第10話 忘れ者の街
「……」
シルは呆けた表情で空を飛んでいた。
バランスは安定しているものの、ただ呆然と前を向いて飛び続けている。頭の中はルドのことで一杯だった。
笑っている顔、澄ました顔、はにかんだ表情、考え事をしている顔。あらゆる表情のルドを思い浮かべて、その度にシルの胸が熱く高鳴る。
次第に頬が熱を帯びて、赤く染まっていく。
そうして心ここにあらずで空を飛んでいると、前方を見ていなかったせいかシルは大木にぶつかってしまった。
「ぐぇっ」
正面からぶつかってしまったシルは呻き声をあげて地面に向かって真っ逆さまに落ちてしまう。
シルは溜息を吐いて仰向けに倒れたまま空を眺めていた。
「……私なにしてたんですっけ」
シルはもはや何故自分が旅をしていたのかすら忘れそうになっていた。
寝っ転がったまま空を眺めていたシルだが、そこへ通りがかった人がいた。
「魔女さん、こんなところで何を?」
「いえ、別になにかをしていた訳ではないのですが……そういうあなたは何用で?」
「私かい?私はね……なにしに来たんだっけねぇ」
通りすがりの女性はシルの質問に首を傾げた。シルがこの人は一体なんなのだろうと不思議に思っていると、女性はそのままどこかへ立ち去ってしまった。
変な人にあってしまったと考えていると、ふとシルは先程まで女性が立っていた場所に財布が落ちていることに気がついた。
「おや、落し物ですか……とりあえず近くの街に届けに行きましょうか」
シルは箒で空を飛び、最寄りの街にたどり着いた。
看板に記されている街の名前は『忘却の街オブリビオン』らしい。変な名前の街だと思いつつ、シルは門番に話しかけた。
「すみません、恐らくこの街の人の物だと思うのですが、忘れ物です」
「そうか、では預かり所への地図を渡そう……むむむ?忘れてしまった。仕方がないから今から思い出す、しばし待て」
門番はうんうん唸りながら地図を書こうとする。空からそれっぽい場所を探せばいいのではと思ったシルだが、折角の好意を無駄にするのも忍びないので任せることにした。
そしてたっぷり30分使って完成した地図を受け取った。しかし、出来上がった地図は道や道中の建物の名前も曖昧だった。
「うーん、見づらい地図ですね……それに目的地の14番保管庫ってどういう名前なんでしょうか」
「それはね」
突然話しかけられシルは驚いて背後を振り向いた。そこには街の住人と思われる女性がいた。
「この街の人は忘れっぽくてねぇ。忘れ物を預かる保管庫が全部で30もあるのよ」
「……そんなにたくさん保管所を作るより大きな保管所を1つ作るほうがよかったのでは?」
「そんな案もあった気がするわねぇ……でも結局いっぱい作ることにしたのよねぇ」
「なぜですか?」
「大きな保管所を作る計画を忘れちゃってて……」
「……」
この街は大丈夫なんでしょうかとシルは不安になった。
とりあえず保管所に財布を預けて外に出たシルは、観光でもしようかと街の中を歩き回ったが、周囲はどこもなにかを忘れている人しかいなかった。
「すみません、明日の待ち合わせ何時でしたっけ」
「俺のそろばんどこにあるか覚えてる?」
「私のお母さんって名前なんだったっけ……」
道すがら出会う人が全てなにかを忘れている様ははっきりいって異常だった
気味悪く思いながらも街の中を歩いていると、中央に大きな石像が立っているのが見えた。正確には石像が寝ている、とでも言うべきだろうか。
寝っ転がった姿勢のハムスターらしき動物の石像が、街の中央に鎮座していた。
シルは石像付近の住人に話を聞くことにした。
「あの、この石像になっている動物は一体なんなのでしょうか」
「ああ、これはタレハム様と言ってな……」
「あんた、ぐでハム様だよ」
「おねハム様じゃなかったか?」
「そうだったかのう……」
数人の人々の話し合いでこのハムスターの名前がおねハム様ということになり、一体何故石像として祀られているのかがシルは気になった。
「おねハム様はな、かつてこの地が戦乱に巻き込まれていた頃」
「ん? これができたのつい最近じゃなかったか?」
「いや、わしが子供の頃からあったぞこれは」
「えー、でも俺がハタチの頃工事してたぞ」
「あんたそれ修復してた時の話じゃないの」
「この像三代目じゃなかったかのう」
ひょっとしてこの街にいても何も得るものはないのではないでしょうかと不安になるシルだった。
結局、昔からある像だということは分かったが何を目的として作られた像なのかは分からなかった。シルは石像を触りながら見上げる。サイズの割に、この石像は随分と寂れて見えた。そして、あることが気がかりになりシルは街の人々に尋ねた。
「あのー、つかぬことをお聞きしますが……このおねハム様、この地を護る精霊だったりはしませんか?」
「それはないのう。おねハム様はかつてここの地主だった男のペットだったんじゃ」
「え? この地を創造した神様じゃないの?」
「俺はてっきり名物のゆるキャラかなにかかと……」
結局正確なことは分からなかったものの、そう言えば街の北の森におねハム様を祀る祠があったような気がするという話が出た。
シルはその話が正しいのか調べるため、祠を目指すことにした。というよりも、もはやこの街で実のある体験がその精霊様に話を聞くぐらいしかなさそうだ。
街の外へ行こうとしたシルを、先程まで話をしていたおじいさんが呼び止めた。
「魔女さんや、気をつけたほうがええ。その森の水は危険なんじゃ」
「……なにか危険な成分でも?」
「詳しいことは忘れたが……恐ろしい毒が含まれているんじゃ」
「毒水ですか」
随分と危険な地帯になっているんですねとシルが感心していると、隣にいた男性が首を傾げた。
「え? 魔力を遮断するとかじゃなかったか?」
「笑いが止まらなくなるんじゃ……」
「……」
やはり何も信用できない街だとシルは呆れるしかなかった。
そして、街から離れて森に入り、数十分は箒に乗って移動していただろうか。ようやく噂の祠にたどり着いたシルは中に入って様子を探った。
こじんまりとした手入れもされていない祠を、シルはとりあえず魔法を使って見た目だけでも清潔に戻した。
そして、祠に残る微かな魔力の残骸から祀られていた精霊を呼び出す為に魔力を注ぎ込む。そして、祠が一際眩い光を放った祠から、石像になっていた姿そのまま……ではなく、太った猫の姿をした精霊が現れた。
「……あのー、もしかしておねハム様でしょうか」
『んー……ん? もしかしてあの街の連中まだワシのことをハムスターだと思ってるの?』
久しぶりに顕現したおねハム様……正確な名前は忘猫様というらしいが、ともかくその精霊が詳しい話を教えてくれた。
なんでも、元々忘れっぽいこの地の人々は知恵の神である忘猫を祀り、決して知識を忘れることのない知恵を授けてもらおうとしたという。その代償として、毎日この祠に参拝するという条件を出したという。
街の人々は条件通りに毎日祠を参拝し、忘猫様のご加護を受けていたらしいが……
「結局、毎日の参拝を忘れてしまったと」
「うむ。恨んではおらぬがこれでは加護してやることもできん」
「……一応聞きますが、また参拝すれば街の人々を加護してくださいますか?」
「それは構わぬが……次はいつまで持つかのう」
忘猫様はどこか遠くを眺めているようだった。
「以前は何年持ったんですか?」
「3週間くらいかのう」
「……」
もう見捨てても許されるのではないでしょうか。そう思いつつもシルは森の水を汲んで祠にお供えをした。
透けていた忘猫様の体が多少くっきりと見えるようになり、忘猫様はシルに頭を下げて感謝する。
「礼を言うぞ魔女の子よ。ワシはこれから街に行ってこのことを伝えようと思う」
「はい、お元気で」
シルは街に向かって飛んでいった忘猫様を見送ると、一仕事終わったと安堵して肩の力を抜いた。
しかし、安心していたシルの元へ忘猫様が戻ってきた。一体何事かとシルは不安になった。
「あのう、オブリビオンってここからどの方角じゃったっけ?」
「……」
もしかしてこの精霊当てにならないのではないでしょうか。シルは自分のしたことが無意味に終わるような予感がしてならなかった。
そして、森の外まで忘猫様と同行したシルは街へと向かった忘猫様を見送ってようやく肩の荷が降りた気分がした。
「なんだが今日は人一倍くたびれましたね……今後ここに来ることがあってもこの街には立ち寄らないようにしましょう」
とにかく相手をしていて疲労の溜まる相手ばかりだと痛感した。
本当に疲れる……が、終わってみれば中々楽しい人達だったと今はシルは思った。
「……さて、あの街では聞き込みも期待できませんし、次の街に向かって行きましょう」
師匠を探すために、出発しようとシルが思った瞬間だった。
「お姉様」
不意に、幼い女の子の声が背後から聞こえてきた。
咄嗟にシルは背後を振り返る。振り返った先には……金髪の少女、ルドが人形を抱えて立っていた。ルドは嬉しそうに笑みを浮かべたままシルを見つめている。
「……ルド? どうしてあなたがここに」
いるんですか、とシルが尋ねようとした瞬間だった。人形の後ろに隠していた杖をルドはシルに向ける。
「ノクターンシップ」
「ぇっ」
ルドの杖から放たれた死の呪文がシルの胸を貫く。シルはゆっくりと仰向けに地面に倒れ、そして瞳から光が失われていく。
こうして、静かにシルの命の鼓動が止まった。