もっと違う意味合いを含んでいるように思えてならない。
そんなエプィヌに、ルチーフェロは構わず言った。
「その人は本当に、あんたを歴史学者にしたかったのかな」
「そんなこと……」
あまりに意外な問いだったが、咄嗟に言い返した言葉には、エプィヌの自信のなさがありありと映されていた。
「わたしは、博士からおおよその学問の手解きは受けてきました。博士がわたしを弟子と呼んでくれた真意を聞いたことはありませんが、ユディトさまがここへ呼んでくださったことが証明だと思っています」
ルチーフェロはしばらくの間、何かを考えているように腕組みをしていたが、やがて口を開いた。
「少なくとも、今のあんたは自由だよ。周りに流されてないで、好きなことをすればいいし、あんたが育て親と同じ道を歩むなら、それも自由だ」
(この人は、いったい何が言いたいのかしら)
エプィヌは、思い切ってルチーフェロの瞳を真っ直ぐに見据えた。彼の口振りには、否定するというより、本当にそうするのかと念を押すような風があった。
「博士は市井の歴史学者で、自分の志のために生きてきたんです。わたしはずっと憧れていましたし、ユディトさまのお世話になるから、行きたくもない学舎に行こうというのではありません」
「そうか」
エプィヌは強く頷いた。ルチーフェロもまた、それ以上追及する気はないようで、無造作に足を組み替えながら言った。
「まあ、飯は食えないぜ、間違いなく。そのかわり、ラウル家の養女ともなれば、嫁の貰い手には困らないだろうがな」
「そんな」
虚をつかれたエプィヌは、その言葉について、深くは考えていなさそうなルチーフェロを見つめ続けた。
今の今まで考えたことがなかった。博士の学友という女史のこと、王都で暮らすということ、入舎試験のこと……。色々なことで頭がいっぱいだった。ラウル家の世話になるにしろ、いずれは一人で生きていくものだと思っていたのだ。
「あんただって、聞いた話では十八なんだろう。今から五年も学舎に通ってみろよ、普通の娘ならとっくに結婚してるさ。もしかしたら、この家の跡取と婚わせるつもりなもかもしれないが……」
「跡取?」
「そうさ」
ルチーフェロは、先程よりも明るい調子で言った。
「ユディトには、去年他家に嫁いだ娘のエステルと、その弟のラーギニールがいる。ラギ……俺はそう呼んでいるけど、立派なラウル家の跡取さ。今はユディトが家を取り仕切っているが」
「それならば、先にそういうお話をされるのでは」
「わからないぜ」
まさか、本当にそんなことがあるわけはないだろう。エプィヌは高を括って見せたが、実はほんの少し、どぎまぎしていた。同じ初対面でも、ただ普通に会うのと、こうして意味深な前振りがあってから会うのとではわけが違う。
その上、ルチーフェロはさらに畳み掛けた。
「ラギは、この庭のどこかにいるはずさ」
「えっ……」
焦って辺りを見回すエプィヌを見て、ルチーフェロはおかしそうに肩を震わせた。
「若干十五歳だが、とにかく変わり者なんだ。嫁に来てくれるような子がいる気がしない」
ルチーフェロが人を“変わり者”と呼ぶことにはずいぶんと違和感があった。
「この滝は、十の頃にラギが設計したんだ」
彼はさらりと言ってのけたが、エプィヌには仰天の事実だった。
「本当に、その歳で?」
たしかに、言われてみれば、黒く艶のある石材は傷も少なく新しく見える。しかし、こんな水道橋を超える構造物を、子供が考えつくものなのだろうか。
ルチーフェロは縁に立ち上がると滝の飛沫に手を伸ばす。まるで、本当の弟を自慢する兄のように、彼は得意がって見えた。
「ラギは今年から学舎に通って、建築を専攻してるんだ。近頃じゃあ、庭の噴水で音楽を奏でようと躍起になっているらしい」
噴水と音楽が結びつかず、エプィヌの頭の中は疑問でいっぱいになった。
「そんな……魔法のようなことができるんですね」
何を思ったのか、ルチーフェロはこちらに一瞬目を向けた。そこに浮かぶ感情はなぜか複雑げで、エプィヌには汲み取ることができなかったが、推測するいとまを与えず、彼はすぐに、流れる水の行方を追って、こちらに背を向けた。
「ーーああ」
低い声が、絶え間ない水音に紛れて響いた。
「ヨークではどうか知らないが、王都エンドラッドや近郊では、神を騙ったかつての悪王と十四人の魔法使いは、王都を血沼に変えた魔狩りの根源として、今でも密かに恐れられている。草原の人々子供は悪さをすると、魔法使いにに連れて行かれると言われて育つ。文化が違うとはいえ、そういう言葉を軽々しく使うのは良くない」
エプィヌは息を呑んだ。
(魔法使いが悪ですって……)
博士が寝物語に語ってくれた話では、悪政に進言した十四人の魔法使いは王によって追放されたとされている。魔法使いは、誰にも真似にできない奇跡を起こす者。魔法は善きもの。
(神話が忘れ去られているように、ここでは何かが、わたしの思っているものとは違う)
今朝、宝石のように輝いて見えた王都が、記憶のなかでどんどん霞がかり、光を失っていった。ルチーフェロの言葉……博士と同じ道を歩むのも自由だと言った、その意味を考えた。
暗闇に閃光が弾けたような感覚と共に、博士のあの一言が蘇った。
(――そう、エンドラッドは、永久に閉じられたターリアの瞳)
この言葉の意味を、真に理解する日は来るのだろうか。歴史を学ぶことで、信じてきたものが幻想だったと知るのかもしれない。
(それでもいいわ。だとしたら、博士はおとぎ話でわたしを楽しませようとしてくれた。博士はわたしを愛していた……)
エプィヌは立ち上がり、ルチーフェロの背中を見上げた。
「殿下、ご忠告を胸に刻みます」