特別なご馳走
食パンを食べながら、瓦木明日香はニュースを見ていた。
よく焼きめのついた食パンにマーガリンを薄く塗り、その上に苺ジャムをたっぷり塗るのが明日香の好きな食べ方だ。
そしてそれを、夏でも変わらず熱々のミルクティーで流し込むのが、毎日決まった定番の朝食だった。
毎朝同じ食事をしながら、決まったニュース番組を見るのがルーティンになっていて、この一連の流れが仕事へのスイッチになっている。
見ると言っても集中していないので、ニュースの内容は頭に入ってこない。
なので結局通勤中にネットニュースを確認するのだが、それが二度手間だといえばそうかもしれない。
この日も明日香はニュースを聞き流していた。
今日に限っていつもと違ったのは、ニュースから聞こえてくる人物の名前に聞き覚えがあったということ。
『―――山田加奈子、―――――』
(やまだかなこ……どこかで聞いたことあるような……)
長考しながらパンをかじるが思い出せない。
最後の一口を流し込み、マグカップを持ち直してテレビの方へ顔を向けてみたが、すでに話題は天気予報に変わっていた。
(どっかで聞いたことあるんだけどなぁ……)
このニュースはあとで電車で確認しよう、そう決めて食器を流しに運び、仕事へ向かう準備を進めた。
上着とバッグを手に取り、玄関で靴を履こうと屈んだ瞬間、唐突に名前の主を思い出した。
(あぁ、高校の同級生だ……そっか、加奈子ちゃん確か引っ越したんだっけ……)
まだ結婚してなかったんだ、と靴を履きながらなんとなく安堵し、スッキリして玄関に鍵を掛けた。
明日香は今年で32歳になる。多少なりとも結婚に焦りを感じていたが、急ごうにも相手がいないのでどうすることも出来ない。
周りがどんどん結婚する中、懐かしいかつての友人が自分と同じ未婚だと知り、無意識に安心感を抱いてしまったことに苦笑いした。
駅へ向かう道すがら、その懐かしの彼女が親の都合で引っ越してしまう1ヶ月前、ある後味の悪い話を聞かせてくれたのを、明日香はぼんやりとした記憶で思い出していた。
高校1年の春、同じクラスだった瓦木明日香と山田加奈子が仲良くなったのは、たまたま席替えで隣同士になったのがきっかけだった。
帰宅部にも関わらず、成長期の食べざかりで少しぽっちゃりしてしまった明日香に比べて、加奈子は明らかに太っていた。一度彼女の家族写真を見せてもらったが、全員太っていたので、そういう家系なのだろう。
たまたま隣り合わせただけの二人だったが、ダイエットという共通の話題で大いに盛り上がり、夏休みが始まる頃にはすっかり仲良くなっていた。
思春期の女子生徒はダイエットという言葉に人一倍敏感だが、程度の差はあれ、お互い太っていることを多少は気にしている二人にとって、それは他のクラスメイトよりも顕著だった。
「ダイエットしなきゃな〜とは思うんだけど、食べたい気持ちを我慢してまで痩せたいとも思わないんだよね〜ストレスはお肌の敵だからさ!」
これが加奈子の口癖だった。
確かに痩せたいという気持ちは嘘じゃないのだろうが、食事に関して自制心が全く働かないことを、ある種開き直った態度で正当化していた。
それに関しては明日香もある程度同じ気持ちでいたが、彼女はどちらかというと、「思春期のうちはいくら食べても大丈夫、すぐに痩せる時期が来るから安心しなさい」という母の言葉を信用している節があった。
明日香の母はよく食べる割に痩せていた。普段は口うるさい母を疎ましく思うことも多かったが、妙に説得力のあるこの言葉に関しては、盲目的に信じ切っていた。
そんなこともあって、夏休みが始まる直前に加奈子から切り出した「夏休みの間に標準体型まで痩せる」という言葉を、明日香は一切信じていなかった。
「ダイエットが成功するまで、夏休みは誰とも会わない」と強く宣言した彼女に対して、夏休みは遊べないのか、と残念に思ったぐらいだ。
だから、休み明けの最初の登校日、声を掛けてきた女子生徒が一瞬誰だか分からず、少し戸惑ったのも仕方なかった。
「おはよ〜1ヶ月ぶり!元気してた?」
そう言って気軽に肩を叩く女子生徒があの山田加奈子だと気が付き、そのあまりの変わりように明日香は驚愕してしまった。それは見事に痩せていたのだ。
「え?なに?加奈子ちゃん?うっそ、めっちゃ痩せたじゃん!なんでなんで?!」
頭のてっぺんから足の先まで、何度も見返しながらそう聞くと、加奈子は笑いながら「ダイエット頑張ったからね〜」とサラリと言ってのけた。
全校集会が終わり教室に戻ったあと、担任教師から少し長めの話と数枚のプリントを受け取ると、生徒たちはやっと自由の身になれる。
途端にガヤガヤ騒がしくなる教室内で、一段とにぎやかな席があった。
「山田さんすっごい雰囲気変わったよね〜ダイエット?」
「すごい可愛くなったね〜!どうやって痩せたの?!」
「教えて教えて!!」
数名の女子生徒に囲まれた加奈子が、困ったように彼女たちの相手をしていた。
「いや、ほんと別に何もしてないよ〜」
加奈子に群がる女子生徒たちを、明日香は心の中で熱帯魚と呼んでいた。
そんな熱帯魚たちは、何度聞いても同じ答えしか返ってこないことに苛立ったのか、面白くなさそうな顔をして帰っていった。
元々スクールカーストでは最下層だと自負している明日香は、校則に厳しい教師と対立しながらも、オシャレを楽しみ、休み時間のたびに群れてトイレを占領する彼女たちに、なんとなく苦手意識を持っていた。
彼女たちにとって明日香や加奈子は、より自身を可愛く見せるための引き立て役に過ぎないことを理解していたからだ。
「明日香ちゃん!良かった〜まだいたんだ……一緒に帰ろ〜」
加奈子もおよそ同じ気持ちだった。物珍しさと、牽制の気持ちを込めて寄ってきた彼女たちへの対応で、辟易した顔を明日香に見せる。
「見てたよ〜お疲れさま。……ふふ、人気者は大変ですね〜」
皮肉っぽく笑う明日香に、加奈子はわざとらしく口を尖らせて「やめてよ〜」と返した。
「でも確かに加奈子ちゃんすっごい痩せたからね、みんな気になるんでしょ。どっちみちあの人たち痩せる必要なんか全然無いのにね」
「ホントだよ〜。私はもとが太ってたから痩せやすいってのもあったんだし、どうやったのって聞かれてもね〜。今まで対して喋ったこともないのにさ〜」
「出る杭は打たれるってことですな~」
そうそう、と相槌を打ちながら教室を出る。
まだ昼前だが、気温は35度を超え、風もないのが余計に暑く感じさせた。
「ねえ、ちょっとジュース飲んでかない?」
加奈子が自動販売機を指さした。隣には日陰になったベンチがある。
「そうだね〜さすがにちょっと暑すぎ……」
缶ジュースを飲みながら、加奈子がふと口を開いた。
「……ダイエットさ、最初は全然うまくいかなかったんだ〜」
「え、でもすごい痩せたじゃん。大成功でしょ?」
「うん……実はね、すごいダイエット方法見つけたんだ……知りたい?」
明日香は期待するように首を縦に振った。
「ふふふ……すごい簡単なことなんだけどね。週に1度のご褒美の日を作って、美味しいものを我慢せずたくさん食べるの。その日のために他の日はほとんど食べなくなったんだ」
「なにそれ……なんか、普通っぽいね。てか、今まで我慢出来なかったのに、そんなにうまくいくもんかなぁ?」
「……ご褒美がね、特別だから。だから普段は食べなくても平気なんだよ」
特別なご褒美、それに秘策があるのだろうが、明日香にはいまいちピンとこなかった。
「特別なご褒美って……お寿司とか?」
「……絶対誰にも言わない?」
「もちろん、言うわけないよ」
加奈子は周りに人がいないことを確認すると、明日香にそっと耳打ちをした。
「……人肉だよ……」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。明日香は頭の中で今聞いた言葉を何度も反芻して、やっとそれが人の肉だと理解した。
「え……人肉って、ジンニク?……なに……え??」
からかわれているのだろうかと、加奈子の顔をまじまじと見るが、いたって真面目な表情でこちらを見つめている。
「ネットで知り合ったダイエット仲間の人とね、週に一度だけ食べるの。それがすごく美味しくて……もうね、他のご馳走なんか大した事無いって思えるから」
「…………」
明日香はただ黙って聞くしかなかった。
話しながら加奈子は、その人肉の味を思い出しているのか、うっとりと目を細めている。
「普段の食事は栄養を摂るためって感じかな。さすがにお腹も減るし、最低限は食べるんだけど、やっぱりご褒美の日に一番美味しく食べたいじゃん?だからなるべく普段は食べないようにしてるんだ〜」
嘘をついているのか、からかっているのか。明日香はだんだんと気味が悪くなってきていた。
「明日香ちゃんは信用出来るし、なにより大切な友達だしさ。良かったらみんなに紹介するよ?最初は怖いんだけどね、一回食べたらもう病み付き!毎週楽しみで仕方ないんだから!」
気持ち悪い……そんな心のうちが顔に出ていたのか、加奈子が急に押し黙って、そして突然大声で笑いだした。
「……ふふ……あははは!もう!嘘に決まってんじゃん!!なに本気にしてんの?」
「え……やだ、分かってるけどさ……さすがに冗談きついよ……?」
「あはは、ごめんごめん!でもリアルだったでしょ?」
「笑えないんだけど……」
ぬるくなりかけた缶ジュースを飲み干して、まだ笑いの収まらない加奈子が勢いよく立ち上がった。
「ダイエット仲間が出来たのはほんと。ご褒美の日を作ってるのもほんと。チャットでみんな励まし合いながらね、その日食べたもの写真で報告しあってるんだ。これだけでも結構効果的だよ?」
「へえ……そうなんだ〜……」
明日香の生返事に、加奈子は面白くなさそうに、そろそろ帰ろうと切り出した。
明日香は正直に助かった、と思った。今日の加奈子はどうしたって様子がおかしい。
黙ったまま歩く加奈子の少し後ろを歩きながら、明日香は気まずい空気を感じていた。
「あ、私今日こっちから帰るから。また明日ね」
そこは、いつもなら素通りする曲がり角で、もちろん加奈子の家はその方角ではなかった。
「あ、そうなんだ……えと、また明日ね〜……」
返事も聞かず、さっさと行ってしまう加奈子の後ろ姿を見ながら明日香は、どうして彼女はあんな冗談を言ったのだろうと考えていた。
痩せた彼女に対して、何か嫌な態度を取ってしまったのだろうか?
それとも言葉に棘でもあっただろうか?
無意識のうちに彼女が痩せられるはずはないと、見下してはいなかったか?
それを彼女が敏感に感じ取って、私にあんな話をしたのだろうか?
普段のあっけらかんとした加奈子からは考えられないことだが、それ以外に理由が思いつかなかった。
加奈子の後ろ姿が見えなくなると、ゆっくりと歩き始めながら明日香はため息をついた。
(そうだ、あれからほとんど喋らなくなったんだっけ……)
なんとなく気まずいまま明日香の方から加奈子を遠ざけるようになり、また、加奈子の方もその後すぐに転校することが決まった。
なんでもご両親の仕事の都合だと聞いたが、特に連絡先を交換することもなかったので、それっきりになっていた。
たった半年程度の付き合いだったのと、その後は別の友人がすぐに出来たこともあり、今日まで思い出すこともなかったのだ。
混雑する電車の車内で、スマートフォンを片手に山田加奈子と検索をかける。
ちょうど昨日のニュースがヒットしたので、それを開いて読み始めた。
『カルト宗教か?家屋から大量の白骨を発見』
こんな見出しで始まるそのニュースには、都内某所で男女10数名が集団生活をしていた家屋から、白骨化した遺体が出てきたと書かれていた。
おかしなカルト集団だと思った隣人が、おせっかいで通報をした結果、とんでもないものが発見された、ということらしい。
遺体の身元はまだ分かっていないらしく、逮捕された数名が、その遺体である彼らもしくは彼女らを「食べた」と供述していると続いている。
明日香は胃液が上がってくるのを感じ、すんでのところで堪えた。
えづきそうになるのを必死に我慢し、加奈子のかつての言葉を思い出していた。
「人肉を食べるの」
カニバリズムとでも言うのだろうか、当時の明日香には知らない言葉だが。
あの時加奈子は笑って嘘だと言っていた。しかし、それこそが嘘だったのだろうか。
あれから15年以上が経っているが、まさか彼女はずっと人肉を食べ続けていたというのか。
「一度食べたらやめられないよ」
「明日香ちゃんも良かったら、どう?」
恍惚とした表情で誘う彼女に対して、明日香はたしかに嫌悪感を抱いた。
だが同時に、彼女をここまで変えてしまう人肉とやらは、どれほど美味しいものなのかと、ほんの1ミリ程度の誘惑があったのも事実だ。
まさか本当に人肉を食べているだなんて、もちろん微塵も信じていなかったし、なにかの隠語だと理解しているつもりだった。
だからほんのわずかでも興味を持った自分を、そこまで非難するつもりはない。
ただ誘いに乗らなかったのは、彼女の語り口と表情が、とにかく気味が悪かったからだ。
もしあの話を聞いたのがわずかにもう1年遅くて、もっと親しくなっている頃だとしたら、同じように彼女を拒むことが出来ただろうか?いや、きっと出来なかっただろう。
誘惑に負けて、もしかしたら彼女と同じ末路を迎えていたかもしれない。
そう思うと、この現実離れしたニュースが他人事には思えなかった。
数人が遺体を食べたと話している以外、その他ほぼ全てに黙秘を続けているらしい。
遺体がどこから来たのか、今後殺人事件にまで発展するのか、そしてどうして食べたりしたのか。
その全てが未だに謎のままだ。
彼女もいつかは全てを話す時が来るのだろうか。その頃にはきっと、このショッキングなニュースも忘れられているかもしれない。
『人の肉を食べると気が狂う』
昔どこかで聞いた事がある。
今思い返しても、秘密を告白した加奈子は、休み前の彼女とは全くの別人に見えた。
(気が狂う、か……)
明日香に秘密を話した理由は最後まで分からずじまいだった。
もしかしたら止めてほしかったのかと、都合のいいように解釈しようともしたが、それもうまくいかない。
あの時の加奈子の顔は、ただ明日香と秘密を共有したいと、ワクワクしているようにしか見えなかった。
思春期の女子にはありがちなことだ。そしてそれは時として共依存という形にもつれ込む。
そうなっていれば、結果は最悪のものになっていただろう。
あの時友人を遠ざけてしまった罪悪感と、ほんの少しの哀れみでチクリと痛む心に明日香は、せめて自分だけは、狂ってしまった彼女のことをいつまでも覚えていようと強く誓った。