ミルラの香り
「メエェ……。メエェ……。」
というヤギの鳴き声が月へと向かう光の橋となって、夜空に架かっていました。
「おはようございます。今宵も良いお天気ですね。」
と、自転車に乗った郵便配達夫が、月に挨拶をしています。彼は月に宛てて書かれた恋文を届けたところで、これから、月から受け取った恋文を届けに行くところなのでした。
月は恋をしていました。相手は王子さまであり、旅人でした。その人は月よりもずっと長い時間を生きていましたから、月にいろいろなお話を語ってあげることができました。
月はいつまでも二人で一緒にいたいと願いましたが、王子さまは旅人でもありましたから、同じところに居続けることはできませんでした。月もそのことを分かっていたので、ミルラという防腐剤に浸した包帯で、王子さまをぐるぐる巻きにして、永遠に自分のものにしようと考えました。王子さまは殺されてはかなわないと思い、こっそりと自分を子ヤギとすり替えました。子ヤギは包帯でぐるぐる巻きにされて、そのまま死んでしまいました。先ほど鳴いていたヤギは、実はこの子ヤギを探して鳴いていたのでした。
王子さまは出発のまえに、森に住んでいる猟師のおじいさんに、あるお願いをしました。それは、月はおそらく自分に宛てて恋文を書くだろうから、代わりにそれを読んで返事を書いてほしいというものでした。報酬は先に十分に与えるから、と。王子さまにとって、これは優しさゆえの裏切りでしたが、おじいさんのほうも、最近になって足を悪くしていて、これから先どうやって暮らそうかと考えていたところだったので、喜んでこの依頼を引き受けることにしました。
そうして、おじいさんのもとに月から恋文が届くようになりました。はじめのうちは、おじいさんもちょっと面倒な仕事だなと思いながら、月からの恋文を読み、月への返事を書いていましたが、恋文を読んだり返事を書いたりしているうちに、だんだん、いまは亡くなっている、おばあさんのことを思い出すようになりました。そうして、おじいさんは月からの手紙をじっくりと読み、真心を込めて月へと手紙を書くようになりました。ですが、実際のところ、それはおばあさんへの恋文なのでした。おばあさんこそが月でした。月へ送る恋文には、ミルラの香りを染み込ませて送るという決まりごとがありました。それは、少しでも月の慰めになるようにという、王子さまの発案によるものでしたが、おじいさんにとってミルラは、いまも変わらないおばあさんへの愛の香りになっていました。何も知らない月にとっても同じことです。月にとってもミルラは、いまも変わらない王子さまへの愛の香りなのです。
ミルラの香りには、いつまでも褪せることのない、哀しい愛の思い出が込められているのです。




