第一章 宝石の王都 (3)
邸宅は、隙間を赤土で綺麗に塗り込めた総石造だった。海風や雲の峰の嶺から吹きおろす冷気に耐えるにはもってこいの頑丈さといえる。庭先に立って目に見える範囲だけでも、馬車を馬ごと縦に並べた十台分はある長い壁が視界の端まで続いており、奥行きを考えると、相当な広さだった。
エプィヌを迎えた、だだっ広いポーチの四方には、一角獣と聖騎士の肖像を刻んだ石柱が立っており、荘厳な佇まいで、訪れる者をじっくりと吟味しているようだった。
立派な芸術を前に、自分が場違いな気がして、知らず知らずのうちに腰が引けていたエプィヌは、博士と住んでいたヴィーヴェランの古城の裏の木戸をくぐる時と同じように、背の高い玄関を、肩をすぼめて通り抜けた。
「エプィヌさま。そのように恐縮せずとも」
ノルドが困惑したようにそう言うので、エプィヌは、かえって申し訳ない気がした。しかし、染み付いた田舎者の性のようなものは、急に意識したところで、そう簡単に拭い去ることなどできなかった。
「こんなに広いお屋敷に入るのなんて、初めてだもの」
エプィヌはそう言い、半歩後ろを粛々とついてくる老人の気を紛らわせようと笑って見せたが、あまり効果はないようだった。
しかし、そのような少し気まずい空気は、次の瞬間、エプィヌの脳内を駆け抜けた衝撃によって、一瞬にして吹き飛んでしまった。
前方に広がったのは、想像だにしなかった空間だった。玄関を抜けてすぐに、突然天井がなくなったように見えたのだが、そうではなかった。ふと視線を上げた先には、まるで異世界が広がっていたのだ。
実在したとすれば、この世をあまねく覆い尽くしそうなほどの巨木が……天にも地にも大きく無限に広がり、うっそうと生い繁る葉、どこをとっても満開の花、枝ぶりから溢れそうな実のりによって、それぞれの季節を、非常に精緻な仕事で表現されている。また、その木を真ん中にして、両側には人間と思しき雌雄が向かい合っており、その美しさに、吸い寄せられるよいに目を惹かれた。二人は衣装を纏わず、完全に生まれたままの姿であるが、艶めかしい雰囲気は一切ない。大理石の白さが滑らかな肌を浮かび上がらせて、むしろこの空間の中で最も神々しいほどだった。
エプィヌの目は天井に釘付けとなり、のけ反りすぎて首の後ろが痛いほどだった。
「これは……」
エプィヌのかすれ声を聞きつけ、先に立って歩いていたユディトが振り返った。
「私も、初めてここへ来た時は同じように驚いたわ」
「ここへ来た時……?」
「そう」
彼女の青い瞳は、色んなものを通り越して、ずっとずっと遠くを映していた。
「十六歳だったわ。わたくしは親を亡くして貧しくてね。叔父のノルドを頼って王都に働きに出てきたのだけれど、国立学舎に忍び込んではこそこそ聴講ばかりしていて、ずいぶんと迷惑をかけたものだわ」
(そうか……)
エプィヌは、血の繋がりがあると聞き、二人の珍しい瞳の色の似通っていることに少し納得した。完全に腑に落ちないのは、そうだとしたら、ここで主従の関係に収まっているのには、少なからず違和感があったからだ。
(どんな事情があるのかしれないけれど……)
「この家……ラウル家の当主がわたくしの夫なのだけれど、彼が、結婚を条件に学費を支援してくれると申し出てくれたの。ノルドは最初嫌がったけれど」
老人の方をちらっと見やると、彼は、やれやれとでも言うように、小さくうなずいた。こうした表情をすると、たしかに、叔父と姪のやりとりが垣間見えるような気がした。
「死んだ夫の話よ」
ユディトは、付け加えるように言った。
「お金で買われるような気分がしたけれど、それよりも苦境から抜け出したかったし、正式に学舎に通いたかった。だから、せめてもの思いでノルドも一緒に家に入る条件をつけて……婚約したわ。自由の猶予は学生である五年。その間、ペリドットとも知り合って、思う存分学んだ」
再び歩き出しながら、彼女はややかすれた声で話し続ける。ペリドットという名が出るたび、エプィヌは現実から目を背けて泣くまいと堪え続けていたのだが、ユディトのその声を聞くと、たまらず、目頭がつんと熱くなった。
回廊を歩き続けるうちに、今度は本当に空が切り開け、中庭にまろび出た。ここは、薔薇が咲き誇っていた、玄関前の庭園とは全く趣が違っている。白い砂丘がなだらかに連なった、その中央に澄んだ泉が横たわり、遠くで家人が作業をする物音や声、どこかでさえずる小鳥の歌……そういった生きた気配を、静寂がすっかり押し流し、時の流れが止まってしまったかのような場所だ。
ユディトは気を取り直すように、ブリオーの裾をたくしあげながら、橋が掛かった泉の方を顎で示した。
「結局、良き夫だったのよ。悪く聞こえたかもしれないけれど」
「いいえ」
エプィヌは首を振った。
「ユディトさまのお顔を見ていると、決して旦那さまが悪者には思いませんでした。お優しい方だったのですね」
「ええ。ここは彼が、故郷をひどく恋しがっていたわたくしのために造ってくれた庭なの。わたくしの生まれた東の高地は、夜になると、湖が星を映して美しくてね。天球を上から眺めているような気になるのよ。あなたの部屋は、この橋を渡った対岸にあるわ。結婚前、わたくしが暮らしていたところ」
加えて、“さま”と呼ぶのは仰々しいわよ、とユディトはついでのようにこぼした。
エプィヌは、ユディトの後を追って小さな橋に足を踏み出した。透明な泉は、羊雲の泳ぐ薄青色の空をぽっかりと浮かべており、時々、そよ風が波紋となって広がった。
思ったよりも水深はあるようで、段々になった白い岩肌が、底の方へと続いているのが見える。そこに何かが細かく刻まれているように見えて、エプィヌは目を凝らした。
(これって、もしかして……)
「エンドラッド……宝石の王都」
その呟きを、ユディトは聞き逃さなかった。いつ気付くかと、わざと黙っていたのよ、と彼女は少し得意げに笑った。
「王都は雲の峰、ヨーク地方との境となる日の眠るところ、母なる水源に三方を囲まれているでしょう。わたくしがここへ来る時に丘の上から見た景色は、夕日に赤く染まる日の眠るところと母なる水源、そして初めて目にする海だった」
「地図が刻まれているってことですか」
ユディトは、エプィヌの見解に少し驚いたようだった。
「記憶の中の、絵画のように焼き付いた景色を再現したものだから、そこまで精巧なものではないと思ってきたのだけれど、ある意味、地図と呼ぶにふさわしい性質を持っているかもしれないわね」
腕を組み、片手で顎のあたりをさすりながら、ユディトが空を見上げて考え始めたので、その姿を、エプィヌはしばらく観察するしかなかった。
「主は、昔からあのような感じで、すぐに思考の深みにはまってしまわれるのです」
「たしかに……」
ノルドは弱ったように言ったが、エプィヌは、すでに慣れっこだと思い出した。博士は、常に研究のことが頭から離れないので、日常生活を送るには難があった。もしも一人で暮らしていたならば、何も手につかず衣食を忘れてしまうことがしばしば起こったに違いない。気になることがあると、何事も遅々として進まず、しまいには思考に集中して、ただひたすら、そこらをぐるぐると歩き回るようになってしまう。学者というものは、そういうものなのかもしれない。
「記憶や心理風景を整理する作業は、文字起こしによるとは限らないと思うんです。絵や図に表現することだってできるし、むしろその方が、様々な要素の関連性を見出せるのかもしれません」
エプィヌは、橋の上から意見を述べた。お前はどう思う、と見解を求めてくる時の博士の声色が、耳元でよみがえる気がした。
弾かれたようにはっと顔を上げ、こちらを見やると、真剣そのものだったユディトの表情が、ようやくほころんだ。
「素晴らしいわ」
彼女は、さらに、自分自身を納得させるように続けた。
「人や物に限らず、思想や文化といった、必ずしも形あるとは限らないものの、移動や流動性までもを全て描画するならば、きっと網目のような壮大な結果が目に見えるのでしょうね」
一つの結論に到達したことに満足したのか、宝物を発見した子どものように嬉しげだ。エプィヌは、つくづく、この女主人は博士に劣らず不思議な人だと思った。
橋を渡り切ったところで、ふと視線を泉に戻すと、近付いたぶん、より鮮明に水中を確認することができた。
「そういえば、さっきの……天井の彫刻は」
鑿跡一つないほど滑らかな、巨大な大理石の天蓋を思い出す。エプィヌは、ほとんど無意識に口を開いた。
「あれは、『フェンサリル創世神話』でしょうか?」
「ーーええ」
すでに回廊に上がり、部屋の扉に手をかけていたユディトは、何を思ったのか、振り返った後に少し間をおいて返答した。
「そうよ、このターリア王国の創世神話。今では古い貴族の邸宅にあのように残っているくらいで、全く語られないといっても過言ではない、古い話だわ」
「そうだったんですか」
エプィヌにとっては意外だった。博士はずっと、神話を追い続けて丘の人の長老に伝承を聞きに行ったり、石板に刻まれた古語を読み解こうと机にかじりついて離れなかったり、それが当たり前だったのだ。
ーーはるか太古の昔、世界に天と地と海、日と月しか存在しなかった頃、世界の中心にはエンドラットという、空を覆いつくすほど立派な枝ぶりを持つ巨木があった。エンドラッドはある時恵みの雨を受け、花を咲かせ、たくさんの実をつけた。それらの実からは様々の動物たちがつがいで生まれ、最初の人間アッティラとドゥリンも生まれた。アッティラは男でドゥリンは女であった。二人は結ばれ、次々に子をなした……。
(ターリアは、天罰を恐れずに神の血を引く悪王を滅ぼし、その功績から国の名に冠された初代の王。神という曖昧な存在に左右されず、政を立て直し、今の平和がある)
神のない国において、かつての神話を語ることが憚られるのは当然だろう。特に王都では、その傾向が強いのかもしれない。エプィヌは冷静に推測した。
(博士は学者だから、当然のように語っていたけれど……)
改めて、自分の暮らしを離れ、遠くまでやってきたのだと痛感した。
(これからは、ここがわたしの生きる場所なんだ)