第一章 宝石の王都 (2)
細かい襞を畳んだ薄絹のブリオーが、背後の彩りを透かして、柔らかい木漏れ日の中に、その女人の姿をくっきりと浮かび上がらせている。腰の位置で締めた飾り帯には、宝石の粒がいくつかぶら下がっているようだ。時折かちりと輝いては光球が振りまかれ、エプィヌはその眩しさをまともに受けて、はっと我に返った。
ぎぃと音がして、かすかな冷気が忍び込んできた。いつの間にか先に馬車を降りていたノルドが、こちらにやって来て、外から扉を開いてくれたのだ。
「足元にお気をつけて」
エプィヌは、踏み台をつたって慎重に降り立った。枯れ葉一つ落ちていないくらい、あまりに綺麗な石畳だったので、靴裏についた荒地の腐った土が、清浄な庭を汚しはしないかと、気を張っていたのだ。ーー否、本当は、あの女人と対面するのに、胸がはち切れんばかりにどきどきして仕方がなかった。博士と机を並べた仲という人……そのような才ある人に、自分がどのように見られるのか。考えても実の無いことと分かりつつも、落胆されることを恐れていたのだ。
しかし、女人が馬車の到着に気付かぬわけはなく、すでにベールに秘められたその視線は、こちらへ注がれているようだった。今まで剪定でもしていたのだろうか。はめていた革手袋を外すと、地面に置いた籠に鋏を収める。漏斗のように大きく広がったブリオーの袖口には、小ぶりな薔薇が数本、ちらりと覗いていた。
「あれが主でございます」
ノルドはそっと耳打ちし、帽子を取ると一歩後に下がって深々と礼をする。エプィヌもそれに倣い、ローブの裾を持ち上げて腰を落とした。
「固くならないで」
思いがけず、丹田に響く凛とした声が大気を震わせた。
「待って、今そちらへ行くから」
薔薇の花むらの向こうから、円形の噴水の半周をぐるりと巡り、飛び石を跳ね渡って来る様子は、うら若き少女のようでもある。
ややあっけにとられていたエプィヌは、彼女の足取りに合わせ、白く長い裾がふわりとひらめくのを見て、頭の中で繰り返し考えていた挨拶の言葉も、緊張のためにすっかり消え失せてしまったことに気が付いた。
「長旅で疲れたでしょう。無事にいらっしゃって何よりだわ」
近づいてみると、その女主人は想像していたよりも小柄だった。だからというわけではないが、年齢不詳という印象を受ける。博士と同い年と聞いていたので、すでに四十にはなるはずだが、入念に化粧をほどこしているわけでもないのに、とても盛りを過ぎたようには見えなかった。それでいながら、目の前に立つ者に、背筋をしゃんと伸ばさせるような威風がある。一体どこから、そんな凄みが滲み出ているものなのかと、エプィヌは圧倒される思いで、彼女と向き合った。
「わたくしがユディト、あなたを育てたペリドットとは学友だったのよ」
羽織ったベールが風でめくれると、額にかかる漆黒の髪がつやつやと覗き、その下には、こちらを真っ直ぐに見上げる強い瞳があった。澄んだ泉の奥の暗がりを覗き込むような、青とも黒ともつかない深い色だ。
(ノルドさんと少し似ているような)
二人は同郷なのだろうかと、エプィヌは刹那に思いを巡らせたが、挨拶をしなければという焦燥感のせいで、その考えはすぐに立ち消えた。
「ヨークから来ました。ヴィーヴェランのエプィヌと申します。ユディト様、この度はお招きくださり、ありがとうございます」
咄嗟にフードを外したエプィヌは、真っ白になった頭で、必死に紡ぎ出した簡素な言葉を並べ立てた。鼓動が早鐘のように打っている。想定よりもか細い声しか出てこなかったので、自分でも何を言っているのかが聞こえないほどだった。
これまで博士以外の人と関わることのなかったエプィヌは、見知らぬ相手を前に、どういう顔をすればよいか全く分からなかった。恥じらいをごまかそうと頭を一振りすると、右肩に乗っかっていた姫百合の色のおさげが、背中の側にこぼれて垂れ下がった。それを見たユディトは、ノルドと目配せをすると、肩をすくめて吹き出した。
「まあ、本当に、いばらのお姫さまのような娘さんだこと」
「はあ……」
挨拶もそこそこに突拍子もないことを言われ、戸惑いを隠せないエプィヌは、無意識に眉根を寄せた。
「――変わっていると、そう言われるのには慣れています。この髪の色、それに目の色。ベルグフォルク(丘の人)の皆とも、王都の民とも、あまりに違うから」
「いやだわ」
ユディトはやれやれとでも言うように吐息をついた。
「あなた、そんなこと気にしているの?」
(そんなことを言われても……)
エプィヌはどう答えれば良いか分からず、押し黙った。容姿のことを誰かに言われても、反論したことなど一度もなかった。丘の人は、世間的に見れば虐げられた人々だ。博士は彼らの土地に間借りするように暮らし、エプィヌもその中で育ってきたが、誰も二人のことを本当の意味で受け入れてはいなかったし、決してあちらから声をかけられることもなかった。もちろん、エプィヌの容姿が異端だということも、彼らは陰でそう言い合っていただけであり、普段はすれ違っただけで道の脇に下り、こちらが行き過ぎるのを待っているような人々に対して、悟っていることを気取られてはならないような気がしていた。
「わたくしの目を見てごらんなさい」
何かを察したのだろう。女主人は、穏やかな声で言った。
「わたくしは、この目のおかげで色んなことを経てきたわよ。それはペリドットだって同じはず。けれどね、人と違うことなんて、考えてみれば当たり前だわ。ただ、あなたやわたくしたちの場合、その違いが、はっきりと見えるところにあってしまうというだけ」
彼女の一本筋の通った声の響きには、すっと胸に届くものがあった。
「だとしても………いばら姫というのは。姫、なんかとは程遠い、荒れ地の娘です」
「とてもきれいだということよ。素直に受け取っておきなさい。それにね、これはあなたのことを語る、ペリドットの決まり文句だったのよ」
「博士が?」
エプィヌは目を丸くし、わずかに息を呑んだ。彼がそんな風に自分のことを語っているなど、思いもよらなかったのだ。その衝撃は、時の流れに楔を打ったかのように、エプィヌの心にさざなみを立てた。
どこからか薄黄色の蝶が訪れ、呆然と立ち尽くすエプィヌの周りを、ひらひらと巡って、陽だまりの方へと飛び去っていった。その姿を追って庭の奥の方を見やりながら、ノルドがしみじみと呟いた。
「ーーうちに春の妖精がやってきた、まるで早咲のいばら姫だと、ペリドット殿からの文が主のもとに届いたあの日が、まるで昨日のことのようですの」
「そうね」
そう言ってうなずき合う主従の方を、エプィヌはやはり、気恥ずかしさから、まともに見ることができなかった。
「ーー春の妖精、ですか?」
赤面しながらもじもじと小声で問うエプィヌに対し、ノルドはお構いなしという風に続けた。
「最初の文は十八年も前のものになりますかね。あなたさまがやってきた朝、ヴィーヴェランの丘の花々がいっせいに花開いたのだと、ペリドット殿は文に書いておられたとか。その年、ヨークはたいへんな厳冬だったそうです。待ちに待った春を運んできたのが、あなたさまだったのです」
記憶の中の博士は、いつも机に向かっている。山ほどある史料を日光から守るために、明かり取りの窓が一つあるきりの、半地下の倉庫を書斎にしており、ランプの灯火が、博士の黄金色の髪を夕陽のように染めていた。書き物をする時に使う羽根のペンは、酷使されてすぐに傷んでしまうが、捨てずに花瓶に次々と挿していくので、机の上や椅子の周りは、どんどんいっぱいになっていく。
しかし、毎年春を過ぎる頃になると、博士は決まって、古びたペンを片付け始めるのだ。エプィヌは傷んだペン先を切って羽だけにしたものを街に下りて売り払い、小銭に換えた。そしてしばらくすると、どこからかたくさんの薔薇の花が届き、空になった花瓶たちをいっぱいにした……。
『薔薇の棘は魔除けになる』
そう言って、博士はエプィヌの枕元にも花瓶を置く。博士の書斎には収まりきらず、古城のいたるところを埋め尽くした様々の薔薇の色目が、今でもまぶたの裏に浮かぶようだった。
「そんなの、偶然ですよ」
様々な憶測を振り払うように、エプィヌはやんわりと言い放った。
「そうかもしれないけれど。でも、あなたという存在に希望を託したペリドットだったからこそ、きっと、信じたかったのでしょうね」
ユディトは、ノルドの肩を持ってそう言ったのかもしれなかった。しかし、エプィヌはふいに、あの薔薇の贈り主が誰なのかを悟ったような気がした。
(ユディト女史……この人はいったい、なぜそんなことをしていたのだろう)
なんとなく、今すぐに聞くのは突然過ぎるし、憚られる気がした。もしも博士との間に、学友としてではない何かがあったとしたら……。エプィヌには、受け入れる心の準備がなかった。
「それはそうと、さっき摘んでおいたのよ。あなたの部屋に飾りましょう」
目の前の少女の胸騒ぎを知ってか知らずか、ユディトは袖に入れた薔薇の花弁をさすりながらそう言った。