「今度の体育大会、俺が一位だったら付き合ってくれ」「は?嫌よ」
「今度の体育大会、1,500m走で一位取れたら俺と付き合ってくれ!」
「は? 嫌よ」
小泉 茉莉花は俺の顔を迷惑そうに一瞥した後、ため息を吐いて去っていった。
これで俺の恋は終わり。終わるはずなのだ。それなのに、どうして。
どうして俺は、今日も走っているのだろう。
「おー、佐倉くんまた走ってるねえ」
「だから何?」
「茉莉花、佐倉くんが一位だったら付き合うんだっけ?」
「それは断ったって言ったでしょ」
「いいじゃん、佐倉くん結構いい人だと思うけど」
「じゃあアンタが付き合ったら?」
「ざんねーん、私には彼氏がいるので」
「あっそ」
昼休みのグラウンド、みんながボール遊びをする中で走る俺の姿は、はじめ好奇の目で見られていた。今では気に留める人はほとんどいないが。
うちの高校の規則は緩く、昼休みは遊ぼうが寝ようが好きにできるのだが、ひたすら走っているのは俺だけだ。
小泉にフラれたことはクラスメイトも先生も知っていて、「なんで走るんだ?」って誰もが疑問を投げかけてきた。
その度に俺はこう返してやるのだ。
「さあ?」
実のところ、走る理由は俺にもわからん。来月の体育大会で一位を取ったところで、小泉と付き合えるわけでもなし。
それでも俺は走り続けなければいけないと思った。走り続けたいと思った。
だから俺は訳もわからず、今日もグラウンドを走り続けるのだ。グルグルグルグルと。
「ちょっと、いい加減にしてよ」
「小泉……」
昼休みが終わる直前、小泉はしかめっ面で俺の走る道を塞いだ。
「何なの? 当てつけのつもり?」
「いや、そういうわけじゃ」
「じゃあ何だって言うのよ」
いつもの「さあ?」という返答が通用しないことは、小泉のつり上がった眉から想像できた。
しかし何と答えたものか。嘘はつきたくないし、かといってごまかす方法も思いつかん。
俺が答えに窮していると、小泉は前と同じように小さくため息をついた。
「とにかく走るのはやめて。迷惑なの。こっちまで変な噂立てられるし」
「わかった、すまんな」
「謝るなら最初からやらないでよ……」
小泉は肩を落としながら校舎へと戻っていった。
怒った小泉の姿も愛らしいが、まあ迷惑だと言うならやめておこう。
さて明日からどうするかな。
「アンタさあ、バカにしてんの!?」
勢いよく頭をひっぱたかれた。脚に疲労が溜まっていた俺は重力に逆らえず膝から崩れ落ちる。
倒れた姿勢のまま後ろを振り返ると、またしても眉間に皺を寄せた小泉が仁王立ちしていた。
「本当頭おかしいんじゃないの、アンタ! 昨日の今日でこんな……」
「いや、でも今日は走ってないんだが」
「だからってなんでグラウンドの中央でスクワットしてんのよ! 余計目立ってるじゃない!」
なるほど確かに俺は目立っていたように思う。なんかいつもより視線を感じたし。だが「走るな」という小泉との約束は守っていた。
「この石頭……もっぺん叩かれないとわかんないの?」
「すまんかった。もう目立つことはやめる」
「本当最悪……何なのもう……」
俺の謝罪が終わるよりも早く、もう小泉は校舎へと戻り始めていた。
怒らせるつもりはなかったのだが、怒ってしまったものはしょうがない。
さて明日はどうやってトレーニングをしようか……
「なんで? なんでそうなるの? やっぱり頭おかしいんじゃないのアンタ」
「なんで、って。小泉が目立つなって言うから……」
「だからって授業中に空気椅子するバカはいないでしょ……!」
「いるだろここに」
「アンタねえ!」
「おーいうるさいぞ小泉。授業中だ」
「す、すみません……」
先生から注意を受けた小泉は恨めしそうな目で俺を睨み付けた。
俺たちの席は教室で一番後ろ。しかも俺は隅の席なので空気椅子をしたところで小泉からしか見えない。だから何の問題も無いと思ったのだが。
「最悪……アンタに告白されてから調子狂いっぱなしだし……」
小泉の呪詛を無視して空気椅子を続けていると、横から蹴りが飛んできた。
触れられる前からプルプルと震えていた俺の脚は、一気にバランスを崩す。
ガターン! と激しい音が教室に響き渡った。
「うおっ!? って、なんだ佐倉か。居眠りでもしてたか?」
「いえ、ちょっとトレーニングを」
「授業も聞かずにトレーニングとはいいご身分だな。今やってた範囲だが、ムガル帝国の三代目君主は?」
「アクバルです」
「聞いてたのかよ!」
先生のツッコミに教室中が笑いに包まれる。ただ一人、しかめっ面の小泉を除いては。
放課後。俺は小泉に呼び出されて教室に残っている。告白の返事……とかではないだろう。俺もそこまで楽観的ではない。
なぜなら、小泉は泣きそうな顔で俺の前に立っているから。
「佐倉さあ、私に嫌がらせしたいの?」
「そういうつもりは……」
「じゃあどういうつもりなのよ! アンタが一位を取ろうが取るまいが私はアンタのこと嫌いなの! わかってる!?」
「わかってる」
「じゃあ、なんで」
「俺は……」
小泉に何度も怒られる中で段々わかってきた。俺は小泉のことをちゃんと諦めたいのだ。彼女を諦めるためには、一位を取った上でフラれたい。理屈も道理もない、ただの意地なのだが。
「だいたい私のどこがいいって言うのよ……口も悪いし」
「でも正直だ」
「性格だってキツいのに」
「俺は鈍いからな。小泉くらいハッキリ言ってくれる方が有り難い」
「はあ……アンタ本当意味わかんない」
小泉はまたため息をついて、そのまま通学鞄を担いで去っていった。
まだ怒っているようだったが、とりあえず涙は止まったようで良かった。
そして迎えた体育大会当日。うちの高校の1,500m走は陸上部が出場せず、学年別になっているので一位を取るのは不可能ではない。
そう、例年であれば。
「お前に小泉さんは渡さねえぞ。え? フラれた? マジ?」
バスケ部二年の枕木。バスケ初心者ながら身体能力の高さでレギュラーを取った実力者だ。
「なんかワケありっぽいけど……手を抜く気はないよ。負けるの嫌いだし」
テニス部二年の越後。二年ながらもテニス部でエースを張る男だ。クールな性格だが負けず嫌いでもあるらしい。
「いい勝負にしよう、って言いたいけど負けたら先輩が怖いからなあ……」
アメフト部二年の早川。小柄ながらも俊敏さで活躍する選手だ。大人しい性格だが、校内でも指折りの俊足で有名で、一番の強敵かもしれない。
俺が一位を取るためにはコイツらを全員倒さねばならない。だからこそ俺は今日まで研鑽を重ねてきた。
水泳部の俺からすれば陸地はホームグラウンドじゃないが、体力だけなら負けてはいないはず。そう思いたい。
走者待機場所からうちのクラスを見ると、後ろの方に小泉の姿が見えた。俺を見守ってくれている……とかそういうわけではなく、小泉の友達(浅木)に捕まってレースを見学させられることになったようだ。
浅木が手を振ってくれたので、こちらも手を挙げて応答する。小泉は……俺と目が合うと不愉快そうに目を逸らした。それでいい。それでこそ走る気力が湧く。
レーンに立つと、身体は熱いのに血が冷えるような不思議な感覚に襲われた。部活の大会と同じだ。ここまで来れば、もう結果を出すしかない。今の自分にできることを、精一杯、目一杯。
「位置について……ヨーイ」
パン、と電子ピストルが鳴る。開幕の100m、先頭を走るのは早川だ。それに続くのが越後、枕木、そして俺。他にも二人ほど出場者はいるが、勝負になるのは俺たち四人の間だろう。
四人の距離は200mを過ぎても変わらない。後続とはかなり差が開いた。息が苦しくなってくる。でも、嫌いな感覚じゃない。
300m、400mと来てようやく枕木に追いついてきた。もう少し、もう少しで追い抜ける。
だが枕木はここに来てスピードを上げ、俺たちの距離はあと少しのところで縮まらない。わかってはいたが、たやすく勝てる相手ではなさそうだ。
500m、600mと過ぎて枕木と俺が越後を追い抜いた。これで俺はようやく三位。まだ半分以上はあるが、楽観視はできない。越後も体力を切らしてはおらず、隙あらば俺を抜くつもりだろう。心臓が張るような感覚が迫ってくる。一段と息が苦しくなってきた。だが脚を緩めるわけにはいかない。
700m、800m、900m、まだ先頭の早川どころか枕木も追い抜けていない。このままではジリ貧だ。距離はまだ半分近く残っているが、ここでスパートをかけなくては。
グッと気合いを入れて枕木の横に並ぶと、枕木は驚いたような顔で俺を一瞥した後、そのまま後ろに流れていった。わかるよ、諦めの悪い奴は厄介だよな。
残るは早川のみ。1,000m、1,100mと過ぎて早川との距離は縮まってきているが、このままでは逃げ切られる。
陸上にせよ、水泳にせよ、一発逆転ホームランは存在しない。積み重ねてきたものだけが物を言う。そのシンプルさが俺は好きなのだが、今日だけは逆転打が存在して欲しかった。
1,200m、1,300m、もう後が無い。早川はすでに手を伸ばせば届きそうな距離にいる。しかしあと200mで逆転……できるか?
「勝つんじゃないの、このバカ!」
聞き慣れた罵声が耳に響く。クラスの席を見るまでもない。誰に向けられた言葉かなんて考える必要もない。今このグラウンドで走るバカな男なんて、一人しかいないからだ。
1,400m、早川に並ぶ。声援が力をくれたとか、そんな魔法みたいな話じゃない。今日まで積み重ねてきたトレーニングが功を奏しただけだ。別にお前のお陰じゃない。だからちゃんと俺をフッてくれよ、小泉。
ゴールテープが見える。早川もスピードを落としてはくれない。風がビュンビュンとうるさい。最後の直線、動け、動け脚!
「あーーー」
ゴールと同時に倒れた早川が唸る。
「負けたよ」
そうか、俺は、勝ったのか……
「小泉、見ててくれたか」
「見たわよ。で、何? 一位だったから付き合ってくれなんて言わないよね?」
「そんなつもりはない……気持ちの整理をつけたいから、もう一度断ってくれればいい。俺と付き合ってくれ」
小泉はいつものように「はぁ……」とため息をついて、むず痒いような表情を浮かべた。
「どうした? きっぱり拒絶してくれればもう俺はお前に話しかけないが……」
「は? 嫌よ。なんで私がアンタの言う通りにしなきゃいけないの」
「えっ、そんな……」
小泉にもう一度フラれないと俺の気持ちの行き場が……
「だいたいアンタねえ、常識が無いのよ。告白とかってのは何度かデートした後にするもんなの。物事には順序ってのがあるのよ」
「すまん、言ってる意味がいまいちわからん」
「鈍い男ね。順序くらいは踏ませてやるって言ってんの」
「ん? それってつまり……」
「つまんなかったら今度こそフッてやるんだから」
そう言って、小泉は初めて俺の前で笑顔を見せた。